山口カトリック教会の歩み年表


1552年
(天文21年)
サビエルの後任のコスメ・デ・トーレスは1552年に義長に拝謁し、今日「大道寺創建裁許状」と呼ばれるキリスト教布教と布教所の建設を許可する裁許状を与えられた。
大道寺の改築は1555年に完了し、宣教師達の住居兼布教の拠点となった。
1556年
(弘治2年)
火災によって大道寺も焼失。
1888年
(明治21年)
パリ外国宣教会コンパニオン神父が山口に赴任し、山口教会が復起される
1895年
(明治28年)
山口市今道町(現:裁判所)に教会を移転
1924年
(大正13年)
パリ外国宣教会からイエズス会に管轄移転される
1926年
(大正15年)
サビエル記念碑完成(現:金古曽町)[1]
1944年
(昭和19年)
サビエル記念碑の胸像などが太平洋戦争のため日本軍の兵器製作の材料として没収される
1949年
(昭和24年)
サビエル来山400年記念として聖腕が来る。サビエル記念碑の復旧[2]
1952年
(昭和27年)
現在の亀山に旧サビエル記念聖堂献堂される
1953年
(昭和28年)
塔に鐘が設置される
1982年
(昭和57年)
鐘塔にあった2つの鐘のうち、大きい鐘を再鋳造。
1989年
(平成元年)
山口教会復起100年を迎える
1991年
(平成3年)
旧サビエル記念聖堂焼失
1998年
(平成10年)
新サビエル記念聖堂献堂
2000年
(平成12年)
サビエル来山450年記念として聖腕が再び来る

[1]かねてからヴィリオン神父は大導寺の跡地を探し求めていた。現在の金古曽町に大導寺跡であろう場所を見つけて土地の取得した。1921年に山口県知事を中心に遺跡の保存会が発足し、1926年に記念碑が完成した。また、1928年には、ヴィリオン神父の偉業をたたえて、胸像が設置された。その後、1944年に太平洋戦争における兵器製作のために胸像などは没収されてしまった。戦後間もなく、サビエル遺跡顕彰委員会が発足し記念碑を整備し、1949年にサビエル渡来400年記念行事を行った。[↑Back]

[2]聖フランシスコ サビエルご遺骸はインドのゴアに安置されていますが、1614年11月に遺骸から右手が切り取られ、ローマのジェズ教会に安置されました。サビエルが日本にキリスト教を伝えて400年になるのを記念して1949年(昭和24年)5月29日から6月12日まで公式式典が行われ、その時「サビエルの聖腕」も日本に運ばれ、長崎、鹿児島、博多、山口、広島、京都、大阪、名古屋、東京と巡礼しました。山口においては、今道の教会でミサが行われた後、大導寺跡と言われている金古曽記念公園にて盛大に迎えられ聖サビエル記念碑の序幕式の式典が行われた。 更にこの時、亀山公園の一角に教会の礎石が贈呈され建設予定地が祝別された。
「聖腕」は、サビエル来山450周年を迎えた時に再度来られた。 [↑Back]