2009年3月の福音のメッセージ

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四旬節第1主日 マルコ1章12〜15
「悪い傾きと闘い、改め、善いことをしなさい」

 【誘惑にも良さが】・・・「誘惑」というのは、神に至る道で邪魔になるもののことです。すべての苦しみと十字架は、誘惑であるといえるでしょう。
 誘惑は、悪魔、自分の性格、対人関係、原罪、疲れなどからきます。多くの人は、誘惑を悪いものだと思っています。しかし、本当に悪いことでしょうか? 悪いことでしたら「イエスは悪魔から誘惑を受けるために、聖霊に導かれた」(マタイ4・1)ということになるでしょうか。むしろ、神の霊は、イエスが誘惑を受けるように導いているのですから、誘惑にも良いところがあるはずでしょう。   それは、「誘惑」にあうことによって自分の無力さを感じ謙遜になり、心から神により頼み、祈るようになります。また、「誘惑」を受けた人は、弱い人間を理解でき、優しくなります。私たちは何か相談ごとがあるとき、あまり清く、自信を持って生きている人よりも、むしろ苦労と闘いを味わった人に相談しようと自然に思います。「誘惑」は、私たちに常に適度な緊張感を持たせ、怠慢を防ぎます。
 ある宗教は、誘惑の元となるすべての「欲」は悪いことだと教えています。しかし、キリスト教は、「性欲・食欲・生命欲」を素晴らしい力としています。この力を理性で整え、導き、生かしていくならば、優れたエネルギーとなります。「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ロマ8・28) 大雨をそのままにしておけば洪水となりますが、ダムに降った雨を集めれば豊かな水源となり、エネルギー源となるのです。
 イエスは、誘惑と闘い、勝利を得て「悔い改めなさい」と力強く訴えられました。悪い傾きと闘い、改め、善いことをしなさい。もっている人は、もっていない兄弟姉妹と物、お金、食べ物、温もり、時間を分かち合いなさい。また、「神はあなたがたを耐えられないような試練にあわすせることはない」(1コリ10・13)
 先週の水曜日から四旬節を迎えました。キリストの勝利である復活を味わうために、私たちもキリストとともに闘って、神の国が来るように努めましょう。 (ルイス・カンガス神父)



四旬節第2主日 マルコ9章2〜10
「四旬節:自分と神様との関わりをもう一度振り返る時」

 今年も灰の水曜日から四旬節に入りました。私たちが神様の前にへりくだり、神様に支えられて回心の道を歩むことができるように心を合わせて祈りたいと思います。大切なことは私たちが常に神様に心を向けるようになることです。節制や断食そして愛の行いを通して、一人ひとりが神様との関係、また世界や社会との関係を見つめ直したいです。四旬節はただ節制をするというより自分と神様との関わりをもう一度振り返ってみる時と言えるのではないでしょうか。イエス様が一番願われることは、弱さをもった人間である私たちが、神様とはどういう方か知ること、その心にふれること、そして私たちもそのイエス様の心に倣い、同じような生き方をするようになることです。
 今日の福音の場面の中で、イエス様の姿が変わり、その服が真っ白に輝きます。そのイエス様の服の輝きは、神の子としての内面の輝きが現れた結果です。そして忘れてはならないことは、イエス様の光り輝く栄光は十字架に輝く栄光です。御父はご自分の子であるイエス様に華々しい栄光ではなく、一見敗北のように見える十字架の栄光を受けるように望まれました。そしてその道を通して罪と死からの完全な勝利の姿を示されました。私たちの人生の歩みにも多くの苦難、逆境、試練があります。しかしそれでも私たちが目指す救い、永遠のいのちが確かなものであることを、イエス様の変容の姿は私たちに示しています。排斥され殺されるイエス様の姿は人々にとって受け入れがたいメシアの姿でした。しかし神の子であり救い主であるイエス様は、地上の栄光を得るためではなく、天の父の思いを自分の使命として忠実に行う自覚をもっておられました。華々しい栄光ではなく、一見敗北のように見える十字架を経た栄光が天の父が望まれる栄光であること。そして天の父は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と指示されます。私たちは自分の歩みの中で、イエス様が示してくださった真理にどう聞き従っていったらよいでしょうか。四旬節の間よく祈り、見つめなければと思います。(田丸篤神父)



