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フランシスコ・サビエル

 「神は、いかに多くの奉仕を捧げるとしても、奉仕そのものよりも、人々が自身を捧げ、神への愛とその栄光のためにだけ、全生涯を捧げようとする謙遜に満ちた善良な心を、重んじられるのだということをつねに思い起こしてください。」 1549年11月5日鹿児島 (サビエル書簡第 90-2)
 

生い立ち

1. 父母・兄・姉

 父ファン・デ・ハッスは、ボロニア大学で法学博士号を取り、ナバラ国王の側近として重要な役目を果たしていましたが、スペイン軍によってナバラ王国が滅ぼされた1515年、心労のために亡くなりました。母マリア・デ・アスピルクエタは、ナバラ王国では最も位の高い貴族の出身で、結婚の時父からもらい受けた、サビエル城を、留守がちだった主人と息子たちに代わって守りました。パリに旅立ったサビエルに再び会うこともなく1529年7月に亡くなりました。長姉マグダレナは修道女となり、次姉のアンナは結婚しました。2人の兄ミゲルとファンは軍人としてナバラ王国復興につとめました。

2. ロヨラの聖イグナチオ−サビエルの師(1491−1556)

 スペイン、バスク地方の貴族出身で13人兄弟の末っ子として誕生。パンプローナ市の士官としてフランス軍と戦った際に重傷を負い、ロヨラ城で療養生活に入りました。その病床で読んだ聖人伝に感動し、軍人生活を捨てて神と共に歩む決心をしました。念願のエルサレム巡礼を果たして帰国後にパリ大学の学生となり、サビエルに出会い、その世俗への野心から回心させました。1534年8月15日パリのモンマルトルで仲間と共に神の栄光と万人の救いのために働くことを誓い。1540年イエズス会の偉大な創立者となりました。

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日本への旅の仲間

1. アヴァン船長

 ポルトガル船に代わって、サビエル一行をジャンク船で日本まで送りとどけることを引き受けた中国人の船長。アヴァンとは「海賊」という意味のあだ名。1549年6月24日マラッカを出航。航海中、嵐のために娘が海に落ちて死に、占いによって、これを同じ日に溺死寸前で助かった中国人従僕の身代わりと信じ、サビエル一行と対立しました。中国越冬を企てたりしましたが1549年8月15日被昇天の大祝日に鹿児島に到着しました。

2. コスメ・デ・トルレス(1510−1570)

 スペインのセビリアの宣教師でサビエルと共に来日し、山口で受洗者を二千人まで増やし、大道寺の聖堂の建立などに成果をあげましたが、大内氏の滅亡に先立って本拠を豊後(大分県)に移しました。離日後、サビエルは彼に日本布教を託しました。豊後では大友宗麟の助力助言を得、神父、修道士を指揮して島原、五島、長崎、畿内(京都、大阪、奈良周辺)などを東奔西走し、日本布教の基礎を据えました。大村純忠にも洗礼を授けました。天草の志岐で死ぬ。

3. フェルナンデス・ジョアン(1525−1567)

 スペインのコルドバ生まれのイエズス会修道士(イルマン)。修練中インドに渡航し、ゴアでサビエルと会い、日本への随行を希望して日本語を修学、1549年サビエル、トルレスと共に鹿児島に到着。平戸、山口、後府内、横瀬浦を経て平戸に戻り、博多、にも布教。日本語に巧みなため、宗教書の翻訳、文法書、辞書の編集などにも多くの業績を残しました。平戸で死ぬ。

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最初の弟子

1. パウロ・ヤジロウ(アンジロウ)

 日本人最初のキリシタン、鹿児島で生まれ、誤って人を殺したことから海外に脱出。マラッカでサビエルに出会ったことが、サビエルの日本布教のきっかけとなりました。1548年5月インドのゴアの司教から洗礼を受けました。
 1549年サビエルと鹿児島に帰り、布教に貢献し、歴史上の役割を果たしました。サビエルが日本を離れた以後はっきりしませんが、中国の海岸沿いで死すとされています。

