2009年9月の福音のメッセージ

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年間第23主日 マルコ7章31〜37
「心の耳と口」

 今日の福音では、イエスは、耳の聞こえない人、口のきけない人を癒されます。この人々は、周りの人が何を考えているのか分からず、また自分のことを周りの人に分かってもらいことができません。だから、精神的に心が閉じこもっていました。それは、まさしく陸の中の孤島にいるようなものでした。
おそらく、このような方々にとって、身体的に話せない・聞こえないというハンディよりも、周りの人との、場合によっては自分の一番身近な家族さえとも、交わりができないという精神的なハンディの方がよりつらかったでしょう。
 心の耳が聞こえない人もいます。それは、相手が話していることを分かろうともしない人です。また、相手が話している内容を理解しようとする代わりに、どのように反論すればよいかを考えている人です。そして、先入観を持っている人も同じです。
 イエスは、私生活の間は、不思議なことを一つもなさいませんでした。そして、30歳になって初めて、公に素晴らしい説教や奇跡を行いました。しかし、イエス様の故郷であるナザレの人々は、「このようなことはありえない」と断言してイエスを殺そうと企みました。ナザレ人は、心の耳が閉じていたのです。
 今、日本では子どもたちはいろいろな問題を抱えています。大人である私たちに責任があるでしょう。子どもは、話したり聞いたりする訓練がまだ未熟です。だから、彼らの心は、時には孤島にいるように孤立しているのです。イエス様が、なさったように、私たちも心の耳を開き、相手のことをよく理解するように努めましょう。 (ルイス カンガス神父)

年間第24主日 マルコ8章27〜35
「イエスさまは仕えるためにきた方。へりくだり仕えられることを受け入れる」

 きょうの福音は、イエスの自己啓示です。イエスは弟子たちを連れて、自然の豊かなフィリッポ・カイザリア地方に行かれました。その途中、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞かれます。弟子は、「洗礼者ヨハネだ、とか、預言者の一人だ、とか、言っています。」と答えます。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と問いかけられます。これは、明らかに、弟子に向かって質す、真剣な態度です。
 ペトロは、「あなたは、メシアです。」と、咄嗟に、日ごろ、あたためていた信仰告白をしています。イエスさまは、これについて、「だれにも話さないように。」と口止めされます。
 マタイの福音の並行個所では、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えたとき、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたに、このことを知らせたのは、天の父なのだ。」・・・「わたしも、言う。あなたは、ペトロ。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」、一旦は認めて下さっています。しかし、次には、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちをきびしく戒められます。その信仰告白には、足りないところがあったのです。
 メシアというタイトルには、政治的・国家的な意味が含まれています。イエスさまは、それを正さなければならなかったのです。「人の子は、必ず、人々から多くの苦しみを受け、殺され、3日の後に復活することになっている。」と弟子たちに打ち明けられました。
 ペトロはイエスをわきへ引き寄せ、「主よ、とんでもないことです。決して、そんなことはありません。」といさめます。 イエスは、振り向いて弟子たちを見て、ペトロに向かって、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りつけていらっしゃいます。
 何か、重大なことが見落されていたのです。ペトロは、最後の晩餐の席で、イエスさまが、ペトロの足を洗おうとされたとき、「いえ、決して、わたしの足など洗わないでください。」と辞退しようとします。イエスは、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何のかかわりもなくなる。」と答えられました。
 イエスさまは、仕えられるためではなく、仕えるためにきた方です。ペトロは、イエスさまをかばうのではなく、へりくだって、仕えられることを受け入れなければならなかったのです。イエスさまは、神の僕、十字架の死と復活を通して、仕えてくださったのです。
 わたしたちも、また、仕えられる必要があるのだ、と言うことを認めなければなりません。 そのときこそ、イエスに従っていくことができるようになるのです。
 「主よ、自分を捨て、自分の十字架を背負って従って行けるように、わたしの心を開いてください。あなたの深い愛を、悟らせてください。」 (西山 和男神父)


