2010年9月の福音のメッセージ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。



年間第23主日 ルカ14章25〜33
「何よりも神を愛す」
 イエスはいつも、「人を愛しなさい、敵さえも愛しなさい。特別に身近な人である親、妻、子を愛しなさい」と言います。しかし、なぜ今日は「親を憎まない人は私の弟子になりえない」と言ったのでしょうか?
 これはヘブライ人特有の表現なのです。この意味は、「親より、子どもより、自分自身よりもキリストを愛しなさい」ということです。
 神は、アブラハムに言われました。「息子イサクを犠牲として捧げなさい」と。 アブラハムは、息子を愛していましたが、それ以上に神を愛し、その命令を大切にしたので、息子を殺そうとしました。キリストは、「親を愛さないように」とは言いません。「深く愛している親より、なお一層強く、深く、広く神を大切にするように」と言います。
 殉教者たちは、自分の命を愛していましたが、しかし、それ以上に神を愛していたので、自分の命を犠牲にし、命を捧げ、捨てることができました。
 二千年ほども前に生きたイエスのために、自分の大事な親をおいて、イエスに従い、殉教を選ぶ人は、現在でも多いのです。この人々は、イエスが単なる人間ではなく、神であることを証明します。
(ルイス カンガス神父)



年間第24主日 ルカ15章1〜32
「イエスの一番の喜び」
 私たちは毎日の生活の中で、大事なもの(例えばメガネ)をなくした時に、初めてその物の価値が分かり、それを探し、見つけると喜びます。
 神様にとって罪人とはその大事な物です。私たちが回心して神に戻ると、神はとても喜びます。九十九人の義人より、戻った一人の罪人のほうがイエスの心を慰めます。その時のイエスは銀貨を見つけた女と同じ気持ちで、人々に向って叫んだでしょう。『離れていた人が戻りましたから、一緒に喜んでください。』と。。あるいは、あの放蕩息子の父親のように『死んでいたこの罪人が生き返ってきたから、楽しみ、喜びましょう。』と言ったでしょう。
 イエスから離れていた人を私たちが連れ戻してきたら、イエスは大喜びしてくださるでしょう。
(ルイス カンガス神父)



年間第25主日 ルカ16章1〜13
「神の管理者」
 福音書に記録されるイエスのたとえは、度々羊飼いと羊の群れについての話があります。でも、このコメントは少し難しいです。なぜなら、動物園でなければ羊を見たことのない多くの日本人は、羊の群れの詳細はもちろん、羊の群れの羊飼いの心遣いもあまり分からないからです。幸いに、今週のたとえは違います。多くの日本人がプロである「簿記」についてのたとえです。新聞を見ると、毎日「簿記のごまかし」のニュースが出てきますが、イエスのたとえにも「簿記のごまかし」の話があります。では、きょうのたとえについてコメントをまとめましょう。
 たとえ話の金持ちは、農業の卸売業者でした。ある小売商人に油の百樽、他の商人に小麦の百石を売ったりするのですが、とても儲けています。もちろん、ビジネスの簿記は自分でしません。それは、管理人に任せます。ところが・・・
 卸売業者の管理人は、悪党そのものでした。主人の信用を持つ彼は、簿記を付けるだけではなく、商売の取引にも携わっていたようです。そのとき彼は、主人の妥当な利益を求めるよりも私服を肥やすばかりでした。主人は何も知らなかったが、管理人についての噂が広まり、いつか主人の耳にも届きました。主人が噂の真偽を調べたところ、彼が信頼していた管理人の不実がやっと分かりました。どうしても、罷免しなければなりません。
 管理人を呼び寄せ、「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と、主人が単刀直入に言い出したとき、相手はすぐ分かりました。これから、今の管理職を続けるのは不可能です。しかし、乞食の生活が恥ずかしく、農業の労苦には向いていません。自分の将来のことを用意しなければなりませんが、どうすればいいだろうか。
 悪賢い管理人は、やっと、将来の生活費を確保する手だてを見つけました。商売相手を呼び寄せ、主人に借りのある彼らの証文を破り捨て、ある人に50%、もう一人に20%の借りを減らす新しい証文を渡しました。もう首になっても、迎えてくれる友達が十分にできたので、心配は要りません。管理人のやり方を耳にした主人は、彼の詐欺は褒めませんが、入念に将来を準備したその賢さを大変褒めました。
 ロヨラのイグナチオが『霊操』において(23番)明らかにするように、私たちは神の管理者です。イエスの勧めに従って「不正にまみれた富で友達を作り」、彼らが天国に迎え入れてくれるように、準備をいたしましょう。きょうイエスが忠告なさるように、管理職の細かいところにも心を配り、私たちの主人である神の代わりに、拝む偶像(特に自分のわがままの偶像)を主人に立てないように努めましょう。
(J.M.バラ神父(現:益田教会)



年間第26主日 ルカ16章19〜31
「まず神の愛を必要とする人々を愛する」
 高価な衣服を身にまとう金持ちの家の門前に、できものだらけのラザロが横たわっています。金持ちは毎日贅沢を楽しんでいますが、孤独なラザロは空腹に耐えており、近寄ってくるのは犬だけでした。金持ちの食卓からは毎日、多くの残飯や手を拭うために使ったパン屑が落ちてきたことでしょう。しかしそれすらも、ラザロの口に入ることはありませんでした。
 二人は亡くなりました。一人は盛大に葬られ、もう一人は墓に葬られもしなかったことでしょう。しかし、ラザロが天使たちによって運ばれた先は、アブラハムのすぐそば、天国の宴席でした。二人の立場は逆転しました。
 生きているときに悪いものを受けたラザロは慰められ、一方、金持ちは陰府の炎の中で苦しみます。散々飲食を楽しんだ「舌」は、今や熱と乾きのためにたった一滴の水を求め、ラザロに水を運ばせるよう頼みますが、金持ちとラザロの間には大きな淵があって、そうすることはできません。そのような状況を覆す手立てはないのです。
 「父アブラハムよ」と金持ちは呼びかけ、アブラハムも「子よ」と答えています。つまり、互いに血縁は認めるものの、しかし、救いには何の役にもたたないようです。イエスが、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8.21)と語った言葉を思い起こします。
 さらに金持ちは、ラザロを兄弟たちのところに遣わしてほしいと願いますが、アブラハムはそれを断っています。この世に生きるわれわれには天の国を垣間見ることは許されていません。しかし今、私たちは神の言葉を聞くことができます。それこそが救いの入り口です。
 私たちは、神の愛が誰にも等しく向けられているように思いがちですが、イエスとラザロとの関係を振り返れば、そうではないことは明らかです。私たちが、「愛する」というとき、それは会ったこともない不特定多数の人々ではなく、特定の誰かを愛することを意味します。「私が愛しているあの人を今、私は愛している」ということになります。
同じように、神の愛も特別な誰かに向けられます。それは、神はそれ以外の人々を愛さないというのではなく、まず神の愛を必要とする人々を愛する、彼らの近くにいようとする、そのような愛し方です。私たちも神のそのような愛を理解し、学びたいと思います。
(加藤 信也神父)



Topへ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。