山口の殉教者琵琶法師ダミアン
2007年列福された福者ダミアン
日本のカトリック教会が、かねてから念願としていた「ペトロ岐部と187殉教者」の列福が2007年6月1日、教皇ベネディクト16世の裁可で決定しました。その188殉教者の一人として、1587年山口で洗礼を受け、信徒の鑑として豊臣秀吉のバテレン追放令後、神父無き教会で神父の代わりとして生涯を神への奉仕に捧げた琵琶法師ダミアンがいました。
この祈念碑は、ダミアンが列福された記念として作られたものです。小佐野哲二氏の「光の十字架」のデザインを元に制作されました。デザインの提供を快く許可して下さいました小佐野哲二氏に深く感謝いたします。制作は、野村石材店(山口市仁保)社長:野村静雄氏の大きな支援によるものです。周囲の緑に映えるように赤い石を探し制作されました。心から感謝いたします。写真撮影は、信徒の中村ありさ氏(写真家ニッコールクラブ所属)です。このことに携わった多くの方々に感謝いたします。
TOPへ戻る殉教者ダミアンについては、詳細なことは分かっていません。ここでは、フーベルト・チースリク「信徒使徒職の鑑 山口の盲人ダミアン」(1988年祈祷の使徒会)、品川勝郎(フーベルト・チースリク)「盲人 ダミアンの殉教」(1981年「聖心の使徒」9・10月号)の両文献を参考にしてまとめたものをここに記述しています。なお、下の挿絵は、〇〇理恵(旧姓上田)さんによるものです。〇〇理恵さんにはここに感謝の意を表します。
ダミアンのプロフィール
出身:1560年頃堺で出生 日本名は不詳
洗礼:1586年頃 25歳で山口で受洗
霊名:ダミアン
殉教:1605年8月 現山口市椹野川河岸近くの一本松と言われている場所で処刑(地図参照)
当時の盲人琵琶法師
当時の慣わしとして、琵琶を習い昔の物語りなどを歌いながら生計を立てていた。物語は、浮世のはかなさを語る平家物語などがある。ダミアンについては、当時は日本におけるよりも外国で有名であり、イエズス会の報告等により司教セルケイラがローマに詳しく報告をしている。
当時の日本におけるキリシタン情勢
1567年頃フロイス神父は堺でクリスマスの祝いを盛大に催した。当時ダミアンは7歳くらいであったと思われるが、このクリスマスの祝いにはキリシタン武士も70名くらい参加し、町中の評判になったので、ダミアンもこの話を聞いていたと思われる。
当時、毛利の家臣であった黒田孝高は1584年に高山右近の感化を受け熱心なキリシタンとなり、霊名をシメオンと言った。
1586年10月に黒田孝高は毛利輝元や伯父に当たる小早川隆景に会い、毛利領内に三箇所(山口、下関、道後)にキリスト教会を建てるように進言し、その承諾を得た。その結果、サビエルの時に与えられ、その後破壊されていた大道寺跡とその周辺を返してもらったといういきさつがある。
その後1586年10月にモレイラ神父が山口へ行きイエズス会のレジデンスを創設し1567年7月末までに、大道寺跡には三階建ての教会や司祭館が建てられて、活発な宣教活動が始まった。小西行長の世話で30名以上にのぼる、司祭や神学生、修道者が山口に集まり山口のコレジョが発足した。この時期は、山口の教会が最も勇ましく栄えた時期ではなかったか。しかしこの情勢は長くは続かなかった。1587年7月24日突如として、豊臣秀吉の伴天連追放令が発せら、以後、山口教会は閉鎖、イエズス会士全員は平戸へと退去した。
この頃、外国人宣教師は言葉の壁にも阻まれていた。
従って、福音宣教はもっぱら邦人修道士あるいは同宿(伝道士)に一任されていた。同宿は大抵セミナリヨの卒業生で、一種の神学課程を終え、伝道士の資格を持っていた。彼らは皆誓約を立て、独身で剃髪し、紺色の道服を着て教会に住んでいた。彼らの生活費も、教会が負担していた。
