2010年2月の福音のメッセージ

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年間第4主日 ルカ4章21〜30
「神の業は、信仰によって結びつけられた神と私たちとの共同作業」

 主日のたびに、私たちは教会に集まります。福音書には神殿や会堂が現れますが、ではイエスはそれらの場所にどの程度通ったのでしょう?というのも、私たちが知るイエスは、丘の上や湖のほとり、舟の上から人々に語るイエスであり、山の上やオリーブ畠、人里離れた場所で祈るイエスだからです。
 ルカによれば、イエスの宣教活動はイエスの故郷であるナザレの会堂で始められました。宣教が人を対象とすることを考えれば、人々の集まる会堂が選ばれたのも当然でしょう。しかし、当然だと思われる場所から異様な雰囲気が伝わって来ます。
 イエスはイザヤ書を朗読し、教え始めました。「人々はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」と言います。しかし彼は、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉の裏にある人々の思いに気付いて彼らを批判し、「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」とあります。たった数行のうちに、大きく揺れ動く人々の心に驚かされます。
 人々が、「イエスを町の外に追い出し、崖から突き落とそうとした」とは、興味深い記述です。人である以上、人との交わりの中でしか生きられないにもかかわらず、人を排除しようとする。程度の差こそあれ、似たような場面は私たちの日常にも見られます。
 今日の福音と同じ内容の箇所は、マタイやマルコも見られますが、中でもマルコは、イエスが人々に受け入れられなかっただけでなく、その結果イエスに何が起こったかという興味深い事柄について書き残しています。「全能永遠」であるはずのイエスに出来ないことがあったという言葉です。
 私たちは神に祈り求めます。私には不可能なことを、何でもできるはずの神に祈り求めます。しかしこの箇所は、イエスは人々の不信仰のゆえに、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡をおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」という不思議な記述で結ばれています。全能の神を全能ではなくすものは、私たちの不信仰であるようです。神の業、それはただ神からの一方的な行ないではなく、信仰によって結びつけられた神と私たちとの共同作業です。  (加藤 信也神父)



年間第5主日 ルカ5章1〜11
「恵豊かな神さま」

  イエスは、私たちに恵を与える前に、何かを求められます。そして、その求めに素直に応えた時に、大きな恵みが私たちに注がれます。今日の福音を見てみましょう。
 ペトロたちは、漁に出て、夜通し網をおろしていました。でも、魚は一匹もかかりませんでした。みな、疲れ、落ち込んで、帰って休もうと思っていました。その時、「群衆と話したいので、あなたの舟に乗せてください。」とイエスが頼んできました。ペトロは、魚も獲れないし、疲れてもいたので、いやいやながら承知しました。しかし、後に、イエスがたくさんの船の中から、自分の船を選んでくださったことに気がつき、喜びました。
 イエスは、群衆に話し終わると、「沖に漕ぎ出して、網をおろして漁をしなさいと。」とペトロに言われます。ペトロは、漁師ですから、この湖のことをよく知っています。だから、心の中では、イエスが無理なことを求めていると思いました。しかし、イエスの言葉を信頼して素直に応じました。そして、その報いは、豊かでした。二艘の舟は、魚でいっぱいになったのです。
 さらに、イエスはペトロたちに頼みました。「舟を引き上げ、すべてを捨てて私に従いなさい。」と。ペトロたちは、イエスが寛大で、小さな努力を大きな恵で報いてくださることを知っていましたから、イエスに素直に従いました。彼らはイエスの弟子となり、人々に良い便りを伝えました。
 イエスは、水一杯の代わりに天国を与えるほど寛大なお方です。
 神さま、いつもあなたの願いに応える寛大な心を私にお与えください。 (ルイス カンガス神父)


年間第6主日 ルカ6章17,20〜26
「本当の幸せ」

 今日の福音を読むたびに、非常難しいことをイエスはおっしゃっていると思います。また、難しいということばかりではなく、一般社会の常識から考えると、ここに言われていることは矛盾だらけのようです。「泣いている人は幸いである。飢えている人は幸いである。」 新興宗教などは、お金、出世、健康、幸せなど、たいていの人が今すぐ求めていることを約束します。イエスの教えは、しかし、180度反対のことを教えています。2000年前にこのように正反対と思われるようなことを教えているにもかかわらず、いまだなお、10億人以上の人がイエスのこの教えに従っています。これは、どのようなことなのでしょうか。ここで、このイエスの教えについてみなさんと分かち合いましょう。
 確かに、悲しみと喜びは一緒になっています。苦しみがあれば、必ずその後に喜びがあります。十字架があれば、必ず復活があります。一般社会の教えは、その後に苦しいことがあると知りながら、先ず楽しいことのみを求めています。イエスは、全くそれと反対のことをしなさいと教えていますが、これは決しておかしいことではありません。イエスが復活なさった時も、苦しみを通して復活へと向いました。ことを行うにあたって自分のわがままを通そうとしたり、一時的な快楽のために他の人のことを考えずに自分の思う通りに楽しさを求めたりすることは、何かを傷つけたり、悲しいことが次々と起こったります。イエスは、先ず、第一に苦しいことをやってみると、その先には必ず喜びがありますと教えています。また、イエスは、この福音の中で、私たちの死後の世界のことについても話しています。「天に大きな報いがある」と。現世において深い苦しみを味わうと、来世においてもっと深い喜びを味わうことができます。来世にこそ希望があります。今、忍耐して苦しみと貧しさを快く耐え忍ぶ人は、聖書の例えばなしのラザロのように天国にいくことをイエスは約束しました。
 また、第1の朗読(エレミヤ17・5―8)では、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。」と書かれています。私たちは、物を余りにもあてにすることによって、心は、だんだん神様から離れていきます。神様をあてにすることは、物をあてにしないことです。その意味で、貧しい人、飢えている人、困っている人、その人こそ神様の下へ行くことができまるのです。マザー・テレサは、非常に貧しい人でした。でも、その貧しさ中で、全てを人々と分かち合いました。また、インドのガンジーは、このイエスの言葉好きでした。「幸いなる人・・」この言葉そのまま用いて説教をしたそうです。
 本当の幸せはどこにあるのか。私たちは、この言葉を深く味わい、家庭の中、社会の中で自分のわがままを捨てれば、そこには真の幸せがあり、大きな恵みがあります。そのような心になるように神様に願いましょう。
「私たちのいっときの軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(2コリ4・17)
(ルイス カンガス神父)


