2009年11月の福音のメッセージ

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諸聖人 黙示録7章2〜4、9〜14、マタイ5章1〜12
「仕える人は自分の額に刻印を押されて天国に行く」

 10月31日、イエズス会は聖アルフォンソ・ロドリゲスの祝日を祝いました。彼は、1530年スペインに生まれました。彼の父は洋服屋さんでした。その父が亡くなったので、彼は10人の兄弟姉妹を養うために通っていた大学を辞めました。27歳で結婚をして3人の子どもに恵まれました。しかし、残念なことに奥さんと3人の子どもたちは、次々に亡くなりました。これは彼にとって大きな試練でした。それから、41歳の時にイエズス会に入会しました。彼は、モンテシオンの中・高等学校の受付の仕事を46年間やり続けました。彼は、立派なブラザーでした。200年経って彼の思い出は新たにされ、彼は、列福と列聖されました。
 今日、諸聖人の祝日では、列聖された人と列聖されなくても天国に行く全ての大勢の人々を祝います。列聖されなくても善いキリストとはどのような方でしょうか?
 アウグスチヌスは、「善いキリスト者は、罪を犯さない人ではなくて、善いことをたくさんする人です。」と言いました。また、イエスは、タラントンの例え話(マタイ25・14−30)をしました。1タラントを預かった者は、そのお金を無駄には使いませんでしたが、救われませんでした。1タラントンを無駄にはしませんでしたが、それ以上に善い行いを怠ったからです。
 今日、あなたがたは、先祖と亡くなった方を祝うためにここに来られました。あるいは、ここに眠るたくさんの司祭たちに感謝するために来られました。この方々は列聖されていませんが、今、天国にいるので聖人です。彼らは、アルフォンソのようではなく、足りないことがあったり、罪を犯したりしたかもしれませんが、神さまは受け入れて迎えて下さいましたから天国に入っています。教会は、今日この方々を祝います。ごミサの感謝の祭儀の時に、彼らの善い行いを思い出し、私たちを養って下さった事に感謝を捧げましょう。
今日の第1朗読(黙示録7・2−4)では、「天使は救われる人の額に刻印を押した」と書いてあります。私たちは、先祖やここに眠っている人々忘れているかもしれませんが、神様は決して忘れていません。この黙示録の箇所(7・9-14)で、白い着物を着ている者と書いてあるのは洗礼のシンボルです。そして、額に押された刻印には、"仕えるでしょう"と記されています。
 ノーベル賞文学賞を受賞したミストラルという方は、このように言っています「小さいことにおいて仕えること。例えば、汚れた机をきれいにする、励ましの言葉をかける、小さい事でも大きい事でも善い行いをすることは全部仕える事です。」 神様も仕える方です。蒔いた種を育て実らせ、毎日太陽を昇らせ、風を吹かせること・・・すべて神様は仕える方です。イエスも仕えられる人ではなくて仕える方でした。ここに亡くなった方々も、今日ここに会いに来た方々も仕える人々です。
 私たちは、毎日、友達、家庭、会社、大自然に、小さい事においても大きい事においても仕えたでしょうか。仕える人は自分の額に刻印を押されて天国に行きます。今日この諸聖人のミサにおいて、私たちは、神様に、先立った方が天国に迎えられるように祈ります。そしてまた、天国の彼らに、私たちのためにとりなしてくださるように祈りましょう。その感謝の心を持って感謝の祭儀を捧げましょう。 (ルイス カンガス神父)


年間第32主日 列王記上17章10〜16、マルコ12章38〜44
「貧しいやもめ、精一杯の献金!」

 きょうのみ言葉は、権力者や金持の陥りやすい誘惑、つまり、権力や富を自分のために利用しようとする危険を警告しています。一方、貧しいやもめの献金について、イエス様の教訓的な話があります。
 第1朗読は、サレプタの貧しいやもめの話です。エリヤの頼みに対して、厳しい飢饉の状況の下、始めは、「焼いたパンなどありません。家には、一握りの小麦粉と、わずかな油しかありません。これから、帰って、息子と二人で、食べ物を作って食べ、あとは死ぬのを待つばかりです。」と、訴えます。しかし、エリヤは、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。・・・主は言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」 彼女は、預言者エリヤのたっての願いを聞いて、その通りにしました。
 福音は、貧しいやもめの献金の話です。それは、レプトン銅貨二枚、今のお金では100円か200円位のものでしょう。しかし、イエス様によれば、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 と、言われます。  彼女の行いが、イエスの目に留まったのは、イエス自身、自分の命を奉げ尽くして、十字架の死を遂げ、すべての人の贖いの供え物となってくださった、この自己奉献に通じるものがあったからです。
 わたしたちは、イエスの救いの業に与って、神の前にすべての罪を取り除かれ、義とされています。わたしたちもまた、日々、自分を奉げ、すべての人のために、愛を全うするようにしたいと思います。助け主、聖霊こそ、これを実現することを可能にしてくださいます。 (西山 和男神父)