その他、巡回教会には(看坊)がいた。彼らは聖堂を世話し、司祭のいない時は、祈祷会を指揮し、子供に洗礼を授け、病人を見舞い、死者の葬儀を行った。彼らは結婚をしており、その生計の一部は教会が負担し、残る一部は当地の信者、あるいは彼ら自身が営んでいた農業によって賄われていた。
ダミアンはこのような(看坊)の仕事を行い、神父の留守を守り、神父の代理として信者を導き、長く続く弾圧の間、山口の信者を守り支えた教会の中心人物であった。
ダミアンの授洗
1587年7月末頃、イエズス会の神父や修道士全員が山口を立ち去った。その1年ほど前の1586年頃に、ダミアンは山口で彼らから洗礼を受けたものと思われる。当時、ダミアンは25歳であった。
ダミアンの才能と情熱
ダミアンは、記憶力抜群で盲人独特の鋭敏な神経と触覚、智恵で群を抜き日本の歴史や故事、昔の物語、また他宗派にも通じ、琵琶法師として諸侯諸官とも親密にしていた。このような時に改宗し洗礼を受け、霊名ダミアンと称し活動を始めた。異教徒達や僧侶達は彼の改宗を大変残念がり、それまで彼に施してきた生活費としての喜捨を中止した。しかし山口のキリシタンは彼が不自由をしないように、皆でダミアンを援助した。ダミアンは、時には、他の信者が彼を引き止めねばならぬほどに、積極的に福音宣教に励んだ。
ダミアンの宣教
この頃、奉行三名とその町の者100名余の者が洗礼を受けた。神は、山口で盲人ダミアンを以って宣教師の代理としてその不足を補い給うたのである。彼は機会あるごとにたゆまず伝道し、1590年には山口で110名の者に洗礼を授けた。 アレッサンドロ(ヴァリニャーノ)神父がインドから来航されたのを知ると長崎まで出かけて神父に会い、告解と聖体の秘蹟を受けた。その道中、筑後の国にマセンシアを訪ねて23名に洗礼を授け、筑前においても多数の者に洗礼を授けた。 マセンシアとは、大友宗麟の女で1587年毛利元就の9男秀包(毛利輝元の叔父)と結婚した。秀包もその前年に山口で洗礼を受けシモン(シマオ・フォンデナオとも伝えられている)と言う霊名を受けた。彼は秀吉から久留米領を与ったが、伴天連追放令およびキリシタン弾圧、毛利一族の反対にもめげず、忠実に信仰を守り続けていた。
ダミアンの宣教における逸話
ダミアンが情熱的な宣教を続けるに間には、いくつかの逸話があった。これらの逸話は、1587年:グスマン「東方伝道史(新井トシ訳)の中に詳しく述べられている。
仏像について小姓との論争する
ある寺院に於いて仏像について奉行の寵愛する小姓と論争が起こり、激した小姓が刀を抜いてダミアンに切りつけようとした。同行のキリシタンが小姓を押さえて刀を取り上げた。小姓は屈辱に思い奉行の元に行きダミアンを罵倒した。奉行はダミアンを呼びことの次第を聞いた結果、小姓の側に罪を認めて暇を取らせた。
人肉の臭い
異教徒の婦人達がキリシタンを馬鹿にしようとして、神父館に入り、「人肉を焼いた臭いがする」と言うと、ある青年がそれについて相槌を打った。これを聞いたダミアンは立腹し、青年の手をつかみ穴に入れて、大声で「火をつけてくれ」と叫んだ。そして「人肉を焼けばどんな臭いがするか分からせよう」と言った。婦人達と青年は自分達の不敬をわびて以後神父館には立ち入らないと約束をした。
僧侶との論争
