2010年3月の福音のメッセージ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。



四旬節第3主日 ルカ13章1〜9
「災いの意味」

 最近、この地球で二つの大きな自然の災いがありました。一つは、今年の1月に起こったハイチ地震です。これは、M7.0と規模の大きな地震でした。この地震では20万人を上回るほどの死者を出しました。二つ目は、更に巨大化したM8.8という大地震が、南米のチリを襲いました。 町は壊滅状態にあり、現在おおよそ800人超の死者が出たと伝えられています。どちらの地震でも大勢の方々が家を失い路頭に迷っています。このように避けようない天災の不幸に遭うときに、私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか?
 よく、このような天災が起こると、それは”天罰”だという人がいますが、それは決して”天罰”などではなく大自然のなりゆきに過ぎません。神は、大自然の流れをいじることを許されません。私たちは、このような天災に直面した時に、それを避ける、あるいは減らすために手段を考えて実行することは、賢明なやり方です。
 今、私たちの周りでは、戦争・交通事故・環境問題・人間関係の問題・試験の不合格・病気がなど、不幸なことが一杯起こっています。そのような時に、これらを正すためには、自分は何ができるかを考え、それを実行するように努力すべきでしょう。
 今日の福音は、突然の死、思いがけない災いを述べています。私たちは、他人の突然の死に出あった時に、自分も同じようになる可能性を考えて、その時に備え、早く自分のあやまちを正し、悔い改めて死を迎える準備をしましょう。
 私たちの神は、罰の神ではなく、いのちの神です。今日のたとえ話の主人が、もう1年待って新しい機会を与えたように、神は、私たち罰を延ばして、私たちが悔い改めるように何回も待っておられます。
「私(神)は悪人が死ぬのを喜ばない。
  むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」
(エゼ33・11)

(ルイス カンガス神父)



四旬節第4主日 ルカ15章1〜3、11〜32
「幸いなる罪、必要な罪」

 世界中の文学の中でも一番美しい話の一つは、今日読まれる、放蕩息子とそのすばらしい父親のたとえ話でしょう。どの人間も、多かれ少なかれ放蕩息子なのではないでしょうか。いや、彼はただ一度放蕩しただけですが、私たちは、みな何回も放蕩を繰り返しているかもしれません。
 今日の福音の放蕩息子は、親を愛しているからではなく、自分が飢えて困っているから帰って来ました。動機が何であれ、帰って来さえすれば、神は喜ばれます。父は、息子が帰ってくるのを期待して、毎日息子が行ってしまった道に散歩に出かけました。息子が帰らないうちから、父は既に彼をゆるして、彼を抱きしめたいと思っていたのです。
 息子が帰ったときに、下男たちが彼のみすぼらしい姿を見ないように、家に帰る前に父は命じました。「一番良い服を彼に着せ、指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。そして、肥えた子牛を屠って食べて祝おう」と。当時、指輪には印章が刻んでありました。父がその指輪を与えることは、印鑑すなわち息子の権利を与えることでした。
 親鸞は、このように説きました。「義人は救われる。ましてや罪人は」と。父は、行い正しい長男のためにしなかったことを放蕩息子のためにしました。放蕩息子は、罪を犯すことによって、父の無限の愛を悟りました。このような意味では、聖土曜日の典礼では、「幸いなる罪、必要な罪」を唱えるのです。
(ルイス カンガス神父)


