9月の福音のメッセージ

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年間第二十二主日の福音 マルコ福音7章1-8、14-15、21-23

 福音書の中では、いつもイエスとファリサイ派、そして律法学者の人々との対立論争がみられます。今日の福音書でも彼らは、激しくイエスと論じあっています。
 当時のファリサイ派の人々や、律法学者の人々にとって律法を遵守することは、彼らの最重要課題でありました。ところが時代の変遷と共に律法解釈も少しずつ異なりその時代時代にあった律法解釈が加わり、それらが口伝律法として伝えられていたのです。それが今日、イエスの言われる「昔の人の言い伝え」なんです。この「昔の人の言い伝え」が、当時の一般民衆を神から遠ざけると同時に、何も知らない人々を罪人にならざるを得ない状況に陥れていたといっても過言ではないでしょう。
神の愛の心デザイン画 当時の人々には、律法そのものも良く分からなかったし、ましてや「昔の人々の言い伝え」に至っては、解るはずもなかったのです。 そこでイエスは、ファリサイ派、律法学者たちに向かって「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」と言われたのです。イエスは彼らが、「神の掟」を捨てさせる原因を作っていたことを痛烈に批判したのです。つまり、ファリサイ派や律法学者の人々は、律法を大切にするあまり、些細な規則にあくせくし、"神の掟の本来の意"である「神の愛の心」を忘れていたからです。したがって、イエスは彼らに"人に汚れをもたらすのは、人の外側にあるのではなく、人の内側にあるんだよ"と教えられるのです。


年間第二十三主日の福音 マルコ福音7章31-37

 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そしてイエスはこの人をいやされる。このイエスがなさったしるしの意味は何だろうか。 何を語り、示しておられるのだろうか。それはすべての人に救いの訪れを示すということではないだろうか。イエスはまず人々に新しい希望と光を与えようと思われた。そしてイエス御自身をそのような方として人々に受けとめてほしかった。悲しみと絶望しか見出すことのできない世界に希望を与えていく救い主の使命。その救い主こそイエスだということをそのしるしで表そうとされているということ。耳が聞こえず、口もきけない人の苦しみと悲しみ、そして闇。 他の誰も救うことのできなかったこの人の悲しみと闇を人々はイエスにぶつけていく。そしてイエスは人々の願いを拒まれなかった。そうだとしたら、私たちもこのイエスに近づいていくことが大事では。このイエスに心を開き、自分のかかえる悲しみ、闇を伝えていく。 その私たちの信じて近づく態度の中に神の業は示される。現代はイエスの時代と違ってもう奇跡は起こらないと思う人が多いかもしれない。しかし信じる態度でイエスに近づき、自分もイエスに結ばれて懸命に歩んでいくなら、私は自分の中に、そして周りに奇跡を現代でも見出すことができるように思う。それは小さな出来事にすぎないことかもしれない。しかし自分の生き方を勇気づけてくれるような出来事は私たちの身近に起こっているのだと思う。それを見いだせる目を持ちたい。


年間第二十四主日の福音 マルコ福音8章27-35

「人々は、私を何者だと言うのか」とイエスに尋ねられた弟子たちの答えは、十人十色でしたが、自分の意見を聞かれたとき、彼らは黙り込んでしまいました。  質問に答えたのはペトロだけでした。彼の答えは見事に当たりました。「あなたは、メシアです」、すなわち、「あなたは、国を解放するために、神に遣わされた方です」とペトロは言いました。 メシアは誰から国を解放するのでしょうか。当時の大勢のユダヤ人は、国を占領したローマ人からだと思っていました。占領者を追い払い、終わりのない平和の時代を開始する将軍のように、メシアのことを考えていたのです。
十字架の意味を考えよう  イエスは話を続けられました。「自分は、強力な権力者に排斥されて、近いうちに殺される」と突然皆に言いました。それを聞いたペトロは、「まさか、そんなことはありえない」と、当然反応したでしょう。 実は、その時イエスは「三日の後に復活する」と加えられました。しかし、先の言葉にあっけに取られた弟子たちは、復活のことを全く聞き逃したようです。 先ほど、イエスによって褒められたペトロは、先生をわきへお連れして「死の言葉」を撤回させようと試みましたが、かえって、イエスによって厳しく叱られたのです。イエスにとって、ペトロの言葉は誘惑そのものでした。 人間の常識だけで十字架のことを考えていたペトロは、「救いの道具」として十字架を考えられる神の立場を全く無視していたのです。
 イエスの最後の言葉は、反省の糧となる言葉です。十字架につけられたイエスの弟子たちは、先生と同様に十字架を背負い、場合によっては十字架につけられるはずです。無理のない、楽な生き方ばかり楽しもうとし、十字架を肩から下ろす人は、永遠の命を獲得するのは不可能です。きょうの福音書の教訓はそのことを意味しています。


年間第二十五主日の福音 マルコ福音8章27-35

 メシアであるイエスの使命は、自分の命をささげるまで奉仕することに表れる。キリスト者はイエスと同じように、日常生活の中で奉仕者にならなければなりません。 ところが、どんな時代でも、神に従う人は邪魔になって迫害を受ける。(知恵2.12、17−20) 今日の福音を味わいながら、四つの点に注意を集中しなければなりません。

そのように行動するキリスト者が上から出た知恵のある人です。その知恵は七つのしるしがあります。『純真、温和、優しさ、従順、憐れみ、偏見はなく、偽善的でもありません』 (ヤコブ3、17)
なぜ、わたしたちの共同体には時々分裂があるのでしょうか?
わたしたちの共同体はだれを中心に置かなければならないでしょうか?



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