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 サビエルは人々が本当の平安を得ることができるよう、この神の深い愛を知らせるために、遥々日本にやってきました。
 「日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、またその他さまざまな優れた資質がありますから、彼らの中で大きな成果を挙げられないことは[絶対に]ありません。ですから主なる神において日本での大きな成果を期待しています。数々の労苦は光彩を放ち、またその光が永遠に輝き続けますように」 (サビエル書簡第 96-4)

サビエルの青少年期

サビエルの青少年期遍歴地図

サビエル城で生誕(1506年〜1525年)

1506(永正3年) 0才: 4月7日(聖火曜日)6人兄弟の末っ子(3男)として、スペインのナバラ王国のザビエル城で誕生。
1515年〜1525年: サビエルの兄弟が戦争に行く。
1516年10才:サビエル城が破壊される 。
1524年〜1525年:サビエル城再建

パリ、ソルボンヌ大学での生活(1525年〜1536年)

1525(大永5年)19才: 9月(秋)、パリヘ発ち、パリ大学の聖バルバラ学院に入学。
1530(享禄3年)24才: 3月15日、哲学教授の資格を得、大学で哲学の講議を担当する。
1533(天文2年)27才: 姉マグダレナ帰天(死ぬ)。イグナチオ・ロヨラの感化を受け、その仲間に入る(大回心)。
1534(天文3年)28才: 8月15日、イグナチオ・ロヨラとその同志と共にモンマルトルの聖堂で清貧、貞潔、聖地巡礼の誓願を立てる。
1535年〜1536年 : 神学を学ぶ
1536年 30才:11月15日パリを発ち、ドイツ、スイスを経て、ベネチアに向かう。

イタリアでの生活(ベネチア)(1537年)

1537(天文6年)31才: 1月8日ベネチアに着く。  6月24日、ヴェニスで同志と共に叙階。  9月30日ヴィヴァロロの聖ペトロの教会で初ミサ。  10月ベニスの不治の病の人達のいる病院で働く。

教皇様の派遣(ローマ)(1538年〜1540年)

1538(天文7年)32才: 4月21日、ローマに着き、ボローニャなどで司牧活動し、同志と共同生活。
1539(天文7年)33才: 9月3日、イエズス会がローマ教皇に口頭で認められる
1539年〜1540年 : イエズス会(仲間たちがそのように名付けられた)の事務局長(イグナチオの秘書)
1540(天文9年)34才: 3月13日、インドへの派遣が命じられ、

リスボンに滞在しインドへ(1540年〜1541年)

1540(天文9年)34才: 6月末リスボンに着く。リスボンやパルマとアルメーリンヌなどでの司牧活動
1541(天文10年)35才: 4月7日、インドへ出帆。  4月〜6月 喜望峰岬、ギニア  6月〜7月 ブラジーレの近い所まで流される。  8月末モザンビークに着く。

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インドでの活躍

インド時代の活躍マップ

インドへ行く途中(1541年〜1542年)

1541(天文10年)35才: 8月末モザンビークに着く。
1542(天文11年)36才: 2月末、モザンビークを発ち、2月〜3月メリンデとソコトラ島へ

インドに着いた頃の活動(1542年〜1543年)

1542(天文11年)36才:5月6日インド・ゴアに着く。インド西側での宣教司牧。
1543(天文12年)37才:終わり頃、司教の前で終生誓願をイエズス会員としてたてる。

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日本渡航の準備

日本渡航の準備マップ

マラッカへ行く途中

1544(天文13年38才: 12月まで南インドで宣教。
1545(天文14年)39才: 4月〜8月 サン・トメ(インドの南東側)

マレー半島での活動(1545年〜1547年)