2. ロレンソ(1526−1592)

 日本でのサビエルの受洗者中、最も重要な人物で、もとは肥前白石(平戸)の盲目の琵琶法師。醜い容貌ながら知力弁舌は抜群で、イエズス会の修道士になって説教師兼通訳として宣教師を助けました。
 高山右近父子等を受洗に導いたことは有名で、織田信長、豊臣秀吉との外交折衝も巧みにこなしました。当時の布教地で足跡の及ばぬ地はなく、特に五畿内(京都、大阪、奈良周辺)での布教の基礎を固めることに多大な貢献をしました。晩年は長崎で布教活動につとめ死ぬ。

3. ベルナルドとマテオ

 ベルナルドは1549年鹿児島で洗礼を受け、平戸、山口、都への旅をサビエルと共にし、インドのゴアに渡った。さらに日本からの最初の留学生としてポルトガルのコインブラ大学に学びました。卒業後ローマへ行きイエズス会の神学生となりましたが、コインブラに戻り病死しました。
 マテオは山口の人で同じくサビエルに同行した留学生ですがゴアの学院に着いてからわずか数ヶ月で病死しました。いずれも志を遂げられなかったことが惜しまれますが、いちはやく、邦人聖職者養成に取りかかったサビエルの判断力と、行動力は、日本の教会の行く末にまで思いをめぐらしていたサビエルならではのものといえましょう。

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日本での保護者

1. 島津貴久(1514−1571)

 戦国時代の薩摩・大隈の戦国大名で、通訳者ヤジロウの斡旋で、1549年9月29日(大天使ミカエルの祝日)にサビエルは、謁見を許され、キリスト教を布教する事の許可を得ます。これは島津貴久に目論見があったからです。その目論見とは、ポルトガルの船を平戸や府内から鹿児島に寄港させるということでした。この布教を許された期間に、サビエルはおよそ150人の人たちに洗礼を授けました。 しかし、島津貴久の目論見は、余り功を奏すことがなく、また、僧侶たちの反発が非常に激しくなり、反乱さえも起こすほどの勢いになったために、後に布教を禁止してしまいました。貴久自身は、サビエルに好意的な態度で接したと伝えられています。サビエルは、鹿児島についてほぼ1年後に鹿児島を後にしています。

2. 松浦隆信(道可)(1529−1599)

 1550年当時平戸の戦国大名であり、南蛮貿易を開始して鉄砲や大砲を蓄え、貿易により富を築いたと言われています。1550年8月に鹿児島を後にしたサビエルは、平戸に戻りました。この時、松浦隆信は、サビエルを丁重に迎え、キリスト教の布教の許可を与えています。サビエルのこの地の滞在は、わずか2ヶ月でしたが、100人くらいの求道者に洗礼を授けています。平戸滞在2ヵ月後にトルレス神父を残して、京都へ旅立ちました。

3. 大内義隆 (1507−1551)

 サビエルは、京都に向かう途中で山口に寄り(1550年11月)ました。この時、大内義隆との謁見しましたが、謁見の際の服装は非常に質素で、話す内容も非常に難解な話に終始し、失敗に終わりました。そして、宣教の許可を貰う事はできませんでした。しかし、2度目の山口の訪問の際(1551年4月)再度、謁見する機会を与えられた時は、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。その礼節に大内義隆は気を良くして、山口でのキリスト教の伝道を許し、それを誰も妨げないように公示を出しました。更に、大道寺という荒れ寺をサビエルたちに与えました。この大道寺こそ、日本で最初のキリスト教の教会となりました。この山口滞在時期には、サビエルは数度大内義隆に謁見し、大名と側近者などとも友情関係を築いたようです。

4. 内藤興盛 (1495−1554)

