2009年5月の福音のメッセージ

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復活節第4主日 ヨハネ10章11〜18
「良い羊飼いは、特に弱い者を大切する」


 良い羊飼いは羊の一匹一匹を知り、愛しています。母親がその胎内から生まれた子どもを愛しているように、イエスは私たちを愛しておられます。
 良い羊飼いであるイエスは、個人の自由を尊重しながら、安全な囲いの中に入れ、真の幸せを味わわせてくださいます。
 カタコンベの中で一番多く描かれている絵は、良い羊飼いの絵です。これらの絵では、イエスは迷っている羊、怪我をしている羊を肩にのせて運んでいます。良い羊飼いは、特に弱い物を大切になさいます。「心の医者である私は、元気な人でなく心の病人を癒すために来た。」
 良い羊飼いは、羊を救うために自分の命を捧げます。普通の飼い主は危険を感じると逃げてしまいますが、イエスは一人ひとりを大事にしてくださいますから、命がけで守ってくださいます。
 ベトナム戦争の時、危険が迫ったことを知った司教は、司祭たちを集めて言いました。「この町から非難してください。私はここに残ります。」と。 この言葉にすべての司祭が答えました。「今、危険だからこそ、私たちは信者と一緒にここに残ります。」 これを聞いた司教は感動しました。(ルイス・カンガス神父)

復活節第5主日 ヨハネ15章1〜8
「わたしにつながっていなさい」

 復活第5主日を迎えています。復活信仰を強められ、深められていることを実感します。わたしはこの春、新しい任命を受けて、宇部・小野田ブロックから山口教会へ赴任してきました。この異動は、地理的にはそれほど距離のない、同じ山口地区内のことですが、内的には大きな変化を伴うものでした。第一に、持ち物の整理が大変でした。20年間宇部小野田で働き、住み慣れた環境と人々との触れあいの中で、つもりつもったほこりとごみは想像以上でした。なれ合いと妥協の中に、知らず知らずのうちに埋没していたのです。
 今、すべてを一新しなければならない状況に追い込まれています。持ち物の整理と同時に心の整理です。密かな喜びや誇りを捨て去らなければならないことです。まさに、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」のです。身軽になるためと同時に、新しい生活環境に適応するためでもありますが、新たな使徒的使命の自覚こそ大切なことです。未だにひきずっているものが多く、本格的とは言えません。離脱と放棄、新たな目標に対応する態勢かために奔走する、と言ったところです。今日の福音は、ぶどうの木のたとえです。
 イエスさまは、「わたしはまことのぶどう木、わたしの父は農夫である。」と言われます。 「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。信仰のために命を捨てる覚悟が必要なのです。実を結ばない枝はみな、刈り込まれる、実を結ばない枝葉は、すべて切り落としてしまう必要があります。この痛みを耐えているところですが、まだまだ、なまぬるいのです。新しい芽が出るまでに時間がかかります。「わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい」と。
 あたたかい慈しみのまなざしをもって、手を差し延べてくださっている主を感じることができます。今一息、ふんばって忍耐し、新しい芽を吹き出すまで、そして、新しい実を結ぶまでになりたいと願っているところです。みことばが生きる力となりますように。(西山 和男神父)


