2010年6月の福音のメッセージ

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キリストの聖体 ルカ9章11b〜17
「ご聖体は全ての物を分かち合う秘跡」

 パウロは手紙の中でコリント人を厳しく叱ります。
 ミサに与っていたある信者は贅沢なお弁当を食べ、酔うほどにお酒を飲んでいるのに、同じミサ与っている人の中には、飢えている奴隷がいました。このような差別の心を持ってミサに与るひとは、キリストの体を汚す、と書いています。持っている人々は、持っていない人々と分かち合う義務があるのです。
 福音書の中で、弟子たちは自分の五つのパンと魚のお弁当を他人と分かち合ったので、寛大に報いられました。五つのパンの代わりに、十二篭のパンをいただいたのです。
 むかし、ミサは「パンを裂く儀式」と呼ばれていました。すなわち、他人と分かち合うためにパンを裂きます。最後の晩餐の時にイエスは、前と同じことばと動作を繰り返しました。イエスは、パンを取って、祝福して、裂いて、これを配ってもらうために弟子に渡したのです。
 自分のローソクの火を他人のローソクに灯すと、自分のローソクは暗くなるどころか、却って明るくなります。同じように自分の時間、お金、喜び、経験、恵などを他人と分かち合うことによって人々は豊かになり、自分も豊かになります。マザーテレサは、そのような人でした。  (ルイス カンガス神父)



年間第12主日 ルカ9章18〜24
「十字架を担って従う」

ルカ福音書のきょうのエピソードは、マルコとマタイにも載せてあります。ルカはマルコの内容をそのままに記述していますが、いつものとおり優しいイエスを描きたい彼は、厳しくペトロを叱る主の言葉を載せていません。マルコに比べれば、ルカの箇所は短いです。他方で、マタイがマルコの内容をすべて写すと共に、自分だけの一部を書き入れます。イエスは「生ける神の子」と自分を認めたペトロを幸いと宣言し、創立しようとしている教会の礎に立てられます。きょうのコメントはルカ福音書に合わせて二つに分けましょう。
 まずイエスは、群衆が自分についてどのように考えているかを、使徒たちから調べます。好奇心に駆られて、知らないことをどうしても聞きたい、ということではありません。使徒たちとの話し合いをスムーズに進めたいからです。人々は、個人の心を打ち明けるより、他人の意見を報告するのは簡単だと思っています。それで弟子たちは、互いに口々に主の質問に応えます。困らせられたのは、イエスの第2の質問の時です。今度、群衆の意見ではなく、自分は先生について「何者だと言うのか」とイエスに聞かれます。しゃべり続けた彼らは、突然沈黙に落ち込みました。公にメシアとしてイエスを認めたのは、ペトロだけです。ペトロに自分個人の考えがあり、公に意思表示をする自信もあります。マタイ福音書にあるように、ペトロのリーダーの資格を見抜いておられるイエスは、すぐさまご自分の教会の「岩」に彼を立てられたのです。
 ルカ福音書の後半は、十字架に焦点を合わせる内容です。まずイエスは、迫ってきた受難と十字架の死について話します。三日目の復活も知らせましたが、弟子たちはショックのあまり、それを聞き流したようです。次にイエスは、十字架を背負うべき人は自分だけではなく、自分の弟子も十字架を背負って後に行かなければならないと明確にしました。私たちは、「主の十字架の道行」と「十字架の死」を聞くと、その意味は自然に通じるのですが、弟子たちが十字架を背負って主の後に行くとはどのようなことでしょうか。
 神に造られた私たち、神の子供になった私たちの生きがいは、イエスのそれと同じく、御旨を食べ物にすることです。多くの場合、神の御旨とわが気持ちが一致し、御旨に従うのは十字架どころか、喜びです。しかし、御旨と自然の気持ちが両立しない時もあります。個人の気持ちを乗り越えなければならない時です。それをせず、「気持ち次第」の生活を送る人は、十字架を担いませんが、「御旨に従う」人なら、パウロと同じようにキリストと共に十字架につけられます。この観点から見れば、ルカの最後の言葉の意味は明らかになります。自己中心で「自分の命を救いたい者は、それを失うが、私(イエス)のために命を失う者は、それを救うのである」と。  (J.M.バラ神父(現:益田教会))


年間第13主日 ルカ9章51〜62
「望んでいるものを手に入れる唯一の方法は何でしょう」

 今日の福音は、「サマリア人から歓迎されない」「弟子の覚悟」と題された箇所ですが、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」という冒頭の言葉どおり、いよいよ十字架への歩みが始まっていきます。
 今日の福音の中心は、イエスと三人の人たちとのやりとりです。第一の人は言います、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」立派な言葉です。それに対するイエスの言葉は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」というものでした。彼が何を求めていたのかが想像できます。
 第二の人にイエスは、「わたしに従いなさい」と呼びかけます。弟子たちの中には、同じ言葉に、網や舟どころか父親までも後にしてイエスに従った人たちがいました。しかし、第二の人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」というイエスの言葉は、何事にも決定的な瞬間があり、それを逃しては成就されることなく終わってしまう、というものなのでしょう。
 第三の人も同様に「従う」と言いながら、「まず、家族にいとまごいに行かせてほしい」と答えます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とイエスが言うように、後ろを見ていてはまっすぐに耕すことはできず、イエスに従うとは、将来に向かったものであり、後ろを振り返るものではありません。
 イエスは、今から始まる難しい状況を前に、弟子たちを点検しようとします。「弟子の覚悟」と題されたこの箇所は、ただイエスと行動を共にする弟子たちについてだけではなく、洗礼を受けた私たち一人ひとりついても当てはまる言葉だと言えます。私たちは、何かを望んで洗礼を受け入れました。それが何であったのか、もう一度確認してみたいと思います。
 望んでいるものを手に入れる唯一の方法、それは、手を空にしておくことです。すでに、何かで塞がれた手によっては、何もつかみ取ることはできません。そして、もう一つの大切な事柄は、見つけたものに満足するかどうかです。皆さんは、イエスだけで満足していらっしゃるでしょうか、あるいは、イエス以外の何かを、誰かを、まだ捜し求めていらっしゃるのでしょうか?(加藤 信也神父)



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