四旬節第1主日 ルカ4章1〜13
「イエスの言葉に耳を傾ける」

 今月17日に、カトリック教会は四旬節を始めました。40日間にわたる四旬節は、主イエスの死と復活をふさわしく記念する準備の期間です。準備を助ける教会は、四旬節の間「回心」を呼びかけます。特に回心を妨げるのは、弱い私たちが誘惑によく負けることです。それゆえ、主祷文を唱えるとき、「私たちを誘惑に陥らせないように」と、天の父にこいねがいます。
 多くの場合、人を悩ます誘惑は悪に傾いている心から生まれますが、悪魔が私たちを誘って来る時もあります。場合により、「悪魔の誘惑だ」と悟るのは、簡単ではありません。それで、きょうの福音書に拠って、荒れ野で試みられたイエスの誘惑を考察するのは、似た状態に遭わせられる私たちの悟りの助けとなるでしょう。
 悪き天使に変身する前に善き天使であった悪魔は、神が「三位一体」であること、また、神のご家族にひとり子がおられることを知っていました。しかし、30数年大工を務めたイエスが「神の子」であるとは信じていません。イエスを誘惑に陥らせて、自分の不信仰の根拠を明確にしたいのです。それゆえ、聖書に造詣の深い悪魔は、聖書の言葉で誘惑をします。イエスも聖書を引用して誘惑に答えられます。
 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」悪魔の提案は、一見して誘惑には見えないでしょう。イエスは空腹を覚えています。「神の子」であって、石をパンに変える能力を持っているならば、それを果たすのは当然ではないでしょうか。しかし、よく見ると、「何よりも自分の便宜をはかれ」と、悪魔はイエスに誘いかけているのです。ところが、イエスが答えられるように、人が持つべき行動基準は「自分の便宜」ではなく、人生の道標となる「神の言葉」です。
 第2の誘惑は、飾りのない、率直な誘惑です。悪魔がすべての国々を見せた後、「もし私を拝むなら」、「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と、イエスを誘っています。人間の「権力」の欲望に訴える悪魔の試みです。イエスは聖書を引用して「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と、きっぱりと答えられました。残念ながら、わが社会において、権力の欲望にかられてお金や名誉などの偶像を拝む人は少なくないでしょう。イエスが「ナザレの貧しい大工」に過ぎなかったとすれば、「権力の誘惑」に降伏するのは考えられますが、「神の子である」イエスは「唯一の神を拝む」道を案内されます。それは、私たちが権力の欲望に負けず、一生たどるべき道です。
 最後の試みは「成功第1」の誘惑です。その舞台は、マタイ4.5-7と同じく、ルカが特に尊敬したエルサレム神殿です。厳格に言えば、成功への励ましは、相手を試みることではありません。誘惑なのは、成功を絶対に保障するために、「神を試す」手段を選ぶことです。イエスが言われたように、メシアと認められるために神殿の屋根から飛び降りるのは、神を試すことです。残念ながら、「成功第1」を生きがいにする人は、このような誘惑によく負けてしまいます。四旬節の間、「あなたの神である主を試してはならない」と、イエスの答えの言葉に耳を傾けましょう。 (J.M.バラ神父(現:益田教会))


四旬節第2主日 ルカ9章28b〜36
「十字架への道は、神の国への道」

 今日の福音は、他の箇所とは趣きを異にする箇所です。イエスが登場しますが、奇跡を行なうわけでも、何かを語るわけでもありません。語るのは神であり、雲の中から聞こえる声として登場します。
 ペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と、意味不明な言葉を語っています。しかしペトロを始めとして、目の前で起こっていることを理解できない弟子たちに、神自身が語ります。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」
 イエスは山の上で、神との出会いという特別な体験を弟子たちにさせました。しかし、山に登った者は必ず山を下ります。そして、弟子たちも、翌日には山を下りることとなります。神との出会いの場である山を下ったイエスと弟子たちは、再びこの世の現実に直面します。ルカによれば、山の下にはイエスを必要とする大勢の群集や、悪霊に取りつかれた子供と父親がいたといいます。
 そのようにして、再び罪や死と直面するイエスと弟子たちの活動が始まります。そして、山を下りたイエスは、再び十字架へと向かって歩み続けます。それは、神の国への歩みでもあります。
(加藤 信也神父)


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