聖フランシスコ・サビエルの生涯を追って

St. Francisco Xavier

神のみ旨を果たした聖フランシスコ・サビエル

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サビエルが唱えた祈り

十字架上のキリストへの祈り

主よ 私があなたを愛するのは

あなたが天国を約束されたからではありません。

あなたにそむかないのは

地獄が恐ろしいからではありません。

主よ 私をひきつけるのは

あなたご自身です。

私の心を揺り動かすのは

十字架につけられ、

侮辱をお受けになったあなたのお姿です。

あなたの傷ついたお体です。

あなたの受けられた恥ずかしめと死です。

そうです 主よ。

あなたの愛が私を揺り動かすものです。

ですから たとえ天国がなくても

主よ 私はあなたを愛します。

たとえ地獄がなくても

私はあなたを畏れます。


あなたが何もくださらなくても

私はあなたを愛します。

望みが何もかなわなくても

私の愛は変わることはありません。

☆ ☆ ☆ ☆

 フランシスコ・サビエルが東洋の最も秀れた宣教師になったのは、偶然の結果のようにみえますが、果たしてそうでしょうか。
 ポルトガル国王ジョアン三世は、イグナチオ・ロヨラにインドで活躍する二人のイエズス会員を派遺するように要請しました。旅への出発前のその日、選ばれたうちの一人が病気になりました。イグナチオはフランシスコ・サビエルを呼び、「フランシスコ、これはあなたの役目です。」と言いました。フランシスコは、「はい、心の準備はできています。」と答えました。それは、1540年(天文9年)3月16日の事でした。1541年(天文10年)4月7日、リスボンを出発し、1542年(天文11年)5月6日、ゴアに上陸しました。
 サビエルは、数年にわたり、インド各地、モルッカ諸島、そしてマラッカで精力的に活躍しました。そして、ついに1549年(天文18年)8月15日、モンマルトルでの誓願のちょうど15年後、日本に着きました。サビエルの日本滞在は、ほんの2年間に過ぎませんでしたが、その宣教は目覚ましいものがありました。そして、その日本滞在中、中国での宣教の必要性を認識した彼は、ゴアから中国に向かって再び船出し、川島という小島に着きました。 そして、この島で、1552年(天文21年)12月2日と3日の間の夜に、静かに息を引き取りました。46歳でした。ヨーロッパを離れてから11年6ヶ月が経っていました。
 サビエルは冒険者でもなく商人でもありませんでした。彼はただ、愛する者、仕える者であって、神と人間に対する愛と彼らに奉仕するという望みによって動かされ、いつも旅する人でした。

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絵で見るサビエルの生涯

サビエル関連の史料は、キリスト教資料展示館に展示されています。ここで提示したサビエルの足跡は一部に過ぎません。
ぜひ山口サビエル記念聖堂にお越しになりご覧ください。下記に掲げてある絵も展示されています。

神のみ旨を探し求めて

生誕
幼年期 1516年(11才)
サビエルは1506年、スペインとフランスの国境にあったナバラ王国のサビエル城に生れた。6才の時ナバラ国はスペインに占領され、3年後に父を失い、やがてニ人の兄も戦場に出ていった。 兄たちはサビエルも軍人にしようと望んだが,彼はそれを望まず19才の時パリに赴きソルボン大学で学んだ。
改心
改心 1533年(28才)
サビエルが大学を終えた際かっては勇敢な騎士で、今はキリストの兵士として信仰上の同志を求めていたイグナチオ・ロヨラと知り合った。聖書の「人がもし全世界を得ようとも、その霊魂を失ったなら何の益かがあろうか」とロヨラの言葉に神の使徒として働く決意を固めた。
誓願
誓願 1534 年(29才)
サビエルは聖母マリアの祝日である 8月15日に、他の6人の同志と共に、清貧と貞潔を誓って、主キリストに従うことと聖地への巡礼を誓約した。この記念すべき日がイエズス会創立の日となった。
巡礼
巡礼 1536年 (32才)
サビエルは同志と共にパリから聖地への船の出るイタリヤのヴェニスの港まで7週間の苦難の旅をつづけた。たまたま戦乱のため出航が出来なかったのでローマに赴き教皇に身を任せることになった。
派遣
派遣 1540年(35才)
ポルトガル王の請願によるインド派遣の司祭に選ばれたサビエルは、教皇の祝福を受けた後、キリストのため新しい世界を開拓し、ポルトガルの首都リスボンに向け、ローマを出発した。
訣別
訣別 1541年(36才)
リスボンをいよいよ出航するにあたり、 40年前インド航路の開拓者ヴァスコダ・ガマが航海の安全を祈ったという小さな聖堂で、その使命達成の守護を祈った。また海岸の高台に登って同船者たちに信仰の勧めと、布教についての協力を求め、熱心に説教した。