山口の住院(大道寺跡の教会)の前に僧侶の僧房があり、しばしば説教の集まりがあった。神父達が退去した後(1587年伴天連追放令以後)、僧侶達がキリストについて暴言を吐いたと聞いたダミアンはその説教の集いに行こうとした。ダミアンの情熱を知っている信者達は騒ぎが起こらないようにと、しきりに引き止めた。しかし、ダミアンは聴衆にまぎれて参加した。それを目ざとく見つけた僧侶はダミアンを外へ連れ出そうとした。ダミアンは大声で「説教は隠れてするものではない、総ての人に聞かせるためにするものだ、もし私が救済を望んだならばどうして邪魔をするのか、もし私が貴僧の宗派に入信したいと言えばどうするのか」と言った。それでも外に出されたダミアンは戸をたたき続けた。ようやく、中に入れられたダミアンは「何故デウスの悪口を言ったのか」と正した。それから、僧侶との論争が始まった。僧侶はダミアンの理論に完全に説伏され、次の質問が出来ぬまま、説教もやめて立ち去った。 ダミアンは「デウスの悪口を言う者はいつでも説伏してやる」と言った。以後異教徒達は悪口を言わなくなった。そのような状況の中で、ある宗派の博識の僧侶がダミアンを説伏しようと、度々ダミアンに論争をいどんだが、返ってダミアンに説伏され改宗し遂に洗礼を受けた。
悪魔つきを癒す
ある悪魔つきの病人を抱えた親や親戚が、あらゆる治療を施したが万策尽きていた。そのような折、キリシタンであるマチアスの息子が、「私の家のくすりをつけたらすぐに治るだろう」と言った。この「薬」「聖水」のことであった。そこで、それを試すために、ダミアンを招き、デウスの教えを願った。ダミアンが入ると病人は庭の方へ逃げようとしたが、親戚はこれを押さえた。ダミアンは近づき、聖水を注ぎ信経を唱えた。とたんに病人は意識を失い死んだようになった。しかし、しばらくして蘇生し、悪魔は退去した。これを機会に、病人を初め親、親戚など70名もの人々が、皆ダミアンの話を聞き洗礼を受けた。
ダミアンの殉教
1605年8月14日の朝、萩の熊谷元直(霊名メルキオル)は毛利から切腹を命じられた。キリシタンとして自害を拒否したので一族11名と共に処刑された。萩城の普請奉行であった熊谷元直は砂利盗難事件に名を借りて、キリシタン迫害の槍玉として処刑されたのである。
熊谷元直殉教の日より4日後の1605年8月19日萩から役人奉行二人が山口に来た。熊谷元直の屋敷を没収するために来たのである。到着するや直ちにダミアンを呼び出した。ダミアンは帰宅してこの呼び出しを聞くや、直ちにキリシタン処刑のためと察し、妻にこのことを告げて死の準備に取りかかった。それはまるで、お祝いで祭りにでも出かけるようであったと言う。即ち、体を洗い清潔にして、一番良い衣服を身に着けて、二人のキリシタン信者と共に熊谷の家に行った。下役達は二人の信者を玄関に待たせ、ダミアンだけを奥へ通した。後に、下役らの話によると、奥に入ったダミアンはさまざまな手段で改宗を迫られたが、きっぱりと断り、却ってデウスの話を奉行にしたようである。改宗の見込み無しと見た奉行は毛利の命令どうり、ダミアンを処刑するように刑吏に命じた。玄関で待っていた二人の信者には、まだ長くかかるからと家に帰し、刑吏はダミアンを馬に乗せ松明を灯して、用があるから湯田の方へ行くと言って馬を進めた。讃井の辺りまで来ると、ダミアンは盲人でも、この辺りの地理には詳しいので、湯田へ行く道をそれて一本松の方へ向かっているのに気づき、「私は盲人でも、この辺りの地理にはくわしい、私を一本松の刑場に連れて行き、処刑しようとしていることは判っている。私は信仰のために死ぬことは大きな喜びであるから、怖くはない、真実を話してくれ、理由は何か」と尋ねた。刑吏は処刑する事実を話し、理由は毛利が神父を追放した後も、神父の代わりになって任務を引き継ぎ、説教をし、信者を導き、キリシタンの中心となっているからであると言った。その話を聞くと、ダミアンは直ぐに馬を降り、信仰のために死ぬことは大きな喜びである。死ぬ前に祈りをし、死ぬための準備をさせてくれと頼んだ。大きな声でラテン語ではないかと思われる祈りをし、その他いくつかの祈りをし黙祷をした後に、従容として首を差し出した。話によれば、刑吏は首を切る前に刃を首にあて、三度改宗を進めたがダミアンは堅く断り、早く命令を果たせと言ったという。
