2010年8月の福音のメッセージ

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年間第18主日 ルカ12章13〜21
「物より心を」

 今日のたとえ話は富についてです。これは夏休みのお金の使い方に良いヒントを与えてくれるでしょう。
 お金は、生活を営むために必要です。適当なレジャーや趣味のために、また安定した老後のために、お金を使ったり、貯めたりすることは良いことだ、と今日のたとえ話は教えています。  しかし、自分のことだけを考えずに、できるかぎり富を他人と分かち合い、困っている人を助けましょう。世界の富とお金は、自分ばかりではなく、すべての人々を生かすために、神から与えられているのです。
 物より心を。人間は物やお金だけでは幸せにはなりません。お金に夢中になる人は、お金の奴隷となり、生活に不安を強く感じたりします。イエスの招きを断った金持ちの青年のような人は、自由を失って、お金のとりことなります。お金は生活するために必要な土台に過ぎません。聖アウグスチヌスは、長年の間、人間の幸せはお金・快楽・知識にあると思っていました。しかし、ある時、それが違うことに気が付き虚しくなりました。そして、最後にこの悟りを開きました。「わが心は神にいたるまで憩うことがない」と。
 お金を最高の規準にしていた人に、神は言われました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物はいったい誰のものになるのか」。
 今日の福音は、夏休みに水をさすのではなく、むしろ休みをよく過ごすように、有意義な指導をしています。   (ルイス カンガス神父)


年間第19主日 ルカ12章32〜48
「イエスの銀行」

 私たちは、長年の間働いて苦労をして得たお金を安全で高い利子がつくところに預けたいと思います。これによって定年退職後、安定した老後を送りたいと思います。しかし、今は銀行の利子がとても低く、預けたお金が絶対に安全だとは言えないでしょう。この問題で悩んでいる私たちに、イエスはとっぴもない話をして、それはとんでもないと思われるようなことを勧めます。
 「あなたのお金を貧しい人々に分け与えなさい。困っている人、絶対にそのお金を返すことができない人に分け与えなさい」と。貧しい人の銀行に預けたら、すばらしい利子がつき、1パーセントではなくて、100倍、200倍の利子を産み出します。「一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」 貧しい人の銀行にお金を預ければ、そのお金は絶対に安全で、虫も食い荒らしません。これがイエスの銀行です。
 現在、世界に五千万の難民がいて、食糧不足や病気で苦しんでいます。自分の国、自分の家族から離れて毎日苦しんでいます。私たちは飢えで死にそうな人々に食料を援助することによって、お金をイエスの銀行に預けることになります。
 このような心をもてば、イエスは私たちが死ぬ時に、例えばこうおっしゃるでしょう。
『あなたは、わたしがインドの子どもとして飢えていた時に食べさせてくれたから、天国の永遠の食卓に座ってください。また、アフリカの子どもとして、喉が渇いていた時に、水を飲ませてくれたから、その報いとしてわたしイエスは、あなたに仕えて天国の食卓であなたの足を洗いましょう。』と。   (ルイス カンガス神父)


聖母の被昇天 ルカ1章39〜56
「マグニフィカト」

きょうは8月15日です。例外なく日本人の心に浮かんでくるのはお盆のことでしょう。多くの信者は、はじめてキリスト教を日本で宣べ伝えたフランシスコ・ザビエルの姿を思い浮かべるかもしれません。聖人が1549年8月15日に鹿児島港に到着しました。しかし、なによりも、二本のカトリック信者だけではなく、全世界の信者がきょう祝っているのは、聖母マリアの被昇天です。
 今週の福音書は、当然聖母マリアを中心にします。彼女がナザレを出て、ユダヤに住んでいる親類エリザベトを訪問することを物語っている福音書です。「聖母の被昇天」の話は少しもありませんが、聖書全体にもその話は表れません。どうしてでしょうか。実は、カトリック教会が信仰の一部として聖母の被昇天を認めたのは、1950年11月1日からです。教皇ピオ12世は、1946年5月1日に世界のカトリック司教に連絡し、彼らと聖職者、また教区の信者方が「聖母被昇天」、すなわち「マリアが心身ともに天国に上げられた」という教えを、信仰の一部として認めるべきか、と確かめました。ほとんどの答えが賛成でしたので、4年半のあと、ピオ12世は「聖母の被昇天」をカトリックの教義として宣言しました。言うまでもなく、大昔からカトリック信者はそう考えていました。東方教会は、既に6世紀に「聖母の眠り(マリアの逝去)」を記念しましていたが、多数の信者たちは、イエスを宿した聖母の遺体は腐敗することなく、イエスと同じように復活し、天国に上げられたと確信していたのです。西方(ローマ)教会にもこの考え方が広まってきて、これが信仰の一部として認められた時、教皇の宣言は喜びをもって受けられました。被昇天の宣言は、「聖母が心身ともに天国に上げられた」ことを肯定しますが、「聖母の逝去」について話しません。
 では、今週の福音書に戻りましょう。私たちは、聖母マリアと違い、私たちが心身ともに天国に入るのは世の最後の日まで延ばされますが、天国を達成するふさわしい準備は聖母マリアと同じ道です。マリアは、「メシアの母である」身分の権利に拘泥することなく、遠くに住んでいる親類をお見舞いするために、長い旅に出かけました。行いで愛を示すマリア様の立派な手本です。
 最初の瞬間から聖霊に満たされたマリア様の態度は、今日の福音書の「マグニフィカト」から明らかになると思います。自分について、ただ神の卑しいはしために過ぎないと思いましたが、与えられた身分と恵みは、謙遜で小さな者に神がかなえられる愛の贈り物です。天国に上げられる聖母マリアを仰ぎみて、開いてくださった道を歩みましょう。心身ともに被昇天する時まで。  (J.M.バラ神父(現:益田教会)


