12月の福音のメッセージ

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クランツ−ろうそく1本目

待降節第1主日 ルカ福音21章25〜28、34〜36
    「心が鈍くならないように、目覚めて祈りなさい」




 時間的経過の描写における天地異変の"終末"状況は、何も知らない無知な者にとって、恐ろしいことの前兆と理解されます。しかし、神を信じる者にとって、その"終末"の状態は、人を苦しめ、悲しませる天から降る罰ではなく、むしろ良き"しるし"を意味するものであって、まさに救いの時の到来なのです。なぜならイエス様は「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言われるからです。
 では誰のため何のために、救い主が来られるのか。それは旧約の時代、イスラエルの民が奴隷であった頃、神がイスラエルの民をエジプトから解放されたように、この地上のすべての民へイエス・キリストによる第二の解放の"しるし"が授けられると言われるのです。
 ところが、自由の身となった民は、神の救いであったエジプトからの解放を忘れ、勝手気ままな生活を始めたのです。そして、ついにこの世の支配を人間が司り、神を神とも恐れなくなってしまったのです。
 人は平穏な生活になれれば、これまでの神からの恵みを忘れて放縦な生活に陥り、さらにその生活を自分自身で勝ち得たものと錯覚してしまうのです。さらにその錯覚の世界において人は、すべてが当たり前となり、何に対しても鈍感になってしまうのです。
 「聞く耳のあるものは聞きなさい」 "その日、その時"は、いつ突然やってくるか誰にも判りません。だから、間近に迫っているイエスの到来に「心が鈍くならないように、目覚めて祈りなさい」と宣告されたのです。
 なぜなら"救い"は、奴隷からの解放ではなく、すべての民を永遠の命に導く希望の光であるイエス・キリストによる救いの時だからです。


クランツ−ろうそく2本目

待降節第2主日 ルカ福音3章1〜6
    「私たちが弱さをもった存在だからこそ、
          主は私たちのもとに来てくださった」



 待降節第2主日を迎えました。主の降誕を迎える準備をする待降節の一番よい過ごし方は、自分自身を含めて世の中にある闇の部分を意識していくことだと言われます。自分の中にある闇、社会の中にある闇、そこにどんな闇があるか見つめていくことです。自分の中、そして自分の周りにある闇を意識している人こそ、そこに光として、救い主として来てくださる神の御子のありがたさがわかります。洗礼者ヨハネは荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。荒れ野は確かに試練の場ですが、同時に真に頼るべき方、目を向けるべき方が誰であるか体験できる場所でもあります。誰もが荒れ野を通過することで、自分自身の弱さ、小ささを素直に認めること、それを通して私にはあなたが必要ですと自分の心を神に向けていくことです。イエス様を通して示された父である神が私たちから聞きたい一番の言葉は、この「私にはあなたが必要です」という言葉ではないでしょうか。真の悔い改めとは自分のありのままの姿を見つめ、そこから神に心を向けていくことです。私たちが立派な行いをしているから神の御子が私たちを訪れてくださったのではなく、神からの無償の恵み、私たちが弱さをもった存在だからこそ、主は私たちのもとに来てくださったということが、主の降誕の神様からの大切なメッセージです。待降節の間、主の降誕に込められた神様の心を汲み取ることができるよう祈りたいです。


クランツ−ろうそく3本目

待降節第3主日 ルカ福音3章10〜18
    「わたしにはメシアの奴隷になる資格さえもない」




 今日は、27年にさかのぼって、福音書の場面に立ち会ってみましょう。当時のユダヤ人たちは、民衆を解放するメシアを待ち望んでいました。この福音書の主人公ヨハネは、ふさわしい心でメシアを迎えることができるように指導をしていました。一週間後に、ベツレヘムのメシアイエスを迎えようとする私たちは、その時のと同じ状態に置かれています。ただ、洗礼者ヨハネの代わりに指導を与えてくださるのは教会です。
 まずヨハネは、一般的な指導を民衆に与えました。「どうすればいいか」と聞かれると、服と食事を分かち合うように勧めました。恵まれている私たちも、服と食べ物のほか、教育、健康、時間などを、恵まれていない兄弟・姉妹と分かち合うようにと勧めています。これこそ、イエスを迎えるにふさわしく、偽りのない愛の道です。
 専門的な指導も与えました。当時税金を納めた徴税人は、国の法律を守るはずでしたが、強欲さから、規定以上の税金を取り立て、不正に私服を肥やしていたようです。もし私たちが奉仕の心を忘れて、自分の利益ばかり考えている人なら、その生き方は、イエスを迎える道ではありません。
 兵士も、「どうすればよいのですか」と相談に来ました。乱暴で評判の悪い兵士でしたが、彼らも救ってくださるメシアを待ち望んでいました。私たちも、ヨハネの指導に従って、乱暴な生き方や人をゆすり取ったりだまし取ったりするような生き方を避けなければ、「平和の主」であるイエスを迎えることはできません。
 ふり返ってみると、ヨハネの指導は非常に厳しかったけれども、多くの人はそれに聞き入り感銘を受けたようです。どうしてでしょか。 指導者ヨハネは非常に謙遜な方だったからだと思います。偉い預言者ヨハネは、自分にはメシアの奴隷 ―主人の履物の紐を解く奴隷― の資格さえもない、と公に認めた人です。傲慢な人は、指導者として適格ではないと考えるのは、当然ではないでしょうか。 (J.M.バラ記 ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


