2009年6月の福音のメッセージ

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三位一体の主日 マタイ28章16〜20
「神は愛です」

 マルコ4章34節に「イエスは、たとえを用いずに語ることはなかった」このように書かれています。ここで、今日はイエスを真似して、私もたとえを語りましょう。
 昔々あるところの王様は学者たちに尋ねました。「神様の本質を知りたい、教えてください」と。しかし、学者たちがいくら説明しても、王様は理解できませんでした。ある時、ある貧しい物乞いが王様に言いました。「王様、太陽を見てください」。王様は、「太陽を見ることはできない。あの輝かしい太陽を見ることはできない」とおっしゃいました。そうすると、物乞いは「王様、神様は太陽と同じです。すべてを照らし、あたため、生かしていますが、私たちは、それを見ることはできません。」と言いました。そして、さらに「王様、今座っていらっしゃる王座から降りて、冠とマントを脱いで、私のこの汚い着物を着てください」と言いました。王様は、その通りにしました。それから、物乞いは、王様の着物を着て、冠をかぶり王座に座って言いました。「これは、神様がなさったみ業です。神でありながら、天から降りて、人間の弱さをまとって、奴隷になり、十字架上で亡くなり、そして人間を神の子どもとなさいました。」
 福音は、神が自分の独り子を送ったのは、私たちを裁くためではなく、十字架上で亡くなり、私たちを救って、永遠のいのちを与えてくださるためであることを伝えています。
 今日は三位一体の祭日です。神は愛です。すなわち今日は神の愛を祝う日です。私たちも神にふさわしい子になりたければ、人々を裁くのではなく、人々を生かすために全力を尽くし、私たちが持っているもの、温かさ、心、必要ならばいのちまでも、イエスにならって与えましょう。
(ルイス・カンガス神父)



キリストの聖体 マルコ14章12〜16、22〜26
「ミサの中で捧げるパンと杯は、天の聖所にあって捧げられるイエス・キリストの体と血」

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)
 神が人と成られたことは、一度限りのことですが、それは秘跡を通して、今日も引き続いて起こっていることです。神はご聖体を通して、きょうもわたしたちのところへ来てくださいます。わたしたちを愛し、近く来てくださる主に対し、わたしたちは愛と従順をもって自分をささげるのです。
 きょうの第一朗読では、モーセを通して神と民が契約をもって結ばれたことが語られました。民は一斉に、ハイと答えています。どれほど、この忠誠は守られたでしょう。
 福音で、イエスは弟子との最後の晩餐として、過越の食事を取られました。そこで、ただ一度限りの、永遠の供え物として、自分自身を捧げ、聖体の秘跡を制定されました。パンを取って、“これはわたしのからだである”と、あなたがたのためにささげられるものです、と。また、ぶどう酒を取って、これはあなたがたのための“わたしの血である”、贖いのために流されるのです、と。これを取って食べなさい。また、これを受けて飲みなさい、と言って、弟子たちに与えられたのです。この、真の食べ物、また、真の飲み物としての秘跡の実現は、イエスが十字架の上で死に、死者の中から復活し、天に上げられたときに効力を持つものとなったのです。そうして、これを、わたしの記念として行いなさい、と言われました。
 キリストは今、天の聖所にあって、贖いと救いの真理をもたらしてくださいます。
 キリストはご自分を意味する“体”と“血”を、永遠の霊の力によって、いけにえとして捧げ、わたしたちを罪から清めてくださいました。この、イエス・キリストの“血”によって、新しい契約が結ばれた今、わたしたちはイエスの永遠の祭司職に与って、天の祭壇に近づくことができるのです。ミサの中で捧げるパンと杯は、天の聖所にあって捧げられるイエス・キリストの体と血です。わたしたちはイエス・キリストと一致して、これを行うことができるのです。わたしたちは神の民として、この使命を果たしていきましょう。(西山 和男神父)


<年間第12主日 マルコ4章35〜41
「助けてください」

 3週間前に教会は、聖霊降臨の記念で復活節を結びました。その後、キリスト教において重要な考え「三位一体」、およびイエスが最後の晩餐に制定された「聖体の秘跡」を祝いました。今日から年間典礼に戻り、教会はガリラヤ湖の嵐のエピソードを思い浮かべるように私たちを招いています。眠りから起こされたイエスが、使徒たちがおぼれないように、突風と波を静められたエピソードです。
 ミサ聖祭の福音書の冒頭から明らかなように、弟子たちが嵐に見舞われたのは、向こう岸に渡るようにイエスに頼まれ、主のお望みに従って沖に漕ぎ出したためです。困難を嫌がる私たちは、「向こう岸に渡れ」と主に頼まれる時がありますが、ぐずぐずして積極的にそれに応えません。そのようにすると、もしかすると困難を避けられるかもしれませんが、イエスに救われる恵みは受けられなくなります。
 激しい突風に見舞われる弟子の有様は非常に危険な状況だったでしょう。波をかぶっている小船は、水浸しになるほどでした。それにも関わらず、おまけに、イエスはぐっすりと眠っています。
 考えてみると、私たちも「心の嵐」に見舞われる時に似た状態に遭わせられます。突風に屈服し、試練に負けようとする心となり、おまけにイエスの助けが全く感じられず、主が眠っているかのように見えます。
 こんな激しい嵐の中で眠っているイエスは非常にくたびれていたのでしょう。目が覚めているならば、奇跡を行なう方ですから、弟子たちは安心していたでしょうが、眠っているので、自分たちはおぼれてしまうではないかと、彼らは不安を覚えます。しかし、先生が眠っていても、神であるイエスが神としていつも目覚めていると、彼らはまだ悟っていません。彼らの信仰はそこまで、まだ進んでいません。
 「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか?」と、弟子たちはやっと先生を呼び起こしました。胸を引き裂くような叫び声です。彼らの願いは、ありふれた「苦しい時の神頼み」ではありません。死にたくない人の叫び声、悶え悩む心の悲鳴です。自分で命を助ける道のない弟子たちは、それができる主から救いを願います。イエスは起き上がり、風と波に向かって「黙れ。静まれ」と命令し、湖は大凪になりました。いまだにこんな奇跡を体験していなかった使徒たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう…」と感心するばかりです。
 この質問への答えは、イエスの業と言葉から一歩一歩学び続け、彼らの信仰の養成が完成したのは、主が復活された時です。
 風も波も、使徒たちの心も静まった後、イエスは、未熟な信仰のために弟子たちを叱りました。しかし、弟子たちの信仰は、確かに不完全な信仰でした。しかし、彼らは自分の信仰が完全になる時までを待たず、持っている信仰を活かして「助けてください」とイエスにねがいました。おそらく、いや、確かに、恐ろしい嵐の中で「求めなさい。そうすれば、得られる」という、イエスの励ましの言葉を思い出したのでしょう。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)p>


年間第13主日 マルコ5章21〜43、or 5-21、35b〜43
「触れ合いのもつ力。そして、神が先ず心を砕かれるのは誰か。」

 イエスが舟で向こう岸へ渡ったとき、群集の中から進み出てイエスの足もとにひれ伏したのは、会堂長の一人でヤイロという男でした。おそらく社会的にはかなり高い身分にあった男がイエスに願ったのは、彼の幼い