四旬節第3主日 ヨハネ2章13〜25
「祈る場:父の家」

 「灰の水曜日」より四旬節を始めた私たちは、教会の指導にしたがって祈り、断食、施しの三つの償いに励んでいます。きょうの福音書は「祈る場」について私たちに考えさせます。一人で、人里はなれた場所でよく祈っていたイエスは、エルサレム神殿を「父の家」と言い、その場所では、商売を許さず、商売人を神殿から追い払います。これを見て、何気なく教会を「お喋りの場」にする私たちは、「イエスは厳しいな…」と、少し怖くなるかもしれません。
 神殿の境内から商売人を追い出し、両替人の金をまき散らすイエスの場面は四つの福音書にありますが、福音書の場所は違います。ヨハネが公生活の最初にこれを記録することに対して、共観福音著者は公生活の終わり、ご受難の数日前にします。この事がいつ起こったかということについて聖書学者は一致していませんが、ヨハネ福音書の順序に傾いている専門家は多いようです。
 福音書をよく読むと、牛、羊、鳩の売買が神殿の境内で盛んに行われていました。場所は異邦人も入る中庭の一部でした。ユダヤ人しか許されない中庭に祭壇があり、午前と午後、信者は生け贄を神に献げました。神殿まで生け贄の動物を連れ来ずに、境内でそれを買うことができれば、ありがたかったでしょう。両替人が境内にいる説明は簡単です。神殿で認められる通貨は一つだけでしたが、他の通貨はそれに替えなければならなかったのです。
 ある人は、イエスは変わりなく優しい方で、固定した表情の菩薩として想像します。彼らにとって、激しい怒りを見せるイエス、鞭を振り回して家畜を追い払ったり、両替人の机を倒したりするイエスは考えられません。しかし、この場面に立ち会った使徒たちは、躓きを受けるどころか、「あなた(神)の家を思う熱意が私を食い尽くす」という、詩篇69の言葉を思い起こしました。イエスの激しい怒りは、御父に対する熱心さから生まれる感情です。
 共観福音書によると、イエスの死刑の決め手となったのは、権力者のプライドを傷つけた、きょうの福音書の事柄です。それに対してヨハネは、ラザロの復活を決め手にします。しかし、ヨハネの福音書にも、イエスの行動を見ている権力者が反撃していることが記されています。自分が許した商売を妨げる権利は、どこからかと、詰め寄っています。それに対し、「神殿を壊せば、自分が三日で建て直す」とイエスは答えました。神の神殿である自分の体を三日目に復活させると暗示されたが、相手は、ヘロデ王が建てた建築についてイエスの言葉を解釈しました。神殿の工事は紀元前19年、46年前に始まったので、きょうのエピソードは28年の出来事でした。当時祭司たちは、イエスをあざ笑うばかりでしたが、30年の御受難の裁判に、反対者はその言葉をすっかり変化させ、主を訴える武器にしました。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)



四旬節第4主日 ヨハネ3章14〜21
「神の愛の対象に入る者と入らない者との境はない」

 −この世に存在している全ての人は、神様から愛されている− 今日の福音書の言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」を味わってみましょう。
 ここで示されている「この世を愛された神」は、どのような方なのでしょうか。 神を知っているか否か、信じるか否か、どの宗派の者なのかでもない。全てを超えて、この世に存在している「命」を慈しまれ続ける神が示されているのです。私は、ここに主の祈りの一節「天におられる、私たち(全て)の父よ。」が重なる思いです。この世の命に心を留めておられる神は、人間側の力や努力が先にあるから、愛して下さる「神」ではありません。ここに、神から人間への無条件な愛、命への平等・祝福の慈しみが聴こえてきます。
 今日の福音書の前後内容から見ると、この言葉を聞いたファリサイ派のニコデモは、面食らったようです。 それは、律法を文字通り実践してこそ、神からの救いが得られる、聖なる神に近づく道だと考えていた者にとっては、神から選ばれる対象には、条件や領域があるという意識だったからでしょう。イエスは、その偏った意識を根底から崩します。神の愛の対象に入る者と入らない者との境はないと。 人間社会の中にある様々な境や、人々の心の中にある様々な壁をなくすために、独り子が与えられたのだと、イエスは伝えています。また、誰の心にも「神様からの声」=「良心」が宿されている。ゆえに、それに聞き従って生きる時、神からの声である良心に生きる=光に生きる事。そして、神が私と一緒に生きてくださる事なのだと。イエスと共にその「声」を聴き、神を味わう時でありますように。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



四旬節第5主日 ヨハネ12章20〜33
「永遠の命への道の歩みは自分のすべてを永遠の命のために捧げること」

 今日の福音では、冒頭からギリシャ人が登場する。ここで言うギリシャ人とは、ギリシャ語を話す異邦人全体を指していると言われる。 さてそのギリシャ人が、イエスに会いたいと弟子を通して懇願するが、イエスは弟子に対して質問と異なる答えをする。「人の子が栄光を受けるときが来た。・・・・一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。・・・・」。なぜこの様な答えをしているのか。その理由は、ギリシャ人という異邦人すべてを指す比喩に意味が隠されている。つまり、イエスは事の初めからもっと広い世界の人々を対象に考えて、実践していたということである。とするならば、はじめから全世界を回っていれば良かったのではないかという疑問が湧く。しかし、すべてを回る必要性はイエスご自身の中に初めからなかった。それは初めから、弟子たちに"宣教すること"を委ねると考えていたからである。 なぜなら、これこそ福音宣教であり、この世に向けて回心の必要性から生じた神の国の証人を派遣することだからである。その根拠となるのは、イエスが十字架に上げられる「時」であり、それは人の子が「栄光を与えられる」時であり、神が御名に「栄光を与える」時だからである。 つまり、イエスの十字架は神の救いの計画であり、神が御名に「栄光を与える」のは、イエスが栄光を自ら捨てて十字架に上ったからである。これに対して「自分の命を愛するものは、それを失うが、憎むものは永遠の命に至る」と言われる。人がイエスに対する期待とイエスが人に対する期待は、全く異なっていることの証明を今日の福音からも指摘される。
 永遠の命への道を歩むには、「自分中心に生きることではなく、この世に与えられた自分のすべてを永遠の命のために捧げること」である。このことをイエスはいつも福音書の中でご自身を通して教えておられる。(松村信也神父)



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