2010年10月の福音のメッセージ

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年間第27主日 ルカ17章5〜10
「愛と信仰は「ただ」の畑で」


 現代は、人のために何かをすると、すぐその報奨を要求する「領収と請求」の時代と言えます。「あの人のために、いろいろしたのに何も返してくれない」と文句を言ったりします。 おまけに神様にまで「祈ったのに、神様は報いてくださらなかった。」という人もいるかもしれまれません。しかし、親は、子どものために何も期待しないで働き、心を尽くします。それは、愛そのものです。 このように、何の見返りも期待せずに、人のために尽くす心を育てるためには、どうすればよいのでしょうか。
 私たちには、「ただ」で、いのち、親、水、太陽の光、花の香り、大地からの食物、友だちの温かさ、自分の長所などが与えられています。このことを、いつも心に留めれば、人に尽くす気持ちになり、自分の時間、お金、温かさを人に差し出すことは当然ということになります。これを悟り、喜び、賛美しながら人生の道を歩んでいく人は、人を深く愛し、また愛されます。信仰は「領収と請求」の関係ではなく、「ただ」の畑、つまり「恵み」の畑で、信仰の花は咲くのです。
 ある父親が、娘の結婚式の前日に娘に言いました。「わたしは25年間あなたのために働きました。この働きのお返しとして頼みたいことがあります。幸せになってください。幸せな家庭を作ってください。」・・神様、この父親の心を私たちにお与えください。  (ルイス カンガス神父)



年間第28主日 ルカ17章11〜19
「感謝は恵みの源泉」

 イエスの時代のハンセン氏病の人々は、体の苦しみばかりではなく、社会から追い出され、市民の資格を失い、家族や親戚からも認められなくなるという苦しみがありました。更に、この病気は罪によるものと思われていたため(そのために治癒した時には祭司から診断を受けました)、患者は神からこらしめを受けているのだと思っていました。
 そのような訳で、当時、この患者たちは、社会的、家庭的、肉体的、宗教的な痛みを共有し、国籍の違いを超えて、お互いに励ましあい集まって暮らしていました。
 イエスは、このような患者を10人癒されました。その中に一人のサマリア人がいました。彼は、自分の体が清くされたのを知り喜び、神を賛美しながらイエスの所に戻り、感謝を述べました。しかし、他の9人は帰ってきませんでした。それを知ったイエスはその9人の忘恩に苦しみ、心の痛みを打ち明けました。
 このことは、私たちが神に感謝を表すときに、神がどんなにそれを喜んでくださるのかを教えています。イエスは、その時感謝を表すために戻ってきたサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すなわち、サマリア人は、そのことによって体も心も全て癒されたのです。しかし、戻らなかった9人が癒されたのは、体だけで、心は救われなかったのです。感謝する人には、神からも人々からも恵みが与えられます。感謝は恵みの源であり、恵みの泉です。
 よく感謝する人は、大きな心の持ち主です。神と人々に『ありがとう、ご苦労様、お世話になりました』と言いましょう。 感謝は、社会や家庭の円滑剤です。 (ルイス カンガス神父)



年間第29主日 ルカ18章1〜8
「ひっきりなしに祈る」

 きょうの福音書は「やもめと裁判官」のたとえです。イエスのたとえをコメントするのはいかにも楽しく、たやすいことです。たとえに分かりにくい難点があったとしても、主ご自身がその点を説明されましたし、説明がなければ、たとえの教訓が明らかで、説明が要らないからです。きょうのたとえはその一つだと思います。主人公の裁判官は「神など畏れないし、人を人とも思わない」のですが、相手は貧しいやもめ、社会において頼りのない未亡人です。ところが、彼女がうるさくて、ひっきりなしに願い続けるので、裁判官はやっと彼女の願いを受け入れ、裁判を開くことにします。
 たとえの意味はイエスの言葉から明らかになります。私たちは、神に何かを願うとき、ひっきりなしに願わなければなりません。未亡人を相手にしない裁判官と違い、キリスト者が願っている神は、私たちを造られた神、一生憐れんでくださる天のお父さんです。裁判官は、相手がうるさいので、やっと裁判を開きましたが、キリスト者に対する神の態度は全く違います。ひっきりなしに願う私たちの祈りを受け入れ、速やかに答えてくださいます。
 「神は速やかに裁いてくださる」とイエスは言われましたが、神の裁きをひっきりなしに願うキリスト者が長く待たされるときもあります。どうしてそんなことがあるのでしょうか。場合により神は、祈っている人の忍耐を強くし、ますます本人の心を清めるために、願われる恵みを叶えるのを延ばされます。とは言え、長期間祈っても、恵みが叶えられない時もあります。そのような時は、神に向かって信頼の心を暖めましょう。善意をもって、ためになると思う恵みを願いますが、多くの場合、益となるか損害となるか分かるのは、人間の心や将来のことを見抜かれる神だけです。お願いが主祷文にぴったり合うならば叶えられますが、そうでない場合も多いでしょう。それゆえ、生きた信仰をもってひっきりなしに願う人なら、祈りの最終結果は神にお任せするはずです。
 ひっきりなしに祈りながら、その結果を神に任せることができるためには、なみなみならぬ深い信仰が必要です。私たちも使徒たちの言葉をかりて、「私どもの信仰を増してください」と、主に祈りましょう(ルカ17.5)。きょうの福音書の終わりに、イエスはこのような信仰の難しさを認められました。「人の子(イエス)が(最後の日に)来る時、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。これは信仰が弱くなりがちな私たちに深く反省させられる言葉です。  (J.M.バラ神父(現:益田教会)