復活節第6主日 ヨハネ15章9〜17
「愛である神」

 今日の福音書は、イエスの晩餐の話の一部です。その話をコメントするのは難しいです。主がさまざまな時と場に語られた言葉が絡み合って、重複箇所もあります。幸いに、きょうの福音書には中心課題があります。それは、愛の課題です。「愛の宗教」と言われるキリスト教は、「愛である神」を礼拝する宗教ですから、この福音書を機会に愛について反省しましょう。以下の愛は、楽しい感情を伴うとは限りませんが、自己中心を乗り越える必要である場合でも、相手の「善」を求めます。場合により、相手から何ももらわない一方的な愛で、ギリシア語では「アガペ」と言います。きょうは、まず(1)御父と御子の間の愛を取り上げ、次に(2)私たちに対する主の愛について話し、最後に(3)主が私たちから望まれる相互愛について考えましょう。
(1)御父はイエスを愛し、イエスから愛されています。その愛は一時的ではなく、変化のない三位一体の愛です。三位一体は唯一の神のご家族です。模範となるこの世の家族には、親と子供のほかに親子愛があります。神の家族にもその通りです。イエスの晩餐の話によると、三位一体の親子愛は教会を導く方で、教会の大先生である聖霊です。イエスは、聖霊に満たされて御父の御心に従って行動されたのですが、それは、御父に対する主の愛の確かな証拠です。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、ゲッセマネの祈りは主の一生の道しるべです。

(2)イエスと私たちの相互関係は、御父と御子の関係に似たものでなければなりません。御父の掟を守ることによって父に愛を示したイエスのように、私たちも主の掟を厳守することによってイエスへのアガペの心を表します。特に主によって厳粛に命じられたのは、「互いに愛しなさい」ということです。私たちを罪から解放し永遠の命に導くために、主イエスは命をささげましたが、私たちも献身的に尽くして兄弟・姉妹の善を求めるように頼まれています。敵も、私たちを迫害し中傷するいかなる者も、この愛から締め出さないようにと、尽くさなければなりません。イエスは敵のために十字架で祈りましたが、主の弟子は復讐心を乗り越えて敵のために祈ります。

(3)「互いに愛し合いなさい」。この掟を守るか守らないか、これこそ、純粋なアガペの試金石になります。守る人なら、イエスの僕ではなく、イエスの親友です。特に主に選ばれたこの弟子は、愛に憧れるわが世界に「愛である神」を知らせる福音を委ねられ、聖霊に支えられて豊かな実を結びます。与えられた使命の辛さを感じる時もあるでしょうが、その時でも恐れることはありません。天国の父に願えば、必ず道を続ける力をかなえられます。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)


主の昇天 マルコ16章15〜20
「イエスの昇天は全て始まりを示すもの。福音宣教とはイエスを隣人へと運ぶこと。」

 イエスがこの世を去るにあたって、弟子たちに語ったのは、「福音宣教」についてでした。公生活の始めに「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と呼びかけたイエスは、最後の場面でも「福音を宣べ伝えなさい」と呼びかけます。両者に共通するものは「福音」。「福音」とは、イエスの心を占めていたもっとも大切な事柄でした。
 皆さんにとって一番大切なものとは何ですか?その大切なものを、皆さんはどのようにしていらっしゃるでしょうか?私たちは大切なものを誰かに任せるようなことはしません。自分で守ろうとします。仮に、自分でそれができない場合でも、心から信頼できる人以外には、それを任せるようなことはしません。それが、大切なものに対する心の態度です。
 イエスにとって弟子たちとは信頼できる人たちだったのでしょうか?福音書が記す弟子たちとは、決して優等生ではなかったようです。彼らは漁師のようなどこにでもいる人であり、あるいは徴税人といった人々から忌み嫌われるような職業についていた人もいました。弟子になったあともイエスのことを理解できず、信仰も強くなかったというのが彼らの現実でした。それにも増して驚かされるのは、彼らの一人がイエスを銀貨三十枚で売ったこと、イエスの十字架に際しては、弟子の中の中心人物でさえイエスを「知らない」と否定し、他の者たちも皆、恐れのために逃げ去ったということです。
 今日の福音はマルコですが、同じ箇所をマタイは、興味深い言葉と共に書き残しています。生前のイエスと寝食と共にしただけでなく、復活したイエスとも親しく交わった人々が、主の昇天の場面では「イエスの前にひれ伏しながら、しかし疑う者もいた」と書き残しています。非常に興味深い言葉であり、むしろ怖ろしい言葉ですらあります。
 私たちは例外なく罪人です。弱く躓きやすい者です。しかし神の目は、何か別なものを彼らの中に見ていたようです。そこでイエスは、「賭け」とも見えるような大胆な行動に出ます。彼は弟子たちに、最も大切なものすべてを委ねました。そして、去っていきました。そこから、世界の歴史が否定しえない奇跡が始まっていきました。イエスによって世界の片隅で宣べ伝えられた福音が、弟子たちによって命がけで全世界へと運ばれて行きました。
 イエスは、弟子たちが聖人のようになるのを待って、大切な仕事を任せるのではなく、弱さや躓きやすさを持ったままの彼らに、最も大切なものを任せました。任された弟子たちの働きは様々でした。それぞれがそれぞれの能力に応じて、しかし一番良いものを世に示しました。彼らはそのようにして、福音宣教を実現していきました。イエスは、罪人である私たちの持っているもの、弱い私たち自身でさえ知らない、内に隠された宝を使おうとするかのようです。
 今日の福音は、マルコ福音書の最後の部分です。しかし、福音書の終りやイエスの昇天は終りとか別れを意味するものではありません。そうではなく、始まりです。イエスは、弱い私たちを力づけるため、聖霊を送り、私たちの心に呼びかけ、今日も私たちと共にいようとします。私たちが信仰を通して受け取ったものを、まわりの人々と分かち合うとき、確かに福音宣教は実現されます。福音宣教とは、イエスを隣人へと運ぶことです。そして、その働きこそが、私たちに次の福音宣教のための力を与えてくれます。あなたは、イエスを運ぶ喜びを体験していますか? (加藤 信也神父)


