2010年4月の福音のメッセージ

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復活の主日 ヨハネ20章1〜9
「墓から新しい命へ」

 今日はご復活の日であるのに、福音書の中には、不思議に7回ほど「墓」という言葉が出ています。
 一般的に、多くの人にとって「死」は、最も恐ろしい言葉ですが、イエスの復活によって死や墓はすべての終わりではなくて、むしろ身体的な命よりも、もっと素晴らしい命の源となりました。
 大自然は、復活のヒントを与えてくれます。麦の粒は、暗い土の中から豊かな実りをもたらします。醜い毛虫も、空を飛ぶ美しい蝶に生まれ変ります。また、母の胎内は暗くて狭いですが、その中に命が宿り、かわいらしい子どもが生まれます。
 あの最初の聖金曜日、母マリアとニコデモたちは、傷だらけのイエスの体を墓に収めて封印しました。この墓からこそ、神の力によってキリストが復活し、私たちに永遠の命を与えてくださいました。  墓は身体的な命よりさらに美しい命の泉となったのです。(ルイス カンガス神父)


復活節第2主日(神のいつくしみの主日) ヨハネ20章19〜31
「復活のローソク」

 イエスの復活は、ただご自分一人がよみがえったばかりではなく、周りの人もよみがえらせたのです。
あの時、部屋の中にいた弟子たちは、ユダヤ人を恐れて精神的に死んでいました。しかし、イエスが現れて、彼らを喜びで満たし、彼らを生かしたのです。 そして、弟子たちは、他の人々をも生かすために、あらゆる国々にイエスの復活のメッセージを伝えました。
 復活のイエスを光にたとえるのならば、電球よりも”ローソク”でしょう。復活のローソクの炎です。電球のそれ自体は、周りを照らすだけですが、ローソクの炎は、他のローソクを灯していきます。その灯りは、無限に広がっていきます。復活されたイエスは、信仰と愛の炎で私たちを照らしただけではなく、その光を受けて私たちの心のローソクとなって人々を照らすのです。
 イエスは、私たちの中に眠っていた愛と可能性を呼び起こし、そして、私たちも他の人々の可能性を呼び起こすことができるのです。そして、信仰の”光”は、それを神に求めれば無償でお与えてくださいます。(ルイス カンガス神父)