東洋での宣教

1542年5月にアフリカを経てインドのゴアに到着。布教のために多くの試行錯誤の中で活動し多くのキリスト教への改宗者を得た。一方、散発的に殉教者も出た。
1545年、東洋での布教を志して、マラッカに向かい数多くの島々で宣教活動を行った。東洋布教のシンボルと言われる一つのエピソードがある。
「サビエルが、1546年(41歳)アンボイナからセラン島へ渡る途中暴風にあって船は沈没しそうになった。サビエルは胸にかけた十字架をはずし海中に浸して神に祈った。すると暴風は静まったが紐が切れて十字架は波の中に消えていた。その後セラン島に上陸すると海中から一匹のカニがその十字架をはさんではい上がってきたので彼は心から感謝の祈りを神に捧げた。」このエピソードは、サビエルの多くの奇跡譚の中の有名な一つです。

夜の祈り
夜の祈り 1545年(40才)
サビエルの部屋にはキリストの磔像と祈祷書がありベッドの上には枕にする石があった。彼は終夜聖像の前にひざまずき時々両手をあげ涙を流しキリストのご苦難を黙想し、祈り、ほんの僅かな時間だけこの石を枕として寝ていた。彼の伝道の準備はこうして進められた。神はサビエルの行く所どこにでもおられ、いつも祝福を与えられた。
アンボイナ島
アンボイナ島 1546年(41才)
マラッカから更に東方にアンボイナ島がある。そこには以前多数のキリスト信者がいた。サビエルはこの島に赴きマノエルという少女を案内者として古い信者を尋ねて廻った。後に回教徒の迫害が起こった時、マノエルはサビエルに教えられたイエズスキリストのために死ぬことを名誉とするという信念が、他の信徒たちの信仰を守った。
失われた十字架
失われた十字架 1546年(41才)
アンボイナからセラン島へ渡る途中暴風にあって船は沈没しそうになった。サビエルは胸にかけた十字架をはずし海中に浸して神に祈った。すると暴風は静まったが紐が切れて十字架は波の中に消えていた。その後セラン島に上陸すると海中から一匹のカニがその十字架をはさんではい上がってきたので彼は心から感謝の祈りを神に捧げた。
テルナテ島の海岸
テルナテ島の海岸 1546年(41才)
サビエルはテルナテ島やモロ島にも渡った。モロ島には未知の旅人に毒を盛るという野蛮人が住んでいるとのうわさがあったので、友人たちは船を出さないようにし、その島へ行くことを止めたのであるが彼は泳いででも行くと絶対なる神への信頼を示したので、それに反抗することも出来ず数名の友人も彼と同伴することを申しでた。
モロ島
モロ島 1546年(41才)
サビエルはモロ島へ渡り、その真心と情熱でこの粗野な蛮人の中に美しい花を咲かせたか。彼は木の実を食べてけわしい山や、暗い森を通って伝道をつづけた。しかし神の霊に満たされていた彼には恐ろしいという観念は全くなく、いつも幸福であった。
アンチンの征服
アンチンの征服 1547年(42才)
アンチン回教徒がしばしば海をこえてマラッカに襲撃してきたので、サビエルはキリスト信徒を鼓舞し信仰の敵である彼らを退散させたが、信者の家族たちの不安な気持ちで過ごしていた。ある日曜日、サビエルは説教の途中で突然「私たちは神に感謝しなければなりません。すでに敵に打ち勝ち、勝利の知らせがまもなく来るでしょう」と叫ばれた。その言葉通り大勝利を得て凱旋した。

