Xavier Stained Glass

Yamaguchi Chatholic Church

山口カトリック教会の歩み

上掲ステンドグラスはスペインから贈呈され、サビエルの山口における宣教活動を描いている。キリスト教展示館に展示。

宣教の土台を築いた聖フランシスコ・サビエルと大内義隆

聖フランシスコ・サビエル(以下サビエル)は、1549年日本に上陸した後、1550年11月初旬に山口に到着したが、山口ではキリスト教を広めることに非常に苦労していた。そのような状況下で当時の山口領主であった大内義隆(1507~1551年)に会えば道が開けるのではないかと思い会うことを決断した。


1回目の謁見が行われたが、これは失敗に終わった。大内義隆は、サビエルよりキリスト教の教理について説明を受けている途中で大きな疑問を抱き、途中でサビエルたちを追い払ってしまった。サビエルは、失意の中京都に赴き天皇に謁見を望むが果たせずにすぐ京都を去る。再び1551年4月に山口に戻り、大内義隆に謁見をした。その時、13品目の献上品を携えて会ったと言われる。献上品に気を良くした義隆はキリスト教布教の許可(裁許状)と大導寺(下記参照)を与えた。
13品目の献上品は、時計、オルゴール、鉄砲、眼鏡、望遠鏡、織物、ポルトガル布、葡萄酒、書籍、絵画、茶碗、花瓶などと伝えられている。
1551年8月頃には、山口市で5,000人程度の人々が、キリスト教信徒なった。ちなみに当時の山口市の人口は、50,000人であった。(サビエルについての詳細は、「St.Fransico Xavier」ページをご覧ください。)

大導寺について

現代日本カトリックの柱石をなした一人と言われているヴィリオン神父(1868年(明治元年)10月来日)は、大内義隆から与えられた大導寺跡を探すことに奔走した(「大導寺のおじさん」とも市民から呼ばれていたらしい)。1893年(明治26年)苦労した末に遂に大導寺遺跡を発見しました。それは、700年以上伝わる旧家で、江戸時代の富豪としても知られ、山口大年寄格として調整を司った阿部家のふすまの下張りから見つかった古地図に「大道寺」(”導”ではなかった)と書かれていた。それは、エラ(現在の宮野の江良)村の隣の金古曽の端に記されていた。しかし、この説は厳格な古文書学者、歴史学者の議論の的になったことも事実である。現在、そこは「サビエル記念公園」として、サビエル記念碑が建てられている。(山口カトリック教会発行「復起百年史」から要約)

 

キリシタン迫害・殉教時代

大内氏から毛利氏へと時代が移り、キリスト教徒は迫害を受けるようになるが、迫害を受けながらも信仰を守り通した。この時、1587年山口で洗礼を受け、信徒の鑑として豊臣秀吉のバテレン追放令後、神父無き教会で神父の代わりとして山口の信徒を支え続け、生涯を神への奉仕に捧げた琵琶法師ダミアンがいた。ダミアンは、2007年6月「ペトロ岐部と187殉教者」の中の一人として福者に列福された。


サビエルが山口を立ち去った後も山口に残った宣教師たちは、布教をつづけた。しかし、1557年に毛利氏が大内を攻め、町は焼き払われ、大導寺も失われた。一部の信徒は、九州などに逃げて信仰を守った。
1574年に一度だけ司祭が山口を訪問したが、戦乱の世であったので信徒は細々と信仰を続けていくことしかできなかった。 1586年黒田孝高と毛利輝元などとの話し合いにより、大導寺の土地が司祭たちに返され、新たな布教への足掛かりとなったが1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布したため司祭たちは、国外追放となり山口を追い出された。
司祭たちが山口を去る少し前に、盲目の琵琶法師ダミアン(詳しくはDamianのページをご覧ください)という男が、司祭たちに代わって信徒の支えとなり、福音宣教を始めるようになった。しかし、1605年萩の熊谷元直の殉教をきっかけに、ダミアンも殉教させられた。キリスト信徒への弾圧がますます強くなり、山口の信徒は隠れるように、現在の仁保から更に奥の村紫福へ移り住んだと言われている。

明治維新後の山口教会

日本国の鎖国が解け、1859年にフランスから宣教師(パリ ミッション)が来日した。しかし、その後も依然としてキリスト教徒への迫害は続いた。1873年、明治政府は、諸外国から「宗教の自由を認めない国」だとの批判を受け迫害が徐々になくなっていった。それから約10年の歳月を経て、1888年(明治21年)パリ外国宣教会コンパニオン神父(当時の写真準備中)が山口に赴任し、再び山口教会の復起が果たされた。
山口教会の再興と現在の山口サビエル記念聖堂が建立されるまでの経緯を年表にしてあるのでご覧ください。

