2009年10月の福音のメッセージ

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年間第27主日 マルコ10章2〜16
「神の業:二人は一体となる」

今日の福音は、「二人は一体となる」がテーマです。
父母から離れ:

 大自然も教えてくれます。新しい木を増やそうと思ったら、幹(親)から枝(子ども)を切らなければなりません。すなわち親より配偶者を大切にするように努めるべきです。子どもは親離れ、親は子離れをする必要があります。

夫婦の一致:
 身体にはいろいろと異なる部分がありますが、全ての部分は同じいのちと血液に生かされているので、見事な一致があります。夫婦を一致させるいのちと血液は、「愛」です。愛を大切にする夫婦は幸いです。

二人は一体となる:
 夫婦はすでに二人ではなく一つです。夫婦は、両親には遠心力、お互いに対しては引力を持つべきです。相手の痛みが自分の痛み、相手の喜びが自分の喜びとなるように。

神が結び合わせた二人を、人は離してはならない:
 この言葉を、夫も妻も心の中にしっかり刻んでおきたいものです。夫婦の本当の仲人は、”神”です。神は、始めた業を最後まで成し遂げるために、必ず必要な恵と力を与えられるでしょう。
(ルイス カンガス神父)


年間第28主日 マルコ10章17〜30
「あなたは、わたしに従いなさい」

 きょうのみ言葉は、始めに知恵の言葉が読まれます。知恵の賛歌と言ってもよいでしょう。
この知恵は、すべてにまさって貴いもの、金や銀よりも、健康や容姿にまさる、価値あるものと言っています。 「わたしが祈ると、悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。」 「知恵の手の中には、量り難い富がある。」・・・これは若き日のソロモンが、王になったときのことばに通じています。彼は、民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたのでした。
 福音では、永遠の命を求める青年が、イエスさまに尋ねています。 「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、・・・父母を敬え」と、掟を守るように教えられます。青年は、「それらのことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えています。 青年は、しつけよく育てられてきたのでした。彼は、掟を箇条書きのようなものと考えていました。イエスは、彼を見つめ、慈しんで言われたのでした。 「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 彼は、イエスの澄んだ、愛の眼差しに耐えることができませんでした。彼は、自分が本当に求める、永遠の命を前にして、そのふところに飛び込むことができませんでした。 沢山の財産を持っていたからです。富の奴隷でした。持ち物を捨てるとは、自分の命を捨てることに等しかったのでした。
 わたしたちも、また、すべてを捨てて、イエスに従う勇気があるか、と聞かれると、やはり、二の足を踏むのではないでしょうか。従って行けない理由は、色々あるでしょう。 自分の持ち物であったり、地位や名誉であったり、自分の主義であったり、自分の命と頼むようなもの一切です。わたしたちは、このような物に囲まれて、毎日、苦闘しているのではないでしょうか。イエスの愛のまなざしを、まともに受けられない弱さがあるのです。 どうすれば、わたしたちをとりこにしている物から、逃れることができるのでしょうか?・・・ イエスは、永遠の命です。ペトロは、「主よ、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたをおいて、誰のところに行きましょう。」と、告白して、イエスに自分のすべてを委ねました。・・・何よりも、イエスの愛が必要です。しかし、それは、恵みです。不可能を可能にする恩恵です。それを受けとめる勇気が必要です。
 イエスは、神の子であり、神です。神は、寛大で、限りなく、度量の大きい方です。永遠の命です。「神には、何も、できないことはない」のです。この方のほかに、わたしたちを罪から、狭い自己中心的な考えから、解放するものはないのです。神なしには、すべては死です。神への信頼と愛をもって、イエスさまのふところに飛び込み、永遠の命をつかみ取りたいものです。イエスさまは、「父が引き寄せて下さらなければ、だれも、わたしのもとに来ることはできない。」と言われました。
神は、わたしたちの命をとらえて、放されません。 (西山 和男神父)


年間第29主日 マルコ10章35〜45
「誰よりもイエスに近くなりたければ、奉仕を尽くしたい心を身につける」

 今日のエピソードはマタイ福音書にも載せてあります。マタイによると、直接イエスにお願いするのは、ガリラヤからイエスに従ってきたヤコブとヨハネの母です。30年4月の始めですが、エルサレムに着いた彼らは8日の過越際にあずかるつもりです。
 今日の福音書の主人公ヤコブとヨハネは、ペトロとアンデレと共にイエスの最初の4人の弟子です。父ゼベデアイと母サロメの承認を得てイエスの弟子の団体に入会し、先生と一緒に国を歩き回りました。イエスがメシアであり、必ずイスラエルの王になると、確信しています。その頃、先生は、近いうちに十字架に付けられると、繰り返し言いますが、そんないやな話は聞き流し、先生から離れるつもりはありません。ただし、彼らも母も出世を考え続けます。メシアの内閣が決まったら、「自分の子供が総理大臣と外務大臣になれるかな…」と、お母さんは夢見たでしょう。やっと、勇気を出して、三人がイエスに願いに来ました。
 イエスの答えは、私たちにも反省を促します。まず自分の弟子は、いかなる場合でも、先生が背負った十字架を背負わなければなりません。きょうの福音書の言葉で言うと、主が飲まれた杯を飲み、主が受けられた洗礼を受けなければならないことです。ヤコブとヨハネはこのようにすると約束しましたが、イエスはもう一つ加えられました。自分の国(教会)で割り当てられる責任(カリスマ)は、メシアとして自分が決めるものではなく、既に御父によって決められていると、三人に答えられました。
 ヤコブとヨハネの仲間たちは、二人の願いが耳に入った時、ひどく憤慨したそうです。自分が望んでいる任務を取り上げられるのではないかと思ったかもしれません。確かに、一年前に教会の「ケファ」(土台、最高責任者)と任命されたペトロはいやな気持ちになったでしょう。そんな共同体の不穏なムードを感じ取られたイエスは、すぐ12名の弟子を呼び寄せ、弟子が教会で任せられる責任の意味について彼らに話してくださいました。イエスの教会において優れた責任者になりたい人は、兄弟.・姉妹の支配者にならず、彼らの奉仕者にならなければなりません。誰よりもイエスに近くなりたければ、任せられたキリスト者に対して、圧迫をかける厳しい主人の態度をとるどころか、僕にふさわしい心、奉仕を尽くしたい心を身につけるべきです。
 日本文化とイエスのメッセージの間には、共通点があります。その一つは目上についての考えです。「長」は、皆に嫌がれる独裁者のタイプでなければ、普段は「支配者」とは言いませんが、「責任者」と言います。かいつまんで言えば、その人の責任は、任せられた人々を「世話する」ことで、彼らに奉仕しなければならないことになります。2000年前に、今日のイエスの説明を聞いた弟子の間に一人の日本人もいなかったのですが、いたとすれば、イエス先生の今日の言葉はよく通じただろうと思います。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第30主日 マルコ10章46〜52
「神に従う」

