2010年5月の福音のメッセージ

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復活節第5主日 ヨハネ13章31〜33、34〜35
「全ての人を無償で愛す」

 旧約聖書には、愛については頻繁に述べられています。それなのに、何故、イエスは「新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい」と言われたのでしょうか? 旧約時代に比べて、その新しさは、いったいどこにあるのでしょうか? このことについて、いくつかの考えを述べましょう。
 イエスは「弱い人、貧しい人、罪を犯した人を特別に大切になさい」と言われました。自分を憎む人を赦すだけではなく、愛しましょう。
 羊飼いは、迷った羊を、他の九十九匹の正しい羊よりも愛していました。正しい羊にしなかったこと−−ご自分の肩に乗せること−−を、迷う羊にしてやりました。また、父親は、まじめな兄ではなく放蕩をしていた弟のためにお祝いをして迎えました。ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人が、模範的な主人公として描かれました。祈りの時には、徴税人の方がファリサイ人より立派に祈りました。このように、イエスはたびたび社会的に愛されていない人々に対して、特別な温かさを示されました。憎しみに対して、愛を返しましょう。
 旧約の時代から、「愛」は勧められていましたが、イエスは無償の愛を教えました。親は確かに自分の子どもを無償で愛します。しかし、イエスは、自分の子どもだけではなく、全ての人を無償で愛することを教えたのです。
 実に「他者のためにいのちを捧げるほど、愛しなさい。」とイエスは話されて、16時間後に、十字架の上で、ご自分を殺そうとしている人々を赦し、愛を持って命を捧げてくださいました。 (ルイス カンガス神父)


復活節第6主日 ヨハネ14章23〜29
「シャローム:イエスの平和、真の平和」

 イエスは「私は世が与えることのできない平和を、あなたがたに与える」と言われ通りに、イエスが与えてくださる平和と、世が与える平和は違います。世間では、「平和」というと、一般的に戦争のない状態を指しています。戦争やけんかさえなければ平和だといいます。ヘブライ語の「シャローム」(shalom)も、たいていは「平和」「戦争のない状態」と訳されています。
 しかし、「シャローム」はこのよう消極的で狭い意味ではなく、もっと大きな意味を含んでいます。積極的な「きずな」「友情」「協力」で結ばれている人間同士のような状態をいうのです。
 第二バチカン公会議は、イエスが与えてくださるシャロームについて次のように述べています。

「平和は、単なる戦争の不在ではない。正義の業であり、秩序の実りである。また、平和は隣人に対する愛から生まれる。平和を築き上げていくことは、人間に対する最高の愛の業である。」
 キリストは、私たちにシャロームを与えてくださいました。それは豊かないのち、調和、真の喜びです。キリストの死と血は敵意をなくし、離れていた二人を一つに合わせました(エフェソ2・14)。
 これからは、平和を考える際には、世間で言う消極的な平和でなく、イエスが与えてくださったシャロームを求め、築いていきましょう。
 ミサの聖体拝領前に司祭が唱える祈りでは、この積極的なシャロームを願います。アシジの聖フランシスコの祈りも、このシャロームを求めています。
 ”してもらう代わりに、してあげられるように。人事を尽くして天命を待つように。努力と祈りによって、世界のシャロームが訪れますように”と。 (ルイス カンガス神父)


主の昇天 ルカ24章46〜53
「イエスの証し人になろう」

 カトリック教会は、きょう「主の昇天」の祝日を祝います。主の昇天は、この世に30数年住まわれたイエスの生涯の結びです。マルコ福音書も昇天に言及しますが、ルカ福音書と初代教会の歴史を著したルカは、昇天は福音書の結びにし、『使徒言行録』の冒頭にも二度と載せます。以下のコメントにおいて、福音書の言葉だけに焦点を合わせましょう。
 ルカ福音書を見ると、「著者はあまりにも省略するではないか」と思われるのではないでしょうか。その通りです。
ルカの言葉をそのままに受け入れると、復活したイエスはその日の夕方に11名の使徒に出現されました。やっと、自分が幻でないことを説得した後、数時間前にエマオの弟子になさった説明、ご自分に当たる聖書の説明を彼らにされました。その後、これからの活動とその準備について使徒たちに話した後、最後の晩餐の広間から使徒と一緒に出かけました。一行の散歩は、ベタニアの近くまで、受難の前夜イエスが長く祈り続けたオリーブ畑まででした。そこに着いたら、イエスは手を上げて弟子たちを祝福しながら、天に上げられました。この話によると、主の昇天は30年4月9日の夜でした。しかし、ルカ自身が書くように(使徒言行録1.3参照)、主の先の出現から昇天までは40日間も経っていたようです。ルカは、初代教会の歴史を取り上げる書においてその出来事にふれますが、福音書には全くふれません。
 確かに、今日の福音書は出現後のイベントを省略しますが、使徒たち(また私たち)の使命を見事にまとめます。そして、自分の弟子が育てるべき「祈りの心を」を使徒たちに勧めます。以下、イエスが主張する3点についてコメントを加えましょう。
 まず、イエスの弟子の使命は何でしょうか。イエスの証し人になることです。イエスは「人間なのに、自分を神としている」神の子です(ヨハネ10.33参照)。イエスの弟子でない人には信じにくいでしょうが、キリスト者の信仰の土台です。
 第2点はこれです。神でありながら人間であるイエスは、十字架で殺されましたが、神によって三日目に復活させられたのです。使徒たち(また、私たち)は、イエスの死と復活を証しするようにと、命じられています。
 最後に、御父のみ心に従って命を献げたイエスは、その従順によって私たちの不従順(罪、背き)の赦しを得られました。イエスの良いメッセージ(福音)を宣言する使徒たちは、世界のあらゆる国の人々に神の赦しを宣べ伝える使命が与えられます。神と縁を切った社会は、希望のない、喜びのない状態に陥っています。イエスの弟子は「赦しの福音」を宣べ伝え、復活したイエスから、社会に希望と喜びを取り戻させる死命を受けています。
 イエスの証し人になる使命、赦しのメッセージを宣べ伝える使命はキリスト者の道です。使徒たちの能力をすっかり上回る道でした。田舎者で、教育の低い彼らは、祈りに没頭してエルサレムにとどまり、聖霊の照らしと力を注がれる準備に尽くすようにと、イエスに言いつけられました。同じ使命を受け、同じ物足りなさを感じている私たちも、聖霊の助けを願いながら聖霊降臨の日まで祈りに尽くしましょう。 (J.M.バラ神父(現:益田教会))