ダミアンの死後、刑吏はダミアンの体をバラバラに切り刻んで、川の中に投げ捨てた。これは毛利がキリシタンの処刑を、他人に知られないように強く望んだためである。
一人のキリシタン信者が、たまたま外に出ており、ダミアン一行が通るのを見て、これは処刑のためと察し、翌日にダミアンが帰宅していないの知ると、他のキリシタン信者にも告げて、翌朝、刑場に出かけて捜索し、遂にダミアンの衣服と首と一本の腕だけを発見した。ダミアンの首と腕は鄭重に仮埋葬され、この事実は早速に、広島のコーロス神父に報告された。神父は、更に詳しい調査を二人の信者に依頼し、ダミアンの遺物を持参するように命じた。コーロス神父は長崎へ行く途中、小倉に留まりそこで先に山口へ派遣したクボタ・レアンと落ち合い、山口へ行くことを断念して、ダミアンの首と腕を受け取り長崎へ赴いた。
クボタ・レアンは山口で得たダミアンの情報(誓いの下で行われた証言の記録、首を切った刑吏の証言等)を持ってきた。コーロス神父は、熊谷元直と琵琶法師ダミアンの殉教の真相が判明するように、セント・パウロと言う権威あるキリシタンを山口へ派遣した。
琵琶法師ダミアンが列福するにあたって、当時の琵琶法師の役割がキリシタンの布教にどのように影響を与えたかを調べてみました。ここに記述したことは、イエズス会日本関係資料研究会報告の中でホアン・ルイズ・デ・メディナ師が発表されたものを元にしています。
メディナ師は、研究報告の冒頭で『琵琶法師の関わりを研究する事によって、室町時代から江戸初期にかけて日本に来たヨーロッパ人が日本の社会をどのように捉えたのかを知る手掛かりになり、彼らは、琵琶法師による説話の朗詠と音楽について、どのように書き記しているかを考察する』と述べています。当時の琵琶法師のあり方、キリシタン宣教師との関わりを知ることによって、後に、堺から山口に来た琵琶法師ダミアンの生き方の一端をうかがうことができるのではないかと思います。
琵琶法師の定義
ルイス・フロイスは琵琶法師の簡略な像を描いている。
われわれ(ヨーロッパ人)の間では、貴族はヴィオラを弾くことを誇りとしている。日本ではヨーロッパの手廻し風琴を弾く芸人のように、それは盲人の仕事になっている。・・・・坊主は楽器を奏すること、歌うこと、武器を使うことなどを教える。
また、琵琶の演奏を物語と組み合わせることは、京の宮廷で13世紀頃には確立していた(亀山天皇の子、後宇多天皇(1275~1287)頃)。必ずしも盲目であることは琵琶法師の称号を得る必要条件ではなかったが、明らかに公家層の芸能を後援しようとする熱意のおかげで、盲人はかなり水準の高いグループを形成していた。その中でも技量の優れた者が、「検校」という名誉ある別称が与えられた。検校は、本来は宮廷の官吏や仏寺の役職に与えられる称号であった。ここで、再びルイス・フロイスは、次のように述べている。
五畿内の領主らは慣習として、屋敷に一人の盲人を抱えているが、それは二つの目的のためである。一つは、彼が歌い楽器を奏でて日本の古い物語を語るのを聴いて、楽しむため。二つ目は伝言を持たせて外へ遣わすためで、盲人たちは一般的にとても慎重で交渉事に適しているからである。
宣教師と琵琶法師の邂逅
当時の琵琶法師の普及の度合いを考えると、ザビエル、コスメ・デ・トルレスやファン・フェルナンデスと日本の流浪の楽師との出会いは、すでに1549年、薩摩藩の主要な港である鹿児島の町で起こっていたと思われる。1551年の春、山口ではザビエルが日本で最初の教会に作り変えたという大道寺に、ほとんど盲目の琵琶法師了西(平戸島の白石村で1525年に生まれた)が現れ、ザビエルたちはこの琵琶法師が伝道活動にとって重要な役割を担っていくことを見抜いた。その直感は的中し洗礼を授かり、「ロレンソ」という名を得て、伝道所に留まり修道士と一緒に生活を共にして、宣教や公教要理におき、彼らを助けた。 1555年頃、了西ロレンソは初めてイエズス会のイルマンの服を身に着けた。1593年にメルショール・デ・フィゲイレドは彼の死をイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに次のように報告している。