年間第33主日 マルコ13章24〜32
「いつも目覚めて主の訪れを待ち望む」

 来週の主日22日は、「王であるキリスト」の祭日です。その日教会は、「王たるイエス」のお祝いを典礼暦の締めくくりにしますが、きょうの福音書では暦の終末に乗じて、世界の結末と主イエスの再臨を思い浮かべるように私たちに呼びかけています。
 マルコ福音書のきょうの箇所は、受難物語に先立つ「終末論の説教」の後半です。今までのイエスは(13.1−23)、初代教会の耐え忍ぶ迫害と苦しみについてゆっくりと話し、エルサレム破壊とイスラエル国の全滅を予告されました。これは、70年に実現したイベントですから、マルコが福音書を著した64年ごろはまだ起きていません。引き続き福音著者は、世界の終末と主イエスの再臨の課題にふれます。今日の福音書はその箇所です。
 マルコは(マタイとルカも同様ですが)、パレスチナの荒廃の予言と全世界の終末はユニットとして取り扱っています。このように感じるのは不思議ではないと思います。多くの人が、当然、自分の国が滅びるのは、全世界が全滅してしまうかのように感じるでしょう。実は、使徒パウロをはじめ(1テサロニケ4.15−17)、初代教会の多くの信者は、主の再臨が近くして、生き残った彼らはイエスが再び来られるとき、主の到来に立ち会う希望を持っていたようです。しかしながら、イエスが予告した出来事はいつ実現するか、それは誰も知らないと福音書が強調します。
 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」印象的な言葉ですが、始めて目にする聖書の言葉ではありません。「神の日」、すなわち、正しい人を報い、罪人の背きを裁くために神が世に来られる「訪れの日」を知らせた時、預言者たちはたびたび使用した言葉です(ヨエル2.10、4.15−16 イザヤ13.9−11 アモス8.9など参照)。ただし、今の場合、世を裁くために来られるのは、イエスが「父」と呼ばれた「イスラエルの神」ではなく、「神の子イエス・キリスト」です。最後の審判(マタイ25.31−46)で結ばれる入場、天使たちを伴うイエスの荘厳な再臨です。
 イエスはいつ到来されるのでしょうか。再臨の徴となる戦争、迫害、大自然の災害などが、世界の歴史において後を絶たないものですから、確信をもってその時期を見極めるのは、さぞかし私たちにとって無理なことでしょう。イエスは、夏の訪れを告げるいちじくの木から学び、目覚めて主の訪れを待ち望むようにと、私たちに言いつけられます。教会の歴史において、再臨の日を勝手に決めた信者の例がありますが、その度ごとに、彼らの信仰が笑われる結果となりました。
 今日の福音書には、解釈しにくい二つの箇所があります。一つは、「このことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」ということです。「エルサレム破壊」と「世の終末」がユニットに取り上げられるものだから、こうした表現となったのでしょうが、正確に言えば、エルサレム破壊にしか当てはまらない言葉です。また「その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」との表現です。イエスを神として認めなかった異端者は、たびたびこの言葉に訴えましたが、教会の信仰を守る解釈があります。言うまでもなく、イエスは神としてすべてを知っておられますが、人間イエスの知力は、主の贖い主の使命に神によって合わせられたものです。その範囲を上回る「再臨の時期」は、一度もイエスの知性に浮かばなかったのは認められることでしょう。 (J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)


王であるキリスト ヨハネ18章33b〜37
「神の価値観を生きなさい」

 今日の福音はヨハネ18章、ローマ総督官邸で、総督ピラトによるイエスへの尋問が行なわれる場面です。ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちは、死刑執行の権限を剥奪されていたため、イエスを裁くことをピラトに委ねます。
 ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」、「それでは、やはり王なのか」と繰り返し尋ねます。このように、今日の福音のテーマは、「イエスは王なのか。王であるとすれば、どのような王なのか」というものです。
 それに対するイエスの答えは、「わたしの国は、この世には属していない」、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」というものでした。結局のところイエスは、「お前がユダヤ人の王なのか」という問いには答えていません。そして、かみ合わない議論が続きます。
 「王」とはいったい、どのような人物なのでしょう。宮殿に住み、すべての権力を一手に握った者、そんなところでしょうか。では、イエスはと振り返ってみますと、彼は宿のない旅人の子として馬小屋で生まれました。公生活においても「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8.20, ルカ9.58)とあるとおり、住む家もない、旅人としての日々であったようです。
 「仕えられるためではなく仕えるために来た。また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20.28, マルコ10.45)と、イエスは自らの命までも投げ打って仕えることを宣言し、事実、最後の晩餐の場面では、弟子たちの足を洗うという奴隷の身分にまで下っていきました(ヨハネ13)。そのイエスが、その生涯の中で上げられたのはたった一度、それも十字架の上でした。
 私たちはこの世に属します。この世に属するとは、この世の価値観に従って生きることを意味します。この世が価値があるとするものを、私たちも価値があると考えます。そしてイエスも、私たちと同じようにこの世に生まれました。しかしイエスは、この世の価値観の中に生まれ育ちながら、神の価値観を生きた人でもありました。それも、徹底して生きた人でした。
 この世に属するとは、この世の重力のもとに生きることです。手を離せば下へ落ちていく、そのような道理の中に私たちは生きています。しかし、イエスは私たちに神の価値観を生きることを教えました。この世の重力を後にして、宇宙にさ迷い出るとでも言えばいいのかもしれません。この世にありながら、神の価値観を生きるところには、すでに神の国が実現しているとも言えます。 (加藤 信也神父)




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