日本における伝道

1547年、サビエルは再びマラッカに戻った。そこで大きな転機を迎えた。12月ポルトガルの商人からアンジローという日本人を紹介された。サビエルはそこで日本という国があることを知り、やがて日本に向かうことを決意した。サビエルはアンジローの印象を『聖フランシスコ・サビエル全書簡』(河野純徳訳)の中で次のように記している。
「もしも日本人すべてがアンジローのように知識欲が旺盛な民族であるならば、新しく発見された諸地域のなかで、日本人は最も知識欲の旺盛な民族であると思います。このアンジローはmキリスト教の講義に出席した時に信仰箇条を書きました。彼は教会にたびたび行き、祈っていました。彼は、私にいろいろ質問しました。彼は知識欲に燃えていますが、それは非常に進歩する印であり、短時間のうちに真理の教えを認めるに至るでしょう。」
また、「私はアンジローに、もしも私が彼とともに日本に行くのならば、日本人は信者になるであろうかと尋ねました。彼は、彼の郷里ではすぐには信者にはならないであろうと答えました、そして、彼は、さらにまず初めに私にいろいろ質問し、私が答えたことと、私にどのくらいの知識があるかを観察し、特に私の生活が私の話していることと一致しているかどうかを見て、もしも私が二つのこと、彼らの質問に答えて満足させ、私の生活態度に咎めるべきことを見いださなかったならば、半年くらい私を試した後で、領主や貴族たちも、一般の人々も信者にかるかどうかを考え、判断するでしょう。彼あh、日本人は理性によってのみ判断する人びとであると言っています。」このアンジローの返事は、その後サビエルの日本の宣教のありかに明確なイメージをもたせた。

鹿児島への伝道
鹿児島への伝道 1549年(44才)
マラッカでアンジロー(弥治郎とも言う)という日本の青年が心の悩みをもってサビエルに面会し、神の道を聞き心の平和を得た。その弥治郎の案内で日本に伝道しようと思ったサビエルは、今から448年前(天文18年)の8月15日、弥治郎の郷里である鹿児島へ上陸した。領主島津貴久の許可を得て熱心に布教した。ある者は嘲り笑ったが真面目な信者も次第にふえた。これがキリスト教の日本伝道の嚆矢である。
サビエルと僧侶(忍室)
サビエルと僧侶(忍室) 1549年(44才)
鹿児島の禅僧忍室はサビエルに神の道を聞いてひそかに神に祈っていたが、その地位が敢えて改宗することを許さなかった。しかし病床で死期の迫るを感じた時始めて司祭を招いたが、司祭の赴いた時忍室はすでにこの世の人ではなかった。
下関へ上陸
下関へ上陸 1550年(45才)
約一年の鹿児島の滞在後、京都へ向うためイルマン・フェルナンデスを伴い、平戸博多を経て下関に上陸した。その頃西日本一帯で勢力を誇っていた山口の領主大内義隆を訪ね、山口に留まり市内で始めて伝道した。
京都
京都 1550年(45才)
サビエルは山口を登って厳寒積雪の中で苦難の旅をつづけ、ようやくあこがれの京都へ着いた。しかし戦乱の巷でどうすることも出来ず10日余りの滞在で立ち退くことになった。船が淀川を下って行く間彼は都の空を眺めながら、感慨無量なものがあり、心の中で日本の改宗を深く祈りつつ詩編23章を繰り返し唱えた。
大内義隆の接見
大内義隆の接見 1551年(46才)
京都から再び平戸へ引返したサビエルは、ここで仕度を整えて再び山口へ戻り、領主大内義隆へ正式な会見を申し込んだ。この時インド総督の手紙の他に時計楽器などたくさんの贈り物をした。 義隆は非常に喜び、大刀と黄金一箱を返礼として贈ったが、彼はこれを拒み、その代わり布教の許しを願い出た。義隆はすぐにこれを許すばかりでなく、彼らの住居として大道寺を与えた。これは彼に日本最初のキリスト教会となったのである。
山口の伝道
山口の伝道 1551年(46才)
山口では毎日二回町の井戸の側で説教した。そして宗教以外の色々の質問にも答えた。地球の形、太陽の動き、いなずま、雪、雨等の天文学に関するものや自然科学に関する解答などは武士たちを驚かせた。  ここでは奉行の内藤隆晴を始め有力な信者を得たが、そのうちでも琵琶法師のロレンノは最も有名である。彼は後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも神の福音を説き、高山右近等の名高いキリシタン大名を得たのであった。サビエルの生涯中最も愉快な伝道は山口滞在中であったと述懐している。