 サビエルは2回にわたり山口を訪れています(1550年11月と1551年4月)。その際に、大内義隆との謁見を斡旋したのが、内藤興盛です。内藤興盛は、大内義隆の重臣を勤めたが、武人であるよりは教養が高く、文化人として信望が厚かったようです。彼は、熱心な仏教徒でしたが、サビエルが2回目に山口を訪れた(1551年4月)数年後に妻と子供二人と共に信者になりました。 大内義隆との謁見は、1度目は失敗に終わりました。しかし、1度目の失敗に学んだサビエルは、日本のしきたりに従った礼を持って大内義隆に謁見しました。

5. 日比屋了珪(日比谷了慶)と小西隆佐(?−1592年)

 1550年11月に山口に到着したが、この時は大内義隆の保護を得られず、12月に再び京都へ出立しています。岩国から海路で堺へ着きました。この堺では、堺の有力な商人が、豪商と言われた日比屋了珪(生没不詳)宛ての紹介状を書いてくれました。日比屋了珪はサビエルの保護者となりました。日比屋了珪のことについてはよく分かっていませんが、1564年に受洗し、霊名をディオゴとしました。(この情報は、女子パウロ会の日本キリシタン物語からの抜粋です)。日比屋了珪は、小西隆佐に紹介状を書き、京都での滞在の手助けをしました。小西隆佐も、堺の豪商として、豊臣秀吉に仕えていました。小西行正の子供として生まれ(生誕は不明)、1565年にルイス・フロイスに教えを乞い、京都で最初にキリシタンになった一人で、霊名をジョウチンと名乗りました。正室もキリシタンで小西マグダレーナといわれています。サビエルは、了珪の邸宅の一部を借りて活動を行ったのですが、現在、その場所は、「ザビエル公園」(大阪府堺市)となっているそうです。

6. 大友義鎮(後の宗麟)(1530〜1587)

 サビエルは、山口滞在中の1551年8月末にポルトガルの船が府内(大分)に着いたという知らせを聞き、山口を離れることにしました。入れ替わりにトーレス神父が山口教会で活動するために平戸から来ました。平戸から来る時に豊後の大友義鎮とポルトガル船の船長ドゥアルテ・ダ・シルヴァからの手紙を携えてきました。その内容は、可能なかぎり早く府内(大分)を訪れるようにという要請が書いてありました。サビエルは、山口を直ちに出発して府内に行きました。そこで、謁見を許されたのが、当時22歳の大友義鎮でした。義鎮は、サビエルの礼儀正しい態度、親切な態度に感銘を受け、領内でのキリスト教を伝道をすることを許可しました。そして、27年後に洗礼を受けます。サビエルへの敬意のしるしに霊名を「フランシスコ」としました。キリシタン大名として知られています。

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サビエルから始まった信仰の証

1. 二十六聖人

  豊臣秀吉は島津征討完了後、「バテレン追放令」を発しました。宣教師たちの慎重な対応により小康状態が保たれていましたが、土佐(高知県)の浦戸で難破したサン・フェリーペ号の事件がきっかけとなり、秀吉は1596年12月8日京都、大阪の宣教師と信者を捕らえるよう命じ、彼らは長崎まで歩かされたうえ、西坂で1597年2月5日、はりつけによる殉教を遂げました。捕らえられた26名は、フランシスコ会の宣教師6名(スペイン人4人、メキシコ1人、ゴアのインド人1名、)イエズス会士は3名、信徒17名(内3人は子供)。日本の最初の殉教者として特別に尊敬され毎年2月5日盛大に記念されます。殉教した長崎の西坂で記念館と祈念碑が建てられています。