聖霊降臨の主日 ヨハネ15章26〜27・16章12〜15
「聖霊は、窓を開ければ中に入り、閉めれば他へと流れる」

 創世記11章には、「バベルの塔」という面白い話があります。人間は天に届くほどの高い塔を建てようとしますが、神が言葉を混乱させたため人々は全地に散らされた、という物語です。神の座に座ろうとした人間に、神が言葉の違いや不和を生じさせた、とは象徴的な物語です。
 人類の間に生まれた不和を聖霊はのりこえて、一致と平和をつくってくれる、それが、今日の第一朗読である使徒言行録が伝えているメッセージです。使徒言行録は、そのような聖霊を「炎のような舌」という象徴的な言葉で表わしています。また、聖霊は風にもたとえられます。風は自由に吹きます。窓を開ければ中に入り、閉めれば他へと流れる。それが聖霊の特徴でもあります。
 人間の成長について振り返る時、不思議な思いがあります。成長が早い他の動物の赤ちゃんに比べ、まったく無力な存在として生まれる人間の赤ちゃんが、しかし成長するにつれて言葉をあやつるようになり、それによって複雑な思考が可能となるばかりか、自然界を支配し、生命までもコントロールするかのようです。人間の可能性には限りがないのでしょうか。
 信仰についても、同じような思いがあります。信じない者が、信じるようになり、そのことを自らの言葉で公に表明し、さらには、世界に告げ知らせるためにそれまでの狭い世界を抜け出し、自分の命さえかえりみないほどになる。イエスを裏切った弟子たちは、その後、福音を宣べ伝える者として世界に散らばっていきます。そしてそのほとんどが、師であるイエスと同じように、信仰のために殉教していきました。それこそ、私たちが奇跡と呼ぶに相応しい歴史上の出来事であると言えます。
 あれほど弱かった者が強い者へと変えられる、実に不思議なことです。そこには、あらゆる場面で、あらゆる人々、あらゆる物事を通して私たちに働きかけ、励まし、力づける聖霊の働きがあります。
 聖霊は、イエスをも証しします。イエスを証しするものにはもう一つあります。それは、私たち自身です。「私たちにはそのような重大な義務がある、そうしなければならない」と考えるより、イエスは、罪人であり、弱く、心の鈍い私たちを、あえてその証し人として選ばれたことに注目すべきでしょう。証しするとは、能力の有無ではなく、愛の有無に関わる事柄です。 (加藤 信也神父)



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