1552年12月3日 サビエル神の御もとに帰る

12月3日は、聖フランシスコ・サビエルの祝日となり、全世界でミサが捧げられる。サビエルは、アジア大陸の保護聖人であると共に日本宣教の保護者と言われている。

帰天
サビエルは、1551年豊後の大友義鎮に招かれたので、山口での布教をコスモ・トーレス神父に託して豊後へ赴いた。そして、領主義鎮にも福音を説いた。これが後に大きな実を結び、フランシスコの霊名はローマにまでも聞こえるようになった。一方、この頃からサビエルは、中国の布教を考えるようになっていた。中国をキリスト教に改宗させることが出来たら、中国の文化を尊重し、多大な影響を受けている日本も改宗がもっと進むであろうと考えていた。1552年(47歳)、中国に赴く決意をする。サビエルは豊後からインドのゴアに帰って旅の仕度を解く間もなく引返して中国に渡航した。しかし中国は当時鎖国のため入国できず、広東の港の外にある一孤島サンシャン(上州島)に待機していた。  ここで彼は疲労のため倒れ、高熱に悩まされ、どんどん衰弱していった。死期が近づくのを知った彼は、一切を神の御心に委ね十字架を見つめてただ祈っていた。信仰の英雄サビエルは漸く永遠の眠りに入り神の御もとへ帰っていった。1552年12月3日の午前2時であった。この2年後、サビエルの遺体は、マラッカを経てインドのゴアに運ばれました。ゴアの聖堂に銀の櫃がある。 腐乱しないサビエルの遺骸はその中に納められ現在も世界各国からの参拝者が引きもきらない。 多くの人々に洗礼を授けたサビエルの右腕は、1615年にローマに運ばれ、ジェズ教会に納められました。そして、1622年、イグナチオ・ロヨラと共に聖人となりました。
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サビエルの残した言葉

「福者フランシスコ・ザビエルについて、イザヤ預言者への神の言葉が正しく言われる。『わたしはあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする』」(ローマ教皇グレゴリオ15世、聖フランシスコ・サビエルの列聖の時の言葉 1622年3月12日)
以下のサビエルの言葉は、聖フランシスコ・サビエル全書簡(1巻から4巻 河野純徳訳  東洋文庫)からの抜粋です。信徒会館1Fのロレンソ図書館に開架されていますので自由にご覧ください。

