2010年7月の福音のメッセージ

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年間第14主日 ルカ10章1〜12、17〜20
「信徒の使命」

 今日の福音の72人とは誰でしょうか? 12人の弟子(使徒)とは別なので、72人は信徒の方々でしょう。イエスは彼らを次のように任命しました。

(1)主に願いなさい

 信徒はまず祈ります。ぶどうの木につながっている枝は、豊かな実を結びます。人間は枝で、ぶどうの木は神です。
 祈りは、枝を木につなげます。
 枝が、木から流れてくる樹液に生かされるように、信徒の力は、神から来ます。
(2)物に頼らない
 財布も袋も履物も持たないということは、物に頼り過ぎないことを意味するでしょう。
 お金や情報や組織を利用するのは当然ですが、何よりもまず神に頼る心が大切です。

(3)二人ずつ
 協力し合って、助け合って、刺激を与え合うようにしましょう。
 この「二人」は夫婦を意味することもあるでしょう。二人そろって復員宣教をする夫婦は、訴える力を持っています。
 彼らは話をしなくても、彼らの家庭が示している模範が、「神の国」を証します。
(4)平和をもたらす
 信徒は、まず自分の心の中で平和を味わいます。それから他人へと。
 この平和を分かち合っていけば、平和な社会を作ることができます。これこそ「神の国」です。
(5)72人は喜んだ
 神の国のために働く人は、狼の間にいる羊のように苦労します。
 キリストもそうでした。
 しかし、また同時に深い喜びを味わいます。
 種を蒔くときの農夫は苦しみますが、収穫の時には心から喜びます。
(ルイス カンガス神父)


年間第15主日 ルカ10章25〜37
「現代にも善きサマリ人はいます」

 今日の福音は、「善きサマリア人」の話です。
 道端に半殺しにされた人が倒れていました。そこを通りがかった善きサマリア人は、半殺しに遭った彼を見て、まだ、この近くには泥棒と人殺しがいるだろうと思いました。しかし、そう考えながらも、善きサマリア人は、身の危険を忘れて、倒れている旅人を心をこめて親切に介抱しました。
 良き羊飼いは、危険が差し迫っていても逃げません。善きサマリア人も、もしかしたら自分の命に危険が差し迫っているかもしれないのに、逃げませんでした。自分の大切な時間を犠牲にして、たくさんのお金を使いました。このサマリア人は、全く何の報いも期待せずに、知り合いでもない旅人と関わり、彼の世話をしたのです。
 イエスは、このたとえで、自分自身の姿を描かれたといわれています。私たちにとって忙しい毎日の中で、人と関わって、自分の時間・好意・身の安全を提供することは非常に難しいことです。しかし、善きサマリア人に倣って発展途上国の人々や病人、寂しい高齢者などと関わっている人は、現代社会の傷を癒しています。善きサマリア人たちは、目立たないけれどもたくさんいると思います。  数年前、二人の男性がJRの線路に落ちた人を救うために、自分の命を顧みず捧げました。あの立派な二人はイエスを知らなかったかもしれませんが、イエスの心、善きサマリア人の心を持っていました。 (ルイス カンガス神父)


年間第16主日 ルカ10章38〜42
「マリアの道も体験する」

 共観福音著者と言われるマルコとマタイとルカは、イエスの公生活を二つに分けます。前半は特に、パレスチナの北に当たるガリラヤで行なわれますが、後半の大部分はユダヤとエルサレムで起こります。目の前に置かれたマルコの福音書のほか、マタイとルカは、それぞれの福音書に自らの材料も載せています。マタイは、習慣として福音書の所々に割り当てますが、ルカのやり方はだいぶ違います。「場と時期が未定であったエピソードは公生活の後半に置かれるべきでないか」と、ルカ福音書を読む人は思うかもしれません。
 公生活の前半と後半のつながりとなるイエスの旅は、ルカ福音書において9章51節から開始されますが、きょうの10章38節になると、イエスは既にエルサレムの郊外の小さな村におられます。ヨハネ福音書で明らかなように、その村はベタニアです。ベタニアに住んでいるマルタとマリアには、数週間後、イエスの業で復活させられたラザロと名乗った男の兄弟がいました。
 「マルタ、マルタ…必要なことはただ一つだけである」。私が特に心を打たれるのは、せわしいマルタにイエスが向けられたこの言葉です。偉いお客様のために盛大なご馳走を計画したマルタは、心をこめて準備に取り組んでいます。イエスの言葉に簡単な解釈、しかも当然の解釈をつけたければ、「無理するな。食事は一つだけで十分だ」と、理解することができるでしょう。しかし、イエスの表現にはより深い意味があります。それはマルタとマリアだけに当てはまることなく、現代のキリスト者にもぴったり合うと思います。イエスとその教会のために尽くしたいと思う信者は多いのですが、それは、神様に心から感謝すべき恵みです。しかし、マルタの道を歩み続けるある信者は、場合により、イエスとその教会のためなら一生懸命に働きたいのですが、イエスと時間を過ごすこと、主の話に聞き入ること、祈ること、つまりマリアの道を体験することには、それほど興味がないように見えるます。
 「○○さん、必要なことは一つだけである」。筆を取って目に見える場所に主のこの言葉を置いておきましょう。そして、今週時々、その言葉を見ましょう。そうしたら、わがベタニアを訪れたイエスの話、主の忘れられない土産話になります。(J.M.バラ神父(現:益田教会)


年間第17主日 ルカ11章1〜13
「神は良い物を与えてくださる」

 今日の福音の前半は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教える箇所です。弟子たちの願いに応え、イエスは「主の祈り」を教えます。
 「主の祈り」と呼ばれる祈りは前半と後半とに分かれていて、前半は神について、後半は私たちについての祈りであるとされます。イエスはこの祈りを弟子たちに教えましたが、私たちはこれが最も大切な祈りであり、「すべての人のための祈り」でもあると考えます。
 「すべての人」とは、老若男女はもちろんのこと、持てる人も持たない人も、ということになります。何も持たない人が「日毎の糧」を祈り求めるのは当然です。しかし、有り余るほどに持っている人までも、そのように祈り求めなさいとは、何か割り切れない思いが残ります。
 祈り求めなさいと言われているのは「わたしたちの日毎の糧」であり、決して「わたしだけの日毎の糧」ではありません。「主の祈り」は、私たちが日に何度も唱える祈りです。それは、たった一人で唱えるとしても決して「個人的な祈り」「私のためだけの祈り」ではなく、「私たちの祈り」であることに気付いていたいと思います。
 後半では、夜中にもかかわらず、友人の家の戸を叩いてパンを得る人のたとえを語りながら、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」。執拗に願えば、神は必ず聞き届けてくださる、と教えています。あるいは、神の思いは別なところにあるにもかかわらず、ドアを執拗にたたけば、神は仕方なく譲歩してくださり、何かが与えられるのかもしれません。
 しかし、今日の福音が「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と結ばれているのは興味深いところです。確かに神は、私たちの願いを聞いてくださる。しかしそれは、あくまでも「神の思いのままに」です。そして、様々なものを執拗に願い求める私たちに神が与えるものは「聖霊」であることに私たちは気づいているでしょうか?イエスはそれを「良い物」と呼んでいます。(加藤 信也神父)



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