10月の福音のメッセージ

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年間第二十六主日の福音 マルコ福音9章38-43、47-48

 福音書を読んでいて気づかされることは、"イエス様は、いろいろな機会を通して弟子たちに「愛の道」について教えられた"と同時に、"弟子たちを通して現代に生きる私たちにも二千年という時空を超えて、教えて下さっている"ことです。  今日の福音では、"わたしの弟子でありたいのなら、このような姿勢でありなさい"と弟子たちを通して、私たちにも教えています。弟子たるもの "他者に対する取るべき姿勢、たとえ弟子でなくてもイエスの名において善い行いをすれば、イエス様に受け入れられること。小さな人に対して取る姿勢、また自分自身に対する姿勢"は、どうあるべきかを教えています。  つまり、たとえ仲間でない人であっても、イエス様の名前を使って良いことをする人がいた場合、その人はイエス様の味方であり、その人は弟子たちと同じように報いを受けることが出来ますよ、と言われます。また、それに続いて語られたことは、とても怖い表現を用いて語っていますが、それは弟子たち自身の、また私たち自身の弱さを配慮した言葉使いと言えるでしょう。  "小さな者"とはキリスト者自身であり、仲間を、自分自身をつまずかせてはならないという。もしあなた方が、イエス様との"つながり"の障害になる「手」、「足」、「目」があるなら、切り落としなさいと言われる。つまり、「あなたにとって"誘惑"となるものを絶つ必要がありますが、これは簡単ではありませんよ、"誘惑"に勝つためには痛みが伴いますから」と言うことです。 


年間第二十七主日の福音 マルコ福音10章2-16

 現代において離婚する人の数は増加の一途をたどっているように思える。永遠の生涯の愛を誓っても、それを実践し続けるのは簡単なことではない。 人間の目で見るなら、結婚の絆が二人にとって重荷となった場合、その絆を解消しても何の問題もないように思える。しかし神の目で見るならどうであろう。聖書には「天地創造の初めから神は人を男と女にお造りになった。 それゆえ人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と記されている。神が人間を男と女に造られたのは、二人が互いに支え合い、補い合い、助け合って生きていくためであろう。そして結婚にも神の思いと願いが込められている。人生は荒れ野を歩む旅であり、決して平坦な道ではない。 しかしその歩みを共にしてくれるよきパートナーがいてくれたらどんなに心強いものだろう。神が人を男と女にお造りになられた真の意味はここにある。人生を歩む中で、様々な決断をしなければならない時がある。その時、ただ人間の知識だけで判断するのではなく、神の思い・心に目を向けたい。神は私たちの真の幸せを願い、そのために必要な光で照らしてくださる方である。私たちが静かに立ち止まって、その光に目を向けるなら新たな解決策が見出せるかもしれない。


年間第二十八主日の福音 マルコ福音10章17-30

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょか」と、きょうの福音書でイエスは尋ねられました。私たちは、皆、いつまでも幸せに生きたいのですが、この本能的な気持ちは、食欲、性欲、自己保存などの本能と同じように、挫折のままで終わるはずはありません。しかし、永遠の幸せは可能だと確信しても、いったい、どうすれば手に入れることができるでしょうか。
 イエスに先の質問したユダヤ人は、神の存在を認めている人で、しかも生命をはじめ、持っているものはすべて神から受けたものだと、固く信じていました。 その恵みは神からの愛の証拠であり、愛をもって神のご恩に応えなければ、彼には深い幸せがありえなかったでしょう。愛のない心、冷たい心をもってこの世を出た人は、いったい、自分が愛さない神と一緒にいつまでも幸せになれるのでしょうか。愛さない相手と一緒にいるのは、むしろ「地獄そのものだ」と、人が言いますが…
 考えてみると、この世を出る前に、地上にいる間は、神に対して本当の愛を養うべきでしょう。見えない神ですから、その気持ちは全く無理だと思う人がいるでしょうが、本当の愛なら、無理ではないと思います。本当の愛は、ただの感情ではなく、相手のことを第一にして、相手のお望みに従って生活したいということです。相手が何かを命じた場合、なおさらそうです。
 神に対する偽りのない愛の道は、「神のおきてを守る」道です。イエスは、きょうの福音書において「(神の)おきてをあなたは知っているはずだ。」と言われますが、マタイの同じ福音の箇所を見ると、「もし(永遠の)命を得たいのなら、おきてを守りなさい。」と書いてあります。なるほど、永遠に幸せになりたい私たちは、きょうからその道の旅に出発しましょうか。
(J.M.バラ記  ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第二十九主日の福音 マルコ福音10章35-45