日本人のイルマン・ロレンソは、生来の才能と能弁と、それにみすぼらしい肉体をもった人物で、カテキズムでもまた普段の説教においてもすぐれた説教者であることが判明した・・・。ロレンソの宣教により改宗したキリシタンとなった日本人の貴族は、その受け入れた信仰を賛えてこう言った『私が神の教えを真実のものとして受け入れた主な理由の一つに、神がロレンソの宣教の言葉に与えた光輝と恩寵がある。というのは、人間として言えばロレンソのように世間では身分が低く取るに足らない者の話や意見に私が従い、自分の一生をあずけることになるなど、ありえないからだ。』
このようにロレンソは、宣教者たちの完全な信頼を得た。ザビエルの時代から山口の修道士らと生活をともにしたのは、平戸のロレンソのみではない。後代の記録によると、トビアスという8~10歳位の子供がおり、「子供のときからカーザ(家)の中にいた」とされている。これはイエズス会士と一つ屋根の下で暮らした事を指している。
フロイスによるとトビアスは琵琶法師ロレンソキリシタンとしての最初の弟子であったと記している。宣教者と琵琶法師は強いつながりを持ったことがうかがえる。
教会内外の音楽のあり方
日本にやってきたヨーロッパの宣教師らは、豊かな伝統のある典礼を寺院の内外で人々の心に届くようなメロディーの形で携えてきた。これらのメロディーは日本人には耳慣れないものであったが、初期教会の中では最初から好評であった。1552年に日本で初めて、山口の教会で挙げられた最初の歌ミサは降誕祭のミサであったようである。しかし、ヨーロッパの音楽と当時の日本の音楽には演奏法や発声法など多くの違いがあった。幸い、自分たちの伝統を失わないままに新しいものを取り入れるという日本人の気質が、音楽においても革新への道を開いた。
コスメ・デ・トルレスは了西ロレンソとの日々の交わりのうちに、この民衆の音楽により、神話も世俗の物語も、世代を越えて忠実に伝承されていることに気づき、それを利用した。つまり、日本語に翻訳された福音書などを、さらに聖書の叙述の韻律を整える仕事を行った。これは、聖書の普及はまずは口頭でなされるのが普及の第一歩と考えられたからである。現地の音楽を取り入れることで、聖書のテキストが新しいキリシタンの記憶にも心にもよりよく浸透したようである。
このように、韻文を用いた劇的手法の導入は、日本のキリスト教史の初期から導入された。初めは山口で、のちに豊後で、音頭をとったのはコスメ・デ・トルレスであった。
盲人は視力の不足を補って、うらやむべき記憶力と、琵琶の音色と声を用いて他人とコミュニケートする能力を持っていた。新たにキリスト教徒になった人々は、歓迎する雰囲気の中で自発的にその歌や音楽の能力を教会で発揮するように促された。そのような中で、キリスト教の教義に興味を持つ一人の盲目の琵琶法師が登場した。その結果は福音伝道のための新たな琵琶法師の獲得であった。そして、琵琶法師らの説教は庶民の中から大勢の改宗者を出したが、庶民ばかりではなかった。
ポルトガル人のガスパール・ヴィレラは、ベネディクト派修道院で幼いときから典礼の儀式と声楽の専門教育を受けた。1556年ヴィレラは日本に到着すると、まだ日本語がわからなかったが、すでにイエズス会士となっていた了西ロレンソの歌う物語詩を聞く機会を得た。1559年の9月からの京都への宣教また1561年の小礼拝堂建立の際にロレンソを伴っている。この二人の声に導かれて、キリスト教の教義に興味を持つ盲目の琵琶法師が登場した。ヴィレラはこの人に洗礼を授け、ホセ(ヨセフ)という名を与えた。