年間第21主日 ルカ13章22〜30
「私たちの救いは、全面的に神に委ねられている」

 「天の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」福音書に現われるイエスの最初のメッセージです。「回心によって、一人でも多くの人を天の国に送り込もう」、そのような望みと共に、イエスの公生活は始まりました。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」有名な言葉です。正しい人々が「天の国」に入ることには誰も異議を唱えません。しかしイエスは、罪人を招くために来たと言います。この言葉に心を動かされない人がいるでしょうか?
 今日の福音は、「神の国」をテーマとした「狭い戸口」と題された箇所です。イエスによれば、「一人でも多くの人を天の国に入れてしまおう」とするイエスの思いとは裏腹に、神の国に「入ろうとしても入れない人が多い」とか、入りたくても「家の主人が戸を閉めてしまう」というように、入るのがとても難しい所として説明されています。
 イエスと「一緒に食べたり飲んだり」、「教えを受けた」ことは中に入るための何の保証にもなりません。「神の国」は、洗礼を受ければ自動的に入れるというような所、ミサに与って聖体拝領をすればいいというような場所ではなく、逆に「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまいます。
 別な個所で語られた「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7.8)という言葉とは異なり、今日の箇所では、閉まった戸をいくら叩いても、開けてはもらえません。それどころか、うまく中に入れたにせよ、外に投げ出されてしまう者さえいます。私たちの救いとは、全面的に神に委ねられているのであり、決定権はわれわれの側にはありません。
 非常に厳しい響きをもつ箇所ではあります。しかし、イエスは「入るように努めなさい」と私たちを招いています。誰も神の国に入れないのではなく、東や西から、南や北から集まって来る多くの人々、イエスの招きに忠実に応える無数の人々が、神の国の宴会の席に着くことを許されるのも事実です。たとえ狭い戸口ではあっても、今それは、私たちのために開かれていると言えます。  (加藤 信也神父)



年間第22主日 ルカ14章1、7〜14
「天の国の入り口」

 私たちが食事を共にするのは友だちです。逆に、大嫌いな人と二人だけの食事は拷問といったところでしょうか。食事を共にするとは、その人を受け入れることであり、喜びを共にすることだからです。
 今日の福音は二つの部分に分かれます。前半は「食事に招かれたらどうするか」、後半は「食事には誰を招くべきか」です。誰かに招かれたら「上席ではなく末席に座れ」、招くとすれば「お返しができない人々を」というのがイエスの教えです。
 イエスは、「招かれた者」「長い間、待ち望まれた者」としてこの世に現れました。また、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2.17)と語ったとおり、招いた人でもありました。イエスに招かれた人々とは、罪人であり病人、障害者、また嘆き悲しむ人たちでした。今日の福音でも「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」とイエスは教えています。
 そして、イエスに招かれる人々に共通するのは、何も「お返し」ができないという点です。そんな彼らに代わって、神自身が招いた人に報いを与えます。もしも私たちが招いた人からの「お返し」を受け取れば、私たちの両手は「お返し」によって塞がれてしまいます。そして、神からの報いを受け取るための手、空の手はなくなります。だからこそ神は、招くときはお返しのできない人を招きなさい、あなたの手を私からの報いを受け取れるようにいつも空けておきなさいと教えています。
 今日の福音は、「上席ではなく末席に座る者」「招待されても、何もお返しができない人たちを招く」人々について語りながら、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と結ばれています。
 私たちが何気なく囲んでいる毎日の食卓、そのあり方の中にも、私たちが求めてやまない「天の国」の入り口が隠されています。  (加藤 信也神父)



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