年間第25主日 マルコ9章30〜37
「相手への愛が深いほど、相手からの十字架を受け入れる」

 きょうの福音書の舞台は、29年の春のガリラヤです。イエスがガリラヤの岸でパンと魚を増やされた後、ガリラヤを通って行かれます。近いうちに、過越の祭りがエルサレムで行なわれます。イエスは、その祭りに行くと、すぐ逮捕され、死刑に処せられると分かっています。しかし、天の父が定められた十字架の時はまだ一年後です。それで、彼は秋まで都に行かれません。エルサレムに行ってからはガリラヤに帰らず、30年の過越の前日に十字架に付けられました。
 「イエスは、人々に気づかれるのを好まれなかった」。どうしてでしょうか? 残る数か月の間、使徒たちの養成に全力を尽くしたいと思ったからです。一年経たないうちに彼らは、福音を伝えるために世界に送られますが、養成が足りなければ、布教は十分に実らないでしょう。現代、私たちもそのように感じます。
 養成に欠かせない基本点は二つあります。まず、私たちを罪から解放するイエスの十字架の教えです。それと共に、イエスの復活を信じることです。人間であるイエスは、本能的に十字架の死を嫌がられましたが、天の父のみ心に従って十字架の道を歩まれました。主の弟子も、先生の後について十字架の道をたどるように命じられています。さもないと、彼らは弟子として失格します。
イエスの復活は、十字架と共にキリスト教の要となります。パウロがコリント教会の信者に主張したように、「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教が無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。シモン・ペトロをはじめ、使徒たちに十字架の必要性を納得させること、また、復活するイエスと同様に私たちも復活することを説得することはどれほど難しいか、イエスは体験から分かっておられます。優先的に使徒たちの養成に尽くされるのは当然でしょう。
 「キリスト教は愛の信仰」とよく言いますが、イエスの言葉(マタイ16.24−25参照)を基にすれば、「十字架の信仰」とも言えると思います。実は、相手への愛が深ければ深いほど、相手からの十字架を受け入れるでしょうが、愛がなければ、いやいやながら我慢するのか、積極的には受け入れません。主イエスに対しても他人に対しても人間同士であろうと、「相手を愛すること」と「相手からの十字架を受け入れること」は密接に結ばれている態度です。
 どうして使徒たちがイエスの「十字架の道」を嫌がっているか、きょうの福音書の後半から明らかになります。途中で、イエスが十字架の話をしている間、弟子たちは「だれがいちばん偉いか」と議論していました。出世ばかり考えている彼らは利己心そのものであり、互いへの愛はあまり見えません。愛があるならば、相手のことを優先し、ひたすらその善を求めることになります。弟子の心が変わらない限り、イエスの十字架どころか、人間からの十字架も受け入れられないしょう。
 最後にイエスは、「愛」と「十字架の受け入れ」の程度を計る物差しを与えられます。何の力もない、恩返しのできない子どもを私たちの目の前に置き、子どものために全力を尽くすつもりがあるか、また、その結果起こりうる十字架を受け入れる決心があるか、と聞いておられます。「あります」と私たちが答えるならば、子どもと共にイエスとイエスを世に遣わしになった天の父も受け入れる、とイエスが話されました。
(J.M.バラ神父(現:益田教会))


年間第26主日 マルコ9章38〜43、45、47〜48
「逆らわない者は味方:お互いに理解し、共に祈ろう」
 今日の福音は先週の主日の続きで、受難を知らせるイエスの二回目の言葉に続く箇所です。イエスが自らの十字架と死を告げるとき、その後には勧めが語られます。一回目の後には、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8.34-35)と勧めますし、二回目の後には、「子供の一人受け入れる」こと、また弟子のグループに属さない人にも寛容の心を示すように勧めます。
 今日の福音は、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」という、イエスの弟子の一人であったヨハネの言葉によって始まります。
 イエスの時代、名前にはその人物の本質や力が備わっていると考えられました。ですから、「イエスの名」は単なる名前ではなく、神やイエスの本質や権威が現されている名前ということになります。それに対し、悪霊とは肉体的精神的な悪の元凶と考えられていて、人間に危害を加えたり、特に病気を引き起こすと考えられていました。その悪霊を追い出すことによって、イエスは神の支配の到来を宣言していることになります。 イエスの時代には、すべての人がそんな悪霊の存在を信じていたと考えていいでしょう。そして、これらの悪霊を追い払うための方法もありました。それは、力のある霊の名によって出ていくように命じれば、悪霊は無力になってとりついた人から出て行くというものです。悪霊は力のある名前に対抗することができないということになります。
 イエスの名によって悪霊を追い出していた人に、弟子の一人であるヨハネが出会いました。彼は、「自分たちに従わないので、やめさせようとした」と言います。皆さんは、そのような考え方をどのように受け止められるでしょう?「そのとおりだ、すべての人はイエスとその弟子たちに従うべきだ」とお考えの方もあるでしょうし、「いや、必ずしもそうではないだろう」、そんなご意見もあるでしょう。あるいは、ヨハネの心の中に「妬み」や「支配欲」を見出される方もあるのかもしれません。
 それに対するイエスの答えは、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というものでした。興味深い言葉です。そして、これこそがイエスの宣教活動の大原則であるとも言えます。
 「すべての道はローマに通じる」、そんな言葉がありますが、この言葉を逆に考えるならば、「神に至る道は一つだけではない、たくさんあるはずだ」とも言えます。山登りに例にとりますと、麓(ふもと)から山頂に至る道は大抵何本もあります。しかし、頂上は一つです。途中で諦めることなく登り続けるならば、私たちはたった一つしかない山頂で出会うことになります。イエスの名によって悪霊を追い出していた人も、同じ頂上を目指している人ということになるのでしょう。
 エキュメニズムという言葉があります。キリスト教一致に向けての運動です。毎年一月には「キリスト教一致祈祷週間」がもうけられ、一致のための祈りが捧げられます。確かに今は異なる道を歩みながらも、しかし同じ頂上を目指す兄弟として、お互いを理解し、共に祈りましょうというものです。また、キリスト教以外の人々、他宗教との対話を重要視するのも、現代のカトリック教会の特徴です。 イエスは、すでに二千年前に、一つになることの大切さを語っています。私たちが一人でいるときではなく、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18.20)と教えますし、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と、非常に大らかな姿勢を示しています。
 皆さんの心には、イエスのこのような姿がどのように映っているでしょう?そして、私たち自身がイエスのこの思いを自分のものとしているのかどうか、それについても振り返ることができればと思います。 (加藤 信也神父)




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