このような琵琶法師らの説教は、庶民の中から大勢の改宗者を出すことになったが、それは庶民のみにではなかったようである。
盲人の組織
この時代の盲人について、一般的にかれらの人生は、それぞれの家柄の状況によって決定されていた。低い身分の琵琶法師は人々の善意によって頼っていきていたが、琵琶を奏でて物語詩を歌う盲人は、16~17世紀の日本の社会に受け入れられた不定期労働者であった。琵琶法師の組織について、ルイス・フロイス他数名が次のように書き記している。
日本では盲人は高く評価されており、古くからの法や特権により盲人の間で一種の君主制のようなものが形成されている。この君主制において、盲人たちは何段階にもわたる位を持っており、能力とこの全員のかしらである盲人の引き立てに応じて、その位を得、昇っていくことになる。彼らはこれらの位を授けるために試験をし、最適な位を与える。また自分たちより下位の盲人を統率している。この最高の位(検校)を得た者は、日本中の領主と同じように名誉ある場所に出入りすることができた。そして、検校は多くの他の盲人を弟子として抱えていた。
殉教者となった琵琶法師たち
宣教師らが書翰で触れている盲目の宣教師らは、多くの場合匿名であることを示唆したが、これらの教会の福音活動に優れて貢献した琵琶法師の中には殉教の栄光に浴したことが確認されているものもいる。その中には、1605年8月19日山口で四つ裂きにされ、殉教した堺の琵琶法師ダミアンがいる。
迫害の中での琵琶法師の活動
1614年2月に徳川秀忠が発布した最終的な追放令によって、キリシタンに対する追及は全国に広がり、いくつかの地域では殉教者の列が終わりなく続いた。このような状況下で、修道士や同宿による非合法の布教が続けられ、特筆すべきことに、新たな改宗者もあった。そのかなりの部分が盲目の伝道士の、以前享受していたような自由が常に保証されていたわけではないとは言え、特権的な条件に負うところが多かった。
引用文献:ホアン・ルイズ・デ・メディナ「キリシタン布教における琵琶法師の役割について」(翻訳:安達かおり)東京大学史料編纂書研究紀要第11号(2001年3月、P.172-P183)
琵琶法師ダミアンに関する資料およびキリシタン弾圧から逃れ萩市紫福に移り住んだ信徒たちが残した遺跡・遺物などの写真の一部を提示してあります。また、周防長門の殉教者年表を掲載しました。
周防・長門に関係した殉教者年表
この年表は、山口カトリック教会の信徒である故岩崎太郎氏の作成されたものを許可を得て掲載しました。
凡例: SJ はイエズス会 OP はドミニコ会 Br.は修道士を表します。
殉教年月日 | 氏名 | 殉教 | 場所 |
1559.3.28 | 城アンドレ、城神父の父(※) | 斬殺 | 博多 |
1605.8.16 | 熊谷豊前守元直メルキオール、 その妻、次男 二郎兵衛、末子 猪之介フランシスコ | 上意討ち | 萩 |
1605.8.16 | 天野元信(熊谷元直の娘婿)、 その子供 与吉11歳, お快8歳, くま2歳, 乳飲み子 | 上意討ち | 萩 |
1605.8.16 | 佐波善内(次郎右衛門)熊谷元直妻の弟 | 上意討ち | 萩 |
1605.8.16 | 三輪八郎兵衛元佑 | 上意討ち | 萩 |
1605.8.16 | 中原善兵衛(九右衛門) | 上意討ち | 萩 |
1605.8.19 | ダミアン(山口の琵琶法師) | 斬首 | 湯田一本松 |
1607 | 狩野与五郎ユスティノ、 その妻 | 火刑 | 湯田一本松 |
1618.4.10 | 木村五右衛門パウロ | 火刑 | 萩 |