復活節第3主日 ヨハネ21章1〜14
「静穏の祈り」

 きょうの福音書には、ヨハネ21.1.19、またはヨハネ21.1-14の選択できます。コメントがあまりにも長くならないように、後者の福音書を選びましょう。ガリラヤ湖に11人の使徒たちに現れるイエスの出現です。
 21章は、編集者がヨハネの死のあと福音書に付け加えたエピソードです。このイベントが忘れられないように、最後に記録することにしました。
 イエスの指示に応じて、故郷に帰った五人の使徒(ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポ)は、他の六人の使徒と一緒に復活したイエスを待っています。ところが、貧しい漁師である彼らは、仕事をしなければ、生計を立てられません。「私は漁に行く」と、ペトロの言葉は当然です。ペトロの家に泊まるトマスとナタナエル、隣人ヤコブとヨハネ、また彼らの二人の客は、「私たちも一緒に行こう」とボランティアしました。私たちも、布教活動の漁を共同体の仕事にしましょう。
 7人は夜通し一生懸命に仕事を続けましたが、誰も一匹も捕れませんでした。魚がどこにいるのかペトロは忘れたのでしょうか。考えてみると、彼らの失敗はありがたい教訓になります。全力を尽くしたとしても、主から助けがなければ、試みが失敗に終わるのは毎日の体験です。
 ペトロたちは船を岸に引き上げ、時間つぶしをしています。家では皆眠っていますし、一匹も捕れなかったことを知らせるのは、急がないことでしょう。とは言え、彼らは落ち込んでいるとは言えません。主の復活の確信はそんな気持ちを許しません。落ち着いている彼らは、見知らぬ人が「子たちよ、何か食べる物があるか」と尋ねたところ、「ありません」と素直に答えました。その人は話を続けたい様子で、「船の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と勧めています。見知らぬ人は村の漁師ではありません。船の右側には一匹も見えません。しかし、それにもかかわらず、ペトロは網を打ちました。それは無駄だと思いましたが、主の復活後、非常に優しくなったペトロは、網を打てば、相手が喜ぶだろうと思いました。それなら、網を打つ理由が十分にあります。ペトロの寛大さは、153匹の大きな魚の大漁で報われました。反省させられる奇跡的な大漁です。
 大漁に居合わせた使徒の反応はそれぞれでした。洞察力の鋭いヨハネはすぐ「主だ」とペトロに伝え、活動家ペトロは上着をまとい湖に飛び込みました。泳いで、他の使徒よりもイエスのもとに到着しました。わが教会にも似た事があります。観想家がいますし、活動家もいます。イエスに近寄る彼らの道は違いますが、最終的に皆がイエスの朝御飯(聖体の宴)に参加し、密接に主と結ばれます。
 最後に、湖のそばの朝御飯に目を留めましょう。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、ご馳走に招かれるのは復活されたイエスです。主は、パンと魚を準備して置き、お母さんのように銘々にパンと魚を配ります。しかし、食事が始まる前に、「今とった魚を何匹か持ってきなさい」と、使徒たちに頼みました。私たちがたびたびあずかる聖体の宴は、復活したイエスが準備なさるのですが、頼まれる協力は何でしょうか。朝御飯の間、復活の確信を持つ使徒たちは静かに食事し、何も話しません。私たちは聖体拝領する時、彼らの「静穏の祈り」に恵まれるように願いましょう。
(J.M.バラ神父(現:益田教会))


復活節第4主日(世界召命祈願の日) ヨハネ10章27〜30
「私が主ではなく従となること」

 復活節第四主日には毎年、ヨハネ福音書の「よい牧者」のたとえが読まれますが、羊飼いのイメージから、司祭・修道者への召命を祈る「世界召命祈願の日」とされてもいます。召し出しは様々でも、すべてに共通した事柄もあります。それは、呼びかけるのは神であり、応えるのは私たちであるという点です。
 私の人生の主人公は私自身、多くの人はそのように考えます。私の目的を持ちそれを達成すること、個としての存在を重要視する時代に私たちは生きています。私たちは、自分の望みを達成することを大切だと考えますし、望みを達成することに大きな幸せを感じます。
 しかし、信仰の世界とは自己を相対化する世界です。「私が、私が…」という自我への執着や自己実現ではなく、私が主ではなく従となることであり、それは自分の人生の主人公としての座を神に明け渡すことにより実現する世界です。
 キリスト者に共通した困難もここにあります。席を譲るよう招かれているにもかかわらず、それができない、神からの呼びかけを感じているにもかかわらず、主人公の席にしがみついてしまう、会社や学校、家庭だけでなく、教会の中でさえ見られる問題です。私たちが、毎日の生活の中で経験するとおりです。
 イエスは語ります。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために来た」(マタイ20.28)。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいる」(ヨハネ12.26)。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9.35)。
 羊である私たちを愛するイエスは、自らの命を進んで捨てるよい羊飼いでもあります。自分を主人公としない生き方です。そのようにしてイエスが示した愛は、あれほど弱かった弟子たちを世界に派遣し、イエスのように殉教するほどに成長させました。弟子たちは、イエスに愛されること、大切にされることによって大きく成長し、教会を誕生させていきました。
 愛される者、大切にされる人は、まわりの人々を愛し大切にすることを学びます。心に「平和や喜び」を持ちます。ミサの中でも繰り返されるこれらの言葉は信仰の実りであり、「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉によって、私たちが外の世界へと運んでいくものです。それが福音宣教であり、すべての人に共通した召し出しでもあります。 (加藤 信也神父)



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