 「捕囚」という言葉があります。古代世界に多く見られた占領政策の一環で、戦(いくさ)に勝った国が敗けた国の住民を捕虜として自分の国に連れていき、服役させることです。敗けた国は通常、税金を治める義務を課せられましたし、これを拒否すると反逆と見なされ、攻撃されたり略奪されたり、さらには捕囚が行われたといいます。聖書に現われる「捕囚」としては、アッシリアやバビロニアによるものがよく知られています。
 今日の第一朗読(エレミヤの予言31. 7- 9)では、「北の国」であるアッシリアからの解放が語られています。イエスの誕生の何百年も前に、ユダヤ民族はそのほとんどがアッシリアへ連れ去られたといいます。言わば、エジプトでの奴隷状態の再現でもあったわけです。彼らはそのような異民族、異文化の中でも、宗教的、民族的一致を保ち、アイデンティティーを守ろうとしました。そんな彼らに、祖国に帰る日が訪れます。
 では、祖国に帰る者たちとはいったい誰なのでしょう?今日の朗読には、こんな箇所があります。「その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。」体に障害を抱えた人々や、弱い立場の女性たちです。
 男たちは力による戦(いくさ)を行ない、互いに傷つけ合って、神から与えられた平和を失いました。その結果が捕囚です。そして、多くの者が滅ぼされた後に残った弱い者たち、彼らこそが、神が平和を築くために用いる人々でもあります。
 祖国への喜びの行進が始まります。その群れは弱い者の群れではあっても、主なる神の慰めと導きが彼らの上にあります。身ごもっている女、臨月の女とは、か弱く保護を必要とする者であると同時に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という生命を産み出すために神からの祝福を受けた人々です。滅びは男たちによってもたらされ、救いの喜びは女性たちによってもたらされようとしています。これが、今日の第一朗読です。
 今日の福音にも、第一朗読と共通したテーマ「解放」が語られます。マルコはこの話を、イエスが生前行った最後の奇跡として書き残していますが、この奇跡が実現したのは、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いの上に、でした。
 彼は道端に座っていました。本来、道とはたたずむ所ではなく、目的地へと向かって通り過ぎて行く場所です。そして、真っ直ぐな道、見通しのきく道の方が歩きやすいことは言うまでもありません。今日の第一朗読にも、祖国へ帰る人々について、「彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない」とあります。神の祝福を受けた人々が通る道です。
 しかし、バルティマイは見通しがきかないどころか、暗闇に生きることを運命づけられた男でした。そして、本当は通り過ぎていくはずの道の傍らで、彼は座り込んでいました。彼は盲人であっただけでなく物乞いであった、とマルコは記しています。
 そんな、何も見るべきところのない、みじめな人生を歩んできた彼にも、一つのはっきりとした望みがありました。望みは人を生かします。たった一つの望みのゆえに、彼は今日まで生きてきたと言えるのかもしれません。
 イエスとバルティマイとの会話は、実に簡潔です。「何をしてほしいのか」「先生、目が見えるようになりたいのです」「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」二人の間の会話はこれだけです。イエスからの特別な言葉、特別な行為は何も記されていません。
 イエスはバルティマイに、「あなたの信仰があなたを救った」と語ります。すると、「盲人はすぐに見えるようになった」といいます。「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉からわかることは、すべては、バルティマイの信仰によるということです。イエスの側から一方的に何かをするのではなく、盲人の信仰だけが奇跡を可能にしました。
 私たちは、多くのことを神に願います。不可能と見える事柄を神に実現してもらおうと祈ります。しかし、もしもそれらの願いや祈りが聞き入れられるとしても、それはただ神の働きによってのみ実現したと考えるべきではないでしょう。「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉に思い至るとき、願い求める私たちの祈りにも、自ずと変化が現れるはずです。
 そして、今日の福音に現れるもう一つの興味深い事柄は、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」という箇所です。イエスは「私に従いなさい」とは言わず、逆に「行きなさい」と言ったはずです。奇跡を体験した者の一つの特徴は、その後の生き方に現われます。神に従うことです。では、私たちは奇跡を体験しているでしょうか?私たち自身の信仰生活をもう一度振り返ってみたいと思います。 (加藤 信也神父)




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