1618.4.10 | 遠甫ヴィンセンテ伝道士 | 火刑 | 萩 |
1618.4.10 | 平田トマス、 その妻 | 火刑 | 湯田一本松 | 1618.4.10 | 栄三郎ペトロ 注1:未確認 | 不明 | 萩 |
1618.4.13 | 坂井太郎兵衛パウロ(毛利家臣)ロザリオ会員 | 斬首 | 柳川 |
1618.4.16 | 狩野半右衛門ヤコボ(1607年火刑殉教の与五郎の兄) | 不明 | 不明 |
1618.4.16 | 槙村ペトロ | 上意討ち | 萩 |
1618.4.16 | 角左衛門ディエゴ | 上意討ち | 萩 |
1619 | 利兵衛(中国)、 その妻マリア(中国か?) | 火刑 | 京都 |
1619.9.19 | 市右衛門ディエゴ(山口) | 獄死 | 京都 | 1619.11.27 | 福者・中西レオ(山口) | 斬首 | 長崎 |
1622.9.10 | Br.トマス・デ・チュンゴク(山口)OP | 火刑 | 京都 |
1622.10.10 | 福者・中国のヨハネ(山口) | 火刑 | 長崎 |
1622.12.1 | 福者・ペドロ・パウロ・ウロ・ナヴァロ神父 SJ | 火刑 | 島原 |
1627 | 後藤宗印(山口あるいは堺の人) | 獄死 | 江戸 |
1628.10.末 | Br.シュッカン・ミカエル SJ 注2:病死という説もある | 惨死 | 下関 |
1632.9.3 | 福者・石田アマドール・アントニヨ・ピント神父 SJ | 火刑 | 長崎 |
1632.9.3 | 城トルレス・ジュアン・ヒエロニモ教区司祭(山口)アンドレの子(上記※参照) | 火刑 | 長崎 |
1633.7.22 | Br.西堀トマス SJ(下関で捕らえられる) | 火刑 | 長崎 |
1633.7.22 | ドミニコ(宿主下関の人か?) その子供(たち、複数か?) | 火刑 | 長崎 |
1633.9.8不明 | 理右衛門 | 火刑 | 萩大屋 |
1633.9.8 | 仁左衛門(明木)、 その子供十三郎、源八 注3:油谷町伊上の五郎衛門参照 | 火刑 | 萩大屋 |
1633.9.8 | 粟屋五郎左衛門、 その妻と子供 | 火刑 | 萩大屋 |
1633.9.末 | 山本ディオニジオ SJ | 火刑 | 小倉 |
1633.10.2 | ベント・フェルナンデス神父 SJ | 穴釣り | 長崎 | 1633.10.9 | 伊予シスト(ジュスト)神父 SJ | 穴釣り | 長崎 |
1633.10.10 | ジョアンダ・コスタ神父 SJ(周防で捕らえられる) | 穴釣り | 長崎 |
1633 | 五郎右衛門(油谷町伊上)注3 その妻と子供 注3:伊上の五郎右衛門とその妻子の殉教は、明木の仁左衛門以下の萩大屋の殉教者と共に、 一連の者として同じ日に処刑されたものと推察される | 火刑 | 萩大屋 |
1633.9.8 | 粟屋五郎左衛門 その妻と子供 | 火刑 | 萩大屋 |
1635.9.26 | 五十部久光(下関で捕らえられる) | 火刑 | 萩玉江 |
1635.10.10 | 権三郎(防府の人) | 火刑 | 萩玉江 |
1633.10.10 | 原久右衛門(周防の人) 秩父郡渡瀬村フランシスコ信心会 | 獄死 | 江戸 | 1870~1873 | 43人の浦上信徒(浦上四番崩れ) | 獄死 | 萩 |
関連の資料
掲載資料は、山口カトリック教会主任司祭(2007年当時)松村信也神父が撮影した写真および山口サビエル記念聖堂キリスト教展示館の所蔵物などを載せています。
イエズス会本部(ローマ)所蔵による盲人ダミアンの 殉教記録の写し
ダミアンが処刑されたであろうと思われる場所の地図(山口古図をトレースした) ダミアンの生涯へ戻る