日本について
  1. 書簡第59-17:1548年1月20日(コーチン)
     「日本人は」まず初めに私にいろいろと質問し、私が答えたことと、私にどれほどの知識があるかを観察するだろう。とくに私の生活「態度」が私の話していることと一致しているかどうかを見るだろう。そして、もし私が二つのこと、「すなわち」彼らの質問に良く答えて満足させ、また私の生活態度にとがむべきことをみいださなっかたら、半年ぐらい私を試して見た後で、領主(島津貴久)や貴族(武士)たち、また一般の人々も、キリスト信者になるかどうかを考え判断するだろうと言いました。日本人は理性によってのみ導かれる人々であるとのことです。
  2. 書簡第90-12:1549年11月5日(鹿児島)
     この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほどの名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士もそうでない人々も、貧しいことを不名誉だとは思っていません。
  3. 書簡第90-15(A):1549年11月5日(鹿児島)
     彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
  4. 書簡第90-45:1549年11月5日(鹿児島)
     神は私たちをこの国に導いて、大きな恵みを与えて下さいました。この国では土地が肥えていないので、身体のためにぜいたくなものを食べようとしても、豊かな暮らしはできません。「日本では」飼っている「家畜」を殺したり食べたりせず、時々魚を食べ、少量ですが米と麦とを食べています。彼らが食べる野菜はたくさんあり、少しですが幾種類かの果物もあります。この地の人々は不思議なほど健康で、老人たちがたくさんいます。たとえ満足ではないとしても自然のままに、わずかな食物で生きてゆけるものだということが、日本人の生活を見ているとよく分かります。
  5. 書簡第96-6:1552年1月29日(コーチン)
     それぞれ異なった教義を持つ9つの宗派があって、男も女もめいめい自分の意志に従って好きな宗派を選び、誰も他人にある宗派から他の宗派に改宗するように強制されることはありません。それで、」つの家で夫はある宗派に属し、妻は他の宗派に、そして子供たちは別の宗派こ帰依する場合もあります。このようなことは彼らのあいだでは別に不思議なことではありません。なぜなら、一人びとり自分の意志に従って宗派を選ぶことは「まったく自由だからです」。
山口について
  1. 書簡第96-14:1552年1月29日(コーチン)
     ファン・フェルナンデス、「鹿児島で信者になったベルナルド」と私は日本「で最強」の領主(大内義隆。1507~51年)がいる山口と呼ばれる地へ行きました。この町には1万人以上の人々が住み、家はすべて木造です。この町では武士やそれ以外の人々多数が私たちの説教する教えがどんな内容のものか、知りたがっていました。そこで私は幾日間にもわたって街頭に立ち、毎日二度、持って来た本を朗読し、読んだ本に合わせながら、いくらか話をすることにしました。
  2. 書簡第96-16(A):1552年1月29日(コーチン)
     山口の領主から領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可をいただくこと以外何も望まないと申し上げました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えて下さり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。
  3. 書簡第96-16(B):1552年1月29日(コーチン)
     彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
  4. 書簡第90-45:1549年11月5日(鹿児島)
     学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日二回説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人たちがやって来ました。そして説教の後で、いつも長時間にわたって討論しました。質問に答えたり説教したりで、絶えず多忙でした。この説教には大勢の僧侶、尼僧、武士やその他たくさんの人がいっぱいで、入りきれない場合がたびたびありました。
  5. 書簡第96-16(C)~書簡第96-22(A)、(B):1552年1月29日(コーチン)
     彼らは私たちにたくさん質問しましたので、私たちは、神の教えこそ真理であることを理解させました。幾日間も質問と答弁が続きました。そして幾日かたった後、信者になる人たちが出始めました。説教においても、討論においても、もっとも激しく敵対した人たちが一番最初に信者になりました。この山口の町で2ヶ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、500人前後の人たちが洗礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています(96-22(A))。信者になった人たちは非常に深い愛情を持って私たちに接してくれます。彼らこそ真実な意味でキリスト信者であると信じて下さい(96-22(B))。