 マルコ福音書のなかでイエスは三回自分の死と復活を予告します。今日の箇所はその予告の三度目をした後のゼベダイの子らのエピソードです。マルコは「イエスに従うとはどういう意味ですか?」と繰り返し、そしてまた、弟子たちの無知を目立たせます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と
▼ 権力と特権を探すこと = イエスがエルサレムへ向かっているところで、ヤコブとヨハネは進み出て、イエスに言った:「・・・一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 実は、彼らは栄誉の一番高いポストを要求しています。イエス先生は受難の方へ向かっているのに、彼らは反対にイスラエルの裁判官として、先生の右と左に座らせて欲しいと願っています。イエスに従うよりも、高い位に着きたいのです。
▼ 権力は奉仕すること = ヤコブとヨハネがあのように願い出たために、他の弟子たちは憤慨した。確かにいつの時代でも、権力と特権を手に入れようとして、社会の中では争いが起ります。そして、奉仕として受け取られていない権力は分裂と差別を招きます。勇気のある二人の弟子たちが先に願ったので、他の十人の弟子たちは腹を立て始めます。権力と特権を望むことは皆の共通点だから。
▼ 人の子、神の子イエスの模範 = 神の子の死は新しい社会を作るための根幹です。イエスは皆に仕える者になった。それで、彼の生涯は死ぬまで奉仕することを通して、皆を贖いました。贖いという言葉は奴隷を開放するための対価を示すものでした。イエスは自分の命を身代金として人類の解放のために支払いました。だから、イエスの死と復活以来、人間はだれも他人を圧迫したり服従させたりする権利を持っていません。人類はイエスによって贖われたので、私たちは、皆イエスのものです。新しい社会の唯一の律法はイエスに倣って奉仕することです。 (Sr.Consola fi記)



年間第三十主日の福音 マルコ福音10章46-52

 「先生、目が見えるようになりたい」と、きょうの福音書の主人公はイエスに願います。イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と答えます。私は、このエピソードを読むたびに、イエスに奇跡を行わせた主人公の信仰と魅力的な気立てに深く感銘します。思わず、バルティマイのような人になりたいな、と思ってしまいます。
 社会福祉のない当時は、盲人たちは、生きるために物乞いしなければなりません。バルティマイも、エリコでそれをしています。アジア大陸からエルサレムに来る商人のキャラバンは、ザアカイ(ルカ19.1−10)の徴税事務所で税金を払った後、バルティマイがいる場所を通らなければなりません。そこは、多くの施しを手に入れる場所です。
バルティマイの願いマルコ10章46  ある日のことです。ナザレのイエスについてよく聞いていた盲人バルティマイは、イエスをメシアと思っています。すぐそばを通っていると分かった時、「ダビデの子(メシア)イエス、私を憐れんでください」と、ひっきりなしにくり返します。周りの人は、皆に邪魔だから彼を黙らせようとしたが、せっかく一生のチャンスだから、バルティマイはなおさら叫び続けます。 ようやくイエスに呼ばれると、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの元に来ます。必ずいやされると、確信しています。
 「何をしてほしいか」。盲人を迎えるイエスの言葉は、本人をがっかりさせたでしょう。「私がメシアと思ったこのイエスは、私の身体障害のことは全く分からない」と感じたでしょう。でも、こみ上げた不信の気持ちを抑えて、素直に「先生、目が見えるように」と答えます。奇跡はその時です。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」とバルティマイをほめて癒されたのです。盲人はもうイエスから離れられません。
 福音書の主人公の信仰は魅力的ですね… 心の目が見えない私は、バルティマイと同じく、「イエスよ、目が見えるように」とひっきりなしに願いたい気持ちです。
(J.M.バラ記  ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)

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