2010年11月の福音のメッセージ

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年間第32主日 ルカ20章27〜38
「無限の命に入る」

 どの時代、どの国の人も「自分は死んでからどうなるか」ということを真剣に考えます。旧約聖書の中には、死後の世界について、あきらかに教えられていません。むしろ、死の後には何もなく、従って正しい人は現世に福音を得、正しくない人は、生きている間この世で罰を受けると、教えていました。しかし、マカバイは、「死で全てが終るのではなく、死後の世界がある」ということをはっきり教えています。そして、キリストの時代にもそれは伝えられました。 しかし、その死後の世界は、現世の生活と同じと信じていた者が多くいました。特にファリサイ派の人々はそのように信じていました。それに対して、イエスは、確かに死後の世界はありますが、今のような(現世)世界ではありませんと教えられ、それは、全く新しい命であるということを教えました。
 私が子どもの時、親しくしていた友だちがお母さんを亡くしました。その友だちは、時々夜空に輝いているたくさんの星を見ながら、そこにお母さんの命を見ていました。そして、「お母さんは特別な新しい命に居るんだ」ということを、私に話してくれました。確かに、死後の世界はありますが、その死後の命は、ファリサイ人たちが考えているような命ではなく、この友だちがお母さんの死に見いだした「新しい命」です。
 現実の死は、全てが消えますが、その時に残こる一つのものがあります。それは、"愛"です。だから、死後の世界は、愛の世界であり、愛の存在であり、愛の命です。愛は、現実の死より強いです。
 今日、私たちより先立って行った方の命はその無限の命にいます。先立った方々の命を、神様に任せましょう。そして、やがて私たちも、その命に入ることを信じましょう。 (ルイス カンガス神父)



年間第33主日 ルカ21章5〜19
「百パーセント自力で、百パーセント他力で」

 今日の福音書をよく理解するためには第二の朗読を読むと役にたちます。
 福音は、世の終わりのときの恐ろしいさまを述べています。つまり、迫害や牢獄、裏切りや死です。第二の朗読はテサロニケの信者の状態を述べています。彼らはどうせ世の終わりはすぐ来るからと言い、仕事を一切せずに、畑を手放し、お金の無駄遣いをして、キリストの来臨を待っていました。しかし、パウロは、彼らに自分で得たパンを食べること、落ち着いて仕事をすること、善を実践することを勧めています。つまり、福音が教えるように、世の終わりと来世を考えながらも、今の仕事、家族、政治、経済などのことを怠ってはいけませんと諭しました。

 今の「一時の軽い艱難は、・・・・永遠の栄光をもたらしてくれます」(2コリ4・17)

 現世、来世、死後の世界、神との接点は難しいのですが、本当の宗教は、その接点を教えるはずです。イエス・キリストは、それを教えてくださいました。
 聖イグナチオ・ロヨラは、『何かをするときに、すべての成果が私の努力だけによると考えて、百パーセントその業を徹底的にやって一所懸命に尽くしてください。次にその結果と成果を百パーセント神に任せるように。つまり百パーセント自力でなし遂げて、百パーセント他力の心を持ちますように』と書きました。 (ルイス カンガス神父)



王であるキリスト ルカ23章35〜43
「イエスの赦しを信じる人」

 今日祝っている「王であるキリスト」の祭日で教会の典礼暦が終わります。教会は、信者が四つの福音書のポイントを味わうために、典礼をA・B・C年の周期に分けることにしました。今週で、C年の典礼が終了します。
 「王なるイエス」の祭日は、1925年教皇ピオ11世によって制定されました。主祷文を唱える私たちは、「み国が来ますように」と、天の父に願いますが、受肉した「神の子」を王として褒めたたえるのも正当なことでしょう。しかし、「私の国は、この世には属していない」とイエスは言われました。これを目の前にした教皇パウロ6世は、1970年に「宇宙万物の王であるキリスト」と今日の祭日を名づけ、その心をもって祝うようにと、全教会に支持しました。
 イエスは民主主義国家の王ではなく、昔のような、宇宙万物の絶対君主です。神として、人間の道徳生活を含め宇宙万物の規則を制定し、その遵守を見守り、世の最後の日に人類を裁かれます。十字架によって万物を贖われたイエスは、人間としても宇宙万物の王となりました(コロサイ1.18-20 1コリント15.24-27参照)。ところが、ピラト総督にイエスが語られたように、自分の国はこの世に属さないのです。実は、現代人の大多数は王としてイエスを認めませんし、世の終わりの日にもそうだろうと、聖書からうかがわれます(マタイ24.12、ルカ18.8参照)。主の死に立ち会った人々はどう思ったのでしょうか。今日の福音書はこれを明らかにします。
 ピラトは「これはユダヤ人の王」と、十字架の上に札を掲げましたが、イエスを王であるとは認めず、憎らしい権力者たちに侮辱を加えるためでした。兵隊と犯罪者も同じでした。おそらくイエスは、王であることを見せかけたのでしょうが、死にかかっている彼の姿を見ると、やはりそうではありませんでした。偽者の王に過ぎなかったイエスの姿です。十字架の近くに立っている多くの人は失望していたでしょう。イエスをメシアと思った彼らは、近いうちにイスラエル王になると、希望していましたが、完全に希望を裏切られたのです。議員たちと権力者は、「自分が思ったとおりだ」と誇っています。最初からナザレの大工イエスをメシアと受け入れなかった彼らは、イスラエル王なんて思いません。イエスの「王の身分」を認めたのは、ただ一人の犯罪人だけです。彼は、神に敵の赦しを願ったイエスの声を聞いたからです。要するに、主の「王の身分」を認める人は、イエスの赦しを信じる人ではないでしょうか。
(J.M.バラ神父(現:益田教会)


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