信仰・希望・愛
  1. 書簡第55-4 (B):1546年5月10日(アンボン)
     試練の場合、神の御言葉の真の意味を理解できるのは、学識の深さによるものではなく、主なる神が無限のご慈悲をあたえてくださる人だけが、具体的な事柄のなかで、神がお望みになっていることを理解するにいたるものです。このような場合に私たちの肉体がどれほど弱く、病気にかかっているのも同然だと知るにいたるのです。
  2. 書簡第55-5 (A):1546年5月10日(アンボン)
     主なる神はこの危険のうちで、私たちをお試しになり、もしも私たちが自分の力に頼り、被造物に信頼をおいているあいだは、私たちがどれほど小さいものであるかを分からせようとなさいました。そして、このようなはかない希望から離れ、自分を信頼せずに、すべてのことについて創造主に希望を託し、創造主への愛によって危険を受けようとする時に、「神の」御手のうちにあって私たちの力を発揮できるものであることを分からせて下さいました。
  3. 書簡第96-16(B):1552年1月29日(コーチン)
     彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
  4. 書簡第90-21:1549年11月5日(鹿児島)
     この深い謙遜からのみ、神へのより大きな信仰、希望、信頼と愛が、そして隣人への愛が、「心のうちに」増してくるのです。なぜなら、自分自身への不信頼から真実な神への信頼が生まれるからです。そしてこの道によって、内心からの謙遜を得られるでしょう。真の謙遜はいずこにおいても必要ですけれど、この日本においては、あなた方が考えているよりももっと必要とされております。
  5. 書簡第90-24:1549年11月5日(鹿児島)
     私はある人を知っています(サビエル自身についていっている)。神はこの人に大きな恵みをお与えになったので、彼は幾度も経験した危険のさなかにおいても平穏な時にも、希望と信頼とのすべてを神に託しています。このことから得られた霊的な利益を書き記すとすれば、大変長くなるでしょう。
生き方
  1. 書簡第15-15(A):1542年9月20日(ゴア)
     主なるキリストの十字架を喜んで負う人びとは、このようなさまざまな苦しみのなかに心の安らぎを感じるもので、この苦しみから逃げたり、苦労なしに生活すれば、生き甲斐を感じられなくなるものと私は信じています。
  2. 書簡第15-15(B)(C) :1542年9月20日(ゴア)
     キリストを知っていながら、もしも自分の意見や執着心に従うために、キリストを捨てて生活するとすれば、死ぬ「よりもひどい」心の苦しみのなかで生活しなければならないことでしょう。これに等しい苦しみは他にありません(B)。
     自分が愛着することに逆らって、イエズス・キリストのほかには自分の利益を求めず、日々死ぬことによって「霊的に」生きることは、どれほど人きな慰めでしょう。
  3. 書簡第96-16(B):1552年1月29日(コーチン)
     彼らはたいへん喜んで神のことを聞きます。とくにそれを理解した時にはたいへんな喜びようです。過去の生活においていろいろな地方を見てきた限りでは、それがキリスト教信者の地方であっても、そうでない地方であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。
  4. 書簡第80-7:1549年4月初旬(ゴア)
     この乱れた世にあって賢明に振る舞い、あなた自身のことを心がけて生活し、神と共に生きることを楽しみ、自分自身をよりいっそう深く知るようにしなさい。
  5. 書簡第80-36,37:1549年4月初旬(ゴア)
     必要なものを誰からも受けないことは大切なことです。なぜなら、他人から物をもらうとその人の虜になってしまいます。 贈り物を受け取らないよりも、人からの好意を受け取る態度を示すほうが、人びとの模範になります。
  6. 書簡第118-7:1552年4月6~14日(ゴア)
     夫であれ、妻であれ、彼らがあなたに言うことをすべて信じてはいけません。どちらのせいであるにせよ、双方の言い分を聞き、どちらか片一方に味方する態度を見せてはなりません。なぜなら、このような場合、たとえ片方がもう一方よりも責任が大きいとしても、つねに双方に責任があるものです。そして過失のある側の告解を時間をかけて聞いてあげなさい。私がこのように言うのは、このようにすればたやすく和解でき、つまずきを避けることができるからです。
  7. 書簡第135-9:1552年11月12日(サンチャン)
     私たちは十字架の苦難から逃れて、自由の身となるよりも、ひたすら神の愛を「求めて」捕らわれの身になるほうがよりよいと考え、慰めを感じております。
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