その時々の山口教会

今道教会と大導寺跡(山口における初代教会と言われている)

1625年の大迫害の中で山口を訪れた最後の司祭ポルロ神父から約260年ぶり(1888年)に、パリ外国宣教会のコンパニオン神父が、次いでヴィリオン神父が山口に来た。最初は、民家を借りて祈りの家を開いた。1889年ヴィリオン神父は、町の中心から離れていた祈りの家を中心地の米屋町に移転させ、1895年に今道町に本格的な聖堂が建設された。現在、亀山町にある記念聖堂ができるまでの約57年間信徒の祈りの家となった。現在もこの今道教会で育った信徒は健在である。
今道教会は、平屋の日本家屋で、屋根は瓦葺き。建物の正面に大きな十字架を配し、敷地の周囲は杉垣、門から聖堂までの両側の歩道にヒノキや八重桜などが植えられていた。当時の写真を、ギャラリーのページ(準備中写真準備中)でご覧ください。


ヴィリオン神父は、かつてから大導寺跡地とされる場所を探していた。1913年におそらく大導寺跡地であろうと思われる場所(異説もある)の土地を取得した。1921年山口県知事を中心に遺跡の保存会が発足し、1926年に記念碑が完成。1928年に、ヴィリオン神父の偉業をたたえて、胸像が設置された。その後、1944年に太平洋戦争における兵器製作のために、胸像などが没収された。戦後間もなくサビエル遺跡顕彰委員会が発足し、記念碑を整備して、1949年にサビエル渡来400年記念行事を行った。

旧サビエル記念聖堂(1952年-1991年)

山口教会は、1952年に今道町から亀山町(現:亀山公園隣地)に移転し、スペインにあるサビエル城の一部を模した聖堂が建てられた。設計者は、ヤルノス・ヨセフ(スペイン)グロッペル・イグナシウス(ドイツ)の2人。敗戦後間もない中での建設のため資材不足や高騰の憂き目に遭い、当初の予定の鉄筋コンクリート造りの建設が木造コンクリートに変更された。この聖堂は、1991年に焼失されるまでの40年間山口市民に非常に愛された。鐘の音は、市民の生活に根付き時を知らせていた。
聖堂に関する説明は、ここをご覧ください(準備中)(ステンドグラス等の聖堂詳細説明は写真を付けるので別画面で提示)

新サビエル記念聖堂(1998年-現在に至る)

1991年に旧サビエル記念聖堂焼失後、7年の歳月をかけて1998年に現在のサビエル記念聖堂を再建された。設計は、コンタンチノ・ルッジェリ神父、ルイジ・レオニ(どちらもイタリア人)によるものである。 新しい聖堂は、幕屋・光・水をモチーフにして近代的な聖堂となった。幕屋は神の家を表し、光は外からステンドグラス越しに聖堂に降り注がれ、水は洗礼や新しい命の源を表している。そして、ステンドグラスは、聖書に出てくる言葉をテーマとして作られている。その時間時間の日差しによって、聖堂内は素晴らしい情景が生み出される。
鐘塔には9つの鐘が設置され、すべての人々に平和と幸せを告げるためにメッセージが刻まれています。

紫福殉教者祈念地

キリシタン紫福しぶき(至福)の里

大内義隆(1507~1551)の頃、山口にはフランシスコ・サビエルから洗礼を受けた多くの信徒がいた。 1557年毛利元就はキリシタン弾圧を始め、山口の信徒たちは仁保村そして紫福(現在:萩市紫福)の地に難を逃れ移住した。紫福は二つの山に囲まれた村であったため、多くのキリシタンが身を潜めるに適した場所であった。信徒たちは、長く続いた厳しい禁教令の中、この地でキリシタンの教えを守りひっそりと暮らした。


彼らは、亡くなった人々を葬るために祠型の墓を作り、その祠の中に目立たないように、キリシタンである証しを彫り収めた。その彫像は一般的には見られない特徴を持っている。その他、マリア像と思われる彫像などもあった。それらの墓や遺物は、現代まで、藪の茂みの中や山深い所に、隠されたように置かれていた。
紫福の地名の由来は、この地に住む人々が、鍋山を「至福の丘」と呼び、その「しふく」が「しぶき」と転訛したのではないか。墓もこの鍋山の石を使い、麓には最近まで石屋があった。キリスト教の信仰を持った石工の手によって祠型の墓やキリスト教の特徴を示す彫像が彫られたのではないかと推測される。祈りの場(黒須)、墓(鍋山麓一帯)、信仰を表すいくつかの彫像などを見ていると、信仰の原点に満ちていて、我々の信仰を振り返る機会を与えられているようである。これら遺跡の写真がキリスト教資料展示館(1Fサビエル記念聖堂入口から入館)に解説付きで展示されているので、ぜひご覧ください。