クランツ−ろうそく4本目

待降節第4主日 ルカ福音1章39〜45
    「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」




地方の村から救いが来る
 エルサレムの取り巻き達にとって、見下した田舎のベツレヘムという村を、ミカ預言者は、特別な場所としています。ベツレヘムでお生まれになる王は地の果てに力を持ち、そして、彼の指導で民は安らかに生きます。それは、主の力が人民の中にあって、皆のためにシャローム、平和、幸福をもたらすからです。その預言は実現しました。ルカは、イエスのご受難と復活の体験によって、初代教会のすべての歩みを導くために幼いイエスについて語ります。
● 貧しい人々の内に三位一体は現われる
 命を生む賜物に恵まれた二人のお母さん達の出会いと、「その胎内の子がおどった」と書かれているように、聖霊の働きを通してイエスとヨハネの赤ちゃんたちの出会いを感じさせます。 三位一体は、貧しい人の家(こころ)に入って、その場所を住まいとしています。
● 神は私たちの信仰を豊かにする
 エリサベトはマリアが祝福された女だと宣言しています。聖書のなかで、人々は神の存在と働きを感じるときにほめたたえます。「あなたは女の中で祝福された方です」と。 旧約(エリサベトとヨハネ)は新約(マリアとイエス)を祝福しています。わたしたちは神の働きを感じ、賛美しますか?  喜びにあふれたエリサベトの言葉を通して、神の民の喜びが「わたしの主のお母さまが、わたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と表わされました。
 ミサのなかで、命のパンと命の言葉を通して、神さまご自身を身近に感じて、わたしたちはエリサベトと同じように聞き、「どういうわけでしょう」とその神秘を味わい祈りましょう。 いつも、わたしたちはロザリオを祈るとき、エリサベトの言葉はわたしたちの言葉になります。エリサベトの賛美は、身体の母性を超えていることを、ルカは45節に書いています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と。わたしたちは、み言葉を聴く、信じる態度によって幸福になります。確かに、ルカは繰り返します「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11、27)また、ヨハネも「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20、29)と−−−わたしたちはどうでしょうか?



聖家族

主の後降誕後第1主日 ルカ福音2章41〜52
    聖家族「子どもには、大人に聞こえない聖霊の声が聞こえている」




 「あなたにとって、最も大切なのは何ですか?」と聞かれると、大多数の人は「家族です」と答えます。その通りです。きょうの「聖家族」 ―イエス、マリア、ヨセフ― の福音書において、私たちは、理想的な家族のことを考えるように教会から勧められています。ナザレの聖家族と同じように、その家族の子どもたちは両親に従い、背丈と共に知恵において成長し、ますます愛らしくなる子どもとして育てらます。このような家庭に生まれるのは、何よりもありがたい恵みです。
 ところが、いかに理想的な家族であろうと、そこにトラブルがありえないとは言えません。聖家族の場合もつらく苦しい経験をする時や、互いに理解が足りなかった時もありました。きょうのエピソード ―「いたずらっ子」イエス(?)のエピソード― はその一例です。
 過越の祭りが終わった時、ナザレの村人たちは帰途に着きましたが、身を隠したイエスは神殿に残りました。もう12歳の子どもですから、こんな行動をとれば、どれほど両親を苦しめるかが、よく分かっているはずでした。しかし、ヨセフにもマリアにも一言も話しませんでした。普通の子なら、この行為はただのいたずらではなく、重大な行動です。福音書から明らかなように、ご両親にそれが理解できなかったのは当然だと思います。
 両親に知らせずに神殿に残るのはイエスも苦しかったでしょうが、それをするほかはありませんでした。天の父が、誰にも知らせずに、ご自分の家である神殿に残るように命じられたからです。人に理解されなくても、御父に従って十字架上で命を捧げたイエスは、今も、苦しみながらも、父のお望みに従って行動します。
 私たちの子どもにも、場合によっては理解できないところがあるでしょう。そのような時、落ち着いて子どもと話しましょう。もしかすると、清い心の持ち主である子どもには、大人に聞こえない聖霊の声が聞こえているのかもしれません……
(J.M.バラ記 ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



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