1545(天文14年)39才:9月末、マラッカに着く。宣教・司牧にあたる。
1546(天文15年)40才:1月、マラッカを出帆、モルッカ諸島(インドネシア)へ赴き、宣教。
1547(天文16年)41才:1月、6月 テルナーテやモロ島、モルッカ諸島  12月7日、マラッカで初めて日本人ヤジロらに出会い、日本渡航を考えはじめる。  12月中旬、ゴアヘ帰り、インドの宣教を監督する。

再びインドへ

1548(天文17年)42才 :6月〜9月 日本渡航を決める。  9月20日 ゴア聖パウロ学院でヤジロウほか2名の日本人が洗礼。

インドから日本への旅

1549(天文17年)43才 :8月15日鹿児島に着く。  9月14日 伊集院で領主島津貴久に会い、宣教の許可を得る。  11月5日 日本での滞在報告記を書く、サビエルの書簡中、最も長い「大書簡」と呼ばれるもの。

都を目指し

1550(天文19年)44才 :7月平戸への第1の旅、すぐ鹿児島へ引き返す。8月末再び平戸へ、領主松浦隆信より宣教許可。 10月末、都を目指し、平戸から山口まで船と徒歩の旅博多を経て、11月初旬山口へ着く。領主大内義隆に引見される。  2月17日山口を発つ、厳冬の中岩国までの徒歩の旅。岩国で船便を得、境港に着く。

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日本渡船

日本渡船マップ

鹿児島への旅

1549(天文17年)43才 : 8月15日鹿児島に着く。  9月14日伊集院で領主島津貴久に会い、宣教の許可を得る。  11月5日 日本での滞在報告記を書く、サビエルの書簡中、最も長い「大書簡」と呼ばれるもの。

平戸への旅

1550(天文19年)44才 :7月平戸への第1の旅、すぐに鹿児島へ引き返す。  8月末再び平戸へ、領主松浦隆信より宣教許可。  10月末、都を目指し、平戸から山口まで船と徒歩の旅博多を経て、  11月初旬山口へ着く。領主大内義隆に引見される。  12月17日山口を発つ、厳冬の中岩国までの徒歩の旅。岩国で船便を得、境港に着く。

京都へ決心

1551(天文20年)45才 : 1月戦乱で荒廃した京都に着き、天皇に拝謁を望むが果たせず滞在11日にして京都を去る。3月中旬堺より海路にて平戸へ

大友義鎮(宗麟)と出会う

1551(天文20年)45才 :4月はじめ山口に向かう、7月末大内義隆に謁見、宣教許可、厚い保護を受ける。2ヶ月間で約500名に洗礼を授ける。9月初め山口を去り豊後へ、大友義鎮(宗麟)と出会う。9月中旬豊後領主大友義鎮の招きに応じ山口を出発、5日後府内に着く。最高の待遇を受ける。

日本を去る

1551(天文20年)45才 :9月30日大内義隆の死。 11月 日本を去る。途中種子島の西之表に立ち寄り、領主種子島時堯(ときたか)に挨拶、種子島を経てインドヘ赴く。 12月27日、サンチャン島着、マラッカに着く。シンガポール海峡に着、インドの管区長に任命。  12月30日 ゴアへ向けて出帆、マラッカを去る

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神様のみもとに帰る

1552(天文21年) 46才:1月24日インドのコーチンに着く、インド管区長としての仕事に従事

2月ゴアに着く

4月17日ゴアを去り中国へ

5月マラッカに着く

7月17日シンガポールへ向けて出帆

6月23日シンガポールから中国

8月上川島(サンチャン)に着く、中国本土への渡航の方法を模索、が病に倒れる

12月3日帰天(死ぬ)上川島に仮に葬られる
遺体はマラッカに運ばれ丘の聖母教会に埋葬
1553(天文22年):2月17日12月ゴアへ送られる
1554(天文23年):3月16日遺体はゴアに着き、この地に埋葬された
1619(元和5年):10月25日教皇パウロ5世によって列福された
1622(元和8年):3月12日イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリオ15世によって列聖された
イグナチオと共に教皇グレゴリオ15世によって列聖される

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