聖霊降臨の主日 ヨハネ14章15〜16、23b〜26
「聖霊は与えられるもの、待つもの」

 今日は聖霊降臨の主日。イエスの昇天後、聖霊が与えられたことを祝う祭日です。では、聖霊とはいったいどのようなものなのでしょう。
 聖霊の特徴の一つは、それが人に与えられるものだということです。私たちは、何か難しい問題を抱えたときなど、「聖霊来てください」と祈ります。しかし、聖霊が与えられたとしても、それは解決したい問題にではありません。人にです。ですから、問題に関わり解決するのは聖霊ではなく、聖霊を与えられたわれわれ自身です。正確には、聖霊と私です。
 聖霊のもう一つの特徴は、待つものだということです。自分から聖霊を求めて出かけることや、何かを熱心にすることで、聖霊が与えられることを早めたりすることはできないようです。ただ、待つことです。そして問題は、私たち現代人には、沈黙を守ったり、じっと待つことがたいへんな苦痛であるという点です。多くの人はそれだけの忍耐力を持っていません。逆に、能率的ではないと感じてしまいます。じっと静かに待つより、忙しく立ち働くことを私たちは好みます。
 しかし、イエスはこう言っています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1.4)。イエスは「待ちなさい」と言います。しかし、それがいつまでなのか、私たちはわかりません。
 では、聖霊を与えられるとどのようになるのでしょう。二千年前、世界の片隅でたった一人で始められたイエスの福音宣教は、この後、大きな変化を見せます。世界に広がる教会へと成長していきます。具体的に働いたのは、捕らえられたイエスを知らないと否み、恐ろしさのあまり逃げ去り、隠れていた、あの弟子たちでした。弱く臆病な人たちでした。彼らは、聖霊を与えられたとき、聖霊と共に働きました。共同作業を行ないました。
 福音書には、様々な奇跡が描かれますが、弱い弟子たちが一人残らず殉教するほどの強い使徒へと変えられていったこと、イエスの言葉どおり「地の果てに至るまで、イエスに証人」となったこと、世界に広がる教会をつくりあげたことこそ、世界の歴史が証明している出来事であり、誰も否定できない奇跡と呼ぶに相応しいものであると言えるでしょう。
 これが聖霊の働き、聖霊を与えられた人たちの働きです。私たちも、この聖霊に満たされて大きく成長することができるよう願いたいと思います。(加藤 信也神父)



三位一体の主日 ヨハネ16章12〜15
「信じるとは神と一致すること」

 今日は「三位一体」の主日。「父と子と聖霊」という言葉は、私たちの日常生活に幾度となく現れる言葉ですが、聖書には現れません。キリスト教はイエスの死後、ローマ帝国の迫害にあいながらも次第に勢力をのばしていきました。すでにその頃から、「父と子と聖霊」の三者の関係は問題にされるようになったといいます。
 教会はそれを、ギリシャ哲学の「本性」と「位格」という概念を用いながら説明します。「神はその本性においては一つであるが、しかし、神には父と子と聖霊という三つの位格がある」。ここに現われる「位格」という言葉は、ラテン語でペルソナと言いますが、この言葉は、もともとは「舞台で役者がかぶるお面」を意味したといいます。つまり「唯一である神は三つの異なったお面をかぶって自分自身を示す」と考えればいいようです。
 一つでありながら三つの異なる顔を持つ物は、私たちのまわりにも存在します。たとえば、H2Oです。H2Oとは水の化学式です。しかし、「水」とは、H2Oが持っている三つの顔のうちの一つにすぎません。液体であるときには確かに「水」ですが、固体では「氷」となり、気体になれば「水蒸気」になるという、三つの異なる顔を持っています。しかし、そのどれもがH2Oです。一つでありながら三つであり、三つでありながら一つです。
 「三位一体の主日」の教義は、「父と子と聖霊」が三つでありながら一つであることを教えています。難しいようですが、私たちも、複数のものが一つであること、あるいは、複数でありながら、しかしそれらが一つに一致したとき、大きな力となることを、日常生活の中で経験します。人が集まって形作るあらゆる共同体は、多かれ少なかれそのような性格をもっています。調和であり、一つになることです。 そのように、信じるとは神と一致することです。神との一致とは隣人との一致でもあります。そのことをイエスは、神への愛、隣人への愛という、最も大切な掟である「二つの愛」で言い表しています。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない」(Tヨハネ4.20)のと同様に、隣人との一致なにしは、神との一致もありえません。
 私たちも一つとなり、信仰の実りである平和や喜びをもって毎日を過ごすことができるようお互いのために祈りたいと思います。 (加藤 信也神父)



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