四旬節第5主日 ヨハネ8章1〜11
「安心と励ましをもたらす言葉」

 今日の福音書は、新共同訳を見ると、カッコ内に載せられています。実は、ヨハネ福音書のもっとも古い写本、2世紀のパピルス古文書には見当たらない箇所です。他の福音書(特にルカ21.38のあと)に挿入される写本があります。元来この箇所はヨハネ福音書の一部なのでしょうか。聖書学者の多数はそう思っていません。原文の他の場所にない単語とパターンがここに見え、どちらかと言えば、文体はヨハネ福音書よりも、ルカの書き方を思い起こさせます。箇所の起源は別として、教会は聖書の一部としてそれを認め、御言葉であることを保証します。
 イエスが姦通した女を赦す場面を見ると、私たちは感銘せずにはいられません。イエスは厳しい態度をとらず、償いの苦行を課せず、ただこれからその罪を犯さないように言いつけて、女性を赦されます。ユダヤ教の法律によると、姦通を犯した人々は、男女を問わず、石殺しに処せられたのです(レビ記20.10、申命記22.22-24参照)。それを見ると、女を罪に定めないイエスを見る人がつまずき受けるのは、不思議とは思われないでしょう。もしかすると、最初の写本にこのエピソードが記述されなかったのは、読者のつまずきを避けるためだったかもしれないと思う聖書学者がいます。
 姦通の現場で女を捕らえ、イエスの前に彼女を立たせたファリサイ派の人々は、イエスが裁判を開くため、また判決を下すためではありませんでした。彼らはその権利をイエスに認めません。目指しているのはイエスに罠をかけることであり、女性を連れて来るのは、彼女を餌食として利用するためです。彼らのかけようとする罠は何でしょうか?
 当時のユダヤ人には、死刑の判決は許されなかったようです。死刑の判決は、国を治めていたローマ人の総督の特権でした。他方で、モーセの律法にしたがって、姦通を犯した人は石殺しになるはずでした。ファリサイ人は、イエスに、この女の件についてどう思うかと問い詰めます。逃げ道の答えは全くありません。「打ち殺せ」と答えたら、ローマ人に訴えられます。「釈放しなさい」と返事すると、相手は「このイエスはメシアではない。モーセの律法を軽蔑する偽預言者だ」と、すぐさま民衆に言いふらすでしょう。イエスはどのように答えるでしょうか。ひとまず、何も答えません。かがみ込み、地面に何かを書き始めました。
 ファリサイ派の人々はしつこく問い続けます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、イエスは答えました。主は、女を連れて来た人々の心を見抜いておられます。彼らも罪人です。女をここに引っ張って来たのは、神の掟に対する熱心さを持つためではありません。イエスに罠をかけるためです。彼女は、その計画を進める道具にほかなりません。その後、打ち殺すつもりです。こうした汚い心を持っている人は、相手が姦通を犯した場合でも、裁判官の座につく資格はありません。
 「あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。イエスは、「赦しの秘跡」を受けるすべての人にその言葉で見送ります。安心と励ましをもたらす言葉です。
(J.M.バラ神父(現:益田教会))


受難の主日(枝の主日) ルカ19章28〜40、23章1〜49
「神の栄光」

 今日は「受難の主日」「枝の主日」。聖週間が始まります。今日のミサでは、「エルサレム入城」と「受難物語」の二つの福音が朗読されます。
 エルサレム入城の場面では、人々は自分の服を道に敷いてイエスを迎えたとあります。しかし、私たちの王とは、この世が歓迎するような王ではありませんでした。人々の歓声に迎えられたものの、それはろばに乗った王でした。イエスの時代、王が馬に乗るのは戦いの時であり、平和な時にはろばに乗ったと言います。そのようにイエスは、平和をもたらす王としての姿で現れます。
 イエスの受難では、エルサレムに入城した平和の王は、しかし、驚くほど簡単に捕らえられてしまいます。そして、目の前に連れてこられたイエスにピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と語り、ヘロデも「わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何もみつからなかった」と答え、「釈放しよう」とまで言います。逆に、「その男を殺せ。十字架につけろ!」と叫んだのは、ふだんは善良で信仰深いと思われる人々でした。
 今日の福音が語るのは、罪のないイエスが十字架につけられたこと、しかし十字架上でさえ二人の犯罪人に赦しを与えて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語り、十字架につけた人々を「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と、天の父にとりなすイエスの姿です。たった一つの命をイエスは、そのようにして神に返しました。
 イエスの生涯は悲劇でした。また、群集があざ笑ったように、喜劇でもありました。しかし、イエスを信じる者にとって、それは栄光です。私たちも、自分自身の人生が悲劇であることを受け入れる勇気と、喜劇であることを受け入れる潔さ、またそれが、神に栄光を帰すものとなることを祈りながら、聖週間を過ごしたいと思います。(加藤 信也神父)


Topへ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。