2. 熊谷元直とダミアン

 熊谷元直は毛利の姻戚で、山口では最も身分の高い切支丹でした。しつこく信仰をすてるように迫られましたが、死を覚悟して応じず、1605年8月15日、その予想の通り、毛利輝元の命によって、萩の邸を突如囲まれて、妻子一党十二人が殺されました。県下最初の殉教者です。
 ダミアンは堺出身の盲目の琵琶法師で信仰熱心で意志が強く、そのうえ教理にくわしかったことから、神父不在の山口教会で信徒の世話を託されていました。自身の運命を感じ取った彼は風呂に入り晴れ着を着て逮捕を待ちました。毛利輝元の命により1605年8月18日、山口の湯田一本松の刑場で斬首の後、遺体は寸断され川に捨てられました。その一部は長崎に送られたと伝えられます。

3. ペトロ・パウロ・ナヴァロ(1560−1622)

 イタリア人の神父で、伊予(愛媛県)に入った最初の宣教師。1598年に山口を訪れ、同地で4年間働き、周防、長門で多数の人々を信仰に導きました。毛利輝元の命で山口を去り、豊後(大分県)で12年間活動。宣教師追放令後も潜伏し布教活動を続けましたが。1621年12月に有馬で捕らえられ、1622年11月1日島原で火刑に処せられました。

4. 石田アマドール・アントニオ・ピント(1570−1632)

 日本205福者の一人。島原の生まれ。1611年、マカオで勉強してから司祭に叙階され、広島で宣教に従事しました。バテレン追放令後もひそかに中国地方で司牧を続けましたが、広島で逮捕され雲仙地獄での硫黄責めで苦しめられ、1632年9月3日長崎西坂で火刑に処せられ殉教しました。

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その遺産を受け継いだ指導者

1. アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539−1606)

 イタリア出身のイエズス会巡察師として来日し、日本の風習への適応を強調し、日本事情に即した布教方針を確立しました。邦人聖職者の養成を重視して、一層の強化充実に努めるいっぽう、大友、有馬、大村の切支丹大名による遣欧少年使節を実現して布教地日本を西欧人の目に触れさせ、布教への協力を引き出そうとしました。
 また、日本に活字印刷機をもたらし、布教発展に寄与したばかりか、日本の古典まで印刷刊行し、一般文化にも貢献しました。日本を去ってからマカオに行き、中国伝道に尽力、内地に入る希望を持っていましたが、1606年1月20日マカオで死ぬ。

2. リッチ・マテオ(利瑪竇、1552−1610)

 上川で病死したサビエルは、中国でキリストの教えを伝えることが出来ませんでした。このサビエルの夢を実現させたのがマテオ・リッチというイタリア人の宣教師です。
 1558年にマカオに到着し、1601年ついに北京に入ることが出来ました。リッチの書物によって韓国にキリスト教が入り、さらに鎖国時代の日本にも西洋の数学天文学が入りました。

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受け継がれた信仰の光は消えず

1. 浦上四番崩れ (4番目の迫害)

 長崎の大浦天主堂は、開国後外国人のためのものとして、1865年、フランス人宣教師によって建立されました。しかし、堂内では宣教師と浦上キリシタンが出会い、キリシタンたちはここを拠点に公然と宗教活動を行うようになりました。
 1867年、幕府はキリシタンたちを捕らえて投獄、明治維新を経て新政府は、3400余名を全員西国諸藩に預ける処置を下しました。、萩に301名と津和野に153名が預けられました。これに対して諸外国が抗議を行い、1873年、政府はやむなく釈放を決めましたが、諸藩に預けられている間の拷問で664名が殉教を遂げました。

2. ヴィリオン神父(1843−1932)

 幕末に来日したパリミッション会の宣教師、1889年山口にに赴任して、山口、津和野、地福、萩の教会を創立し、1924年まで力を尽くしました。その上、大道寺跡を推定して祈念碑を建立。また、長崎の浦上崩れに殉じた萩や津和野の乙女峠の信徒を顕彰しほか、「日本聖人鮮血遺書」など多くの著書をもって殉教者を語り、布教と共に信仰心の昂揚に務めました。

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