11月の福音のメッセージ

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年間第三十一主日の福音 マルコ福音12章28b-34

 今日の福音では、"掟"について語られます。先ず、いつも通り律法学者が、イエスに尋ねます。いつもと違うことは、今日、登場する律法学者は、イエスに対して挑戦的な態度でなく、むしろ好意的な態度で尋ねていることです。恐らくこの律法学者は、これまでのイエスの言動から"この人は普通の人ではない"と感じていたのでしょう。そして彼自身、律法に精通している者として、また律法通り生きることを使命としている者として、掟の中で何を一番大切にしなければならないかを、"このただならぬ人・イエス"から確認したかったのでしょう。
花と蝶々  イエスが律法学者に答えた「第一の掟と第二の掟」。そして、それらはどちらが一番であり、どちらが二番と言うことではなく、どちらも同じ大切な掟であると言われます。 これに対して律法学者は、"私もそう思います"とイエスの答えに同感します。そしてイエスは、「あなたは、神の国から遠くない」と律法学者に言われます。それを聞かされた律法学者は、喜びと同時に、自分の律法理解に大いに自信をもったでしょう。
 神を愛すること、私たちも頭で理解できても具体的にどうすればよいのか判りません。しかし第二の掟は、その具体的な方法を教えています。「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」と。つまり、私たち一人ひとりが、自分自身を愛する熱意で同じように隣人も愛しなさいと言うことです。あなたは、隣人を愛していますか?


年間第三十二主日の福音 マルコ福音12章38-44>

青空とコスモス  「貧しいやもめは、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」と今日の福音は語っています。これはこのやもめの神様を第一にし、そこに絶対の信頼を置いて生きる姿勢を物語っているということでしょう。生活費を全部入れてしまっては、その後どうやって生活していったのだろうという現代人的な質問も聞こえてきそうですが、本質はそういうことではなく、自分は何に一番の信頼を置いて生活しているかということでしょう。神様は確かに私たちの目に見ることはできません。しかし目に見ることができないから神は存在しないとは言い切れません。世の中には目に見えなくても存在するものはたくさんあるからです。イエス様が神の子であるにもかかわらずこの世に人間の姿で現れになり、告げてくださった一番のことは、神は存在しておられる、しかも憐れみ深く慈しみ深い方として存在してくださっているということです。だから喜びなさい。安心してその方に心を向けて、その方に向かって歩んで生きなさいとイエス様は呼びかけられたのです。そしてその神様が私たちに求めておられるのは金額の多さではありません。心です。どこかに援助するために募金をするときも、一番大事なことはその人々に心を合わせること。心を込めて行うこと。そんなに多くの金額は集められなくても、心を込めて集めたお金を送るということ。神様が大事にされるのは心のあり方、心の態度です。神様はその私たちの心に計り知れない恵みで応えてくださる方だと信じます。


年間第三十三主日の福音 マルコ福音13章24-32

「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」  ザルツカンマーグート・ハルシュタットの教会 この言葉は、おそらく紀元30年4月7日に殺されたイエスの最後の説教の一部です。自信満々のように聞こえますが、イエスがこんな自信を持ってい  御受難の直前であるこの説教において、イエスはまず70年にローマ人に破壊されたエルサレムとその神殿の滅びについて預言されます。きょうの福音書は、その預言に続くイエスの再来の預言、すなわち、最後の日に再び世に来られるイエスについての話です。これから2週間のあと、私たちは教会典礼暦の最後の主日を祝いますが、教会はそれを機会に、「世の最後の日」を思い起こします。
 イエスの到来に先立つ、今日の福音書の天変地異は非常に激しく、荘厳で、恐ろしいほどの現象です。イエスの預言の言葉は、旧約聖書においてイスラエルを裁きに来られるヤーウェの言葉を写しています。その言葉が物語っている現象を文字通りに解釈する必要はありません。
 力と栄光を帯びて、雲に乗って世に現れる「人の子」(=イエス)は天使たちを遣わし、復活した四方の義人--神と隣人 を愛している人--を呼び寄せられます。 旧約聖書の「ヤーウェの日」なら、使いを送られるのはヤーウェ(神)御自身ですが、ここでイエスは、その特権を受け持っておられます。しかし、マルコは「最後の審判」を開くイエスをここに載せていません。それについて知りたい読者は、マタイ25.31−46(「最後の審判」)を参照する必要があります。
 当時の人は、ここで預言される事を自分の目で見るだろうとイエスは言われますが、2000年も経ったのに、イエスはまだこの世に見えていません。 その時、イエスは、おそらくエルサレムと神殿の破壊について話されたでしょう。
 問題はもう一つあります。イエスは、再来の時期について、御父以外に誰も--自分も含め--知らないことだと言われました。確かに、神としてのイエスの知識は限界のないものですが、人間のイエスはすべてを知っておられたのでしょうか。神学者たちは、これについて大昔から議論を続けていますが…
(J.M.バラ記 ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


「王であるキリスト」 ヨハネ福音18章33b-37

 今日は、典礼年の最後の主日としている「王であるキリスト」の祝いです。その祝いを通して、私たちは歴史の「主」に信仰宣言をします。ヨハネ使徒は、イエスのご受難を語りながら、イエスはどのような王であるかということを説いていきます。
今日のために選ばれた福音の箇所は、最初から最後までイエスとピラトの会話で、ピラトはユダヤ人のこともイエスの王権のことについても理解していない、という場面です。 あの時代の政治家と宗教家の人々は、イエスの王権を受け入れられなかった(理解できなかった)ので、神の子を裁くことになってしまいました。 ピラトはイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と聞きました。イエスは、ピラト自身が自分の立場を表すように答えました。
ピラトはその裁判について責任を持ちたくないが、イエスの犯罪を知りたいのです。権力のある人たちにとってイエスは犯罪者です。しかし、キリスト者にとってすべてのみ業、行いはイエスの宣教を正統としています。イエスはピラトの質問に答えません。なぜなら、自分は神から来たのであって、すべての行いは父のなせる業であり、そのことを認めることは、信仰の結果で彼と約束されたことだからです。そのピラトとの会話の中心は36節にあります。イエスは、強さと権力を作っている王権は望んでいません。また、 彼は王座を望んでいるわけでもなく、ピラトの権力を越権行為するつもりでもありません。つまり、「わたしの国は、この世には属していない」といいます。 ピラトはその意味が分からないので、「それでは、やはり王なのか」と尋ねます。 イエスはご自分の役目を教えます。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。 イエスは、神さまの行いを完全に忠実に実現します。イエスの宣教は、神の愛は人々に与えられた命の賜物として存在することを最後まで証しすることです。
終わりに、イエスは共同体に言い残しました。『私たちはみ声を聞くために、真理の仲間になるように』と。
(Sr.Consola fi記)



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