年間第30主日 ルカ18章9〜14
「近づいた神の国への切符は?」

 今日の福音は、「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」と題された箇所です。場所は神殿、登場人物はファリサイ派の人と徴税人。いつものとおり、対照的な二人の人物を登場させて、イエスは私たちに教えようとします。
 ファリサイ派の人は、奪い取ることも、不正を行なうことも、姦通を犯すこともなく、週に二度断食し、全収入の十分の一を献げていたといいます。それに対し徴税人は、同胞であるユダヤ人から税金を徴収し、征服者であるローマ帝国にそれを納めるばかりか、不正によって私腹を肥やすという有り様でした。当然のことながら、「売国奴」と見なされ、異邦人や売春婦と等しく扱われたと言います。 これだけの話から、どちらが正しいかを答えるのは難しいことではありません。しかし、ここにはもう一つの要素があります。「高ぶり」であり、「へりくだり」です。
 ルカ福音書には「マリアの賛歌」(1.47-55)と題された個所がありますが、そこにはこんな言葉があります。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。

 私たちは、例外なく罪人です。そして、キリスト者とは、悪いことをしない人々ではなく、罪人でありながら、回心し、少しでも良くなろうとする人々です。イエスの教えが私たちにとって「良い知らせ」であるのは、それが誰をも排除しないどころか、罪人である私たちのために語られたメッセージであるという点にあります。 「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」、イエスの公生活の最初のメッセージです。どんな罪人であろうと、人生を軌道修正することによって、近づいた神の国への切符を手にすることができる、それがイエスからの呼びかけです。
 「義とされて家に帰った者は、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」、これが今日の福音の結末です。  (加藤 信也神父)



年間第31主日 ルカ19章1〜10
「イエスは、今の救いの訪れだけを喜ぶ」

 先週の福音朗読「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」(ルカ18)を前半だとすれば、今日の「徴税人ザアカイ」は後半とも呼べる個所です。徴税人の頭ザアカイが登場します。「徴税人は金持ち」そんなイメージがありますが、頭ともなればかなりの金持ちではなかったかと思われます。
 イエスの弟子の一人にマタイがいました。もとはと言えば、ザアカイと同じ徴税人でした。イエスは収税所にいたマタイに「私に従いなさい」と呼びかけ、彼は「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(ルカ5.27-)とあります。同業者の頭であったザアカイがマタイの転身を知っていたとしても、不思議はありません。たった一言でマタイの人生を変えてしまったイエスとはどんな人物なのか、ザアカイは大変な興味を抱いていたことでしょう。そのイエスが今、目の前に現れたのです。
 背の低いザアカイは人垣の隙間を探して走り回ったことでしょう。いちじく桑によじ登り、やっとのことでイエスを眺めたザアカイでした。それに気付いたイエスは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言い、ザアカイは「喜んでイエスを迎えました」。当然のように、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」という、つぶやきが聞こえてきます。
 しかしザアカイは、「財産の半分を貧しい人々に施すこと、だれかから何かをだまし取っていたら、それを四倍にして返す」ことを宣言し、それに答えてイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」と答えています。
 ここで気付かされることの一つは、イエスがザアカイの過去を何も問いただしていないという点です。「あなたは、あんな罪を犯した、こんな罪を犯した…」と、彼の過去を問題にするのではなく、ただ「救いの訪れ」だけを喜んでいる点です。
 今日の第一朗読(知恵の書11.22-12. 2)は語ります。「(主は、)回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。」今日のイエスも、ザアカイの過去については無言のままです。「失われたものを捜して救う」、それだけがイエスの望みでした。
 今日の福音は、二人が共に捜し合う様子を描きます。イエスは罪人の回心を、ザアカイは自らの救いを探し求めます。彼らの出会いを可能にした理由を、やはり今日の第一朗読は説明します。「(主は)お造りになったものを何一つ嫌われない。」 神は畏れの対象ではなく、悲しみのときも喜びのときも、信頼をもってその懐に飛び込んでいくべき存在である、二人のやりとりはそれを教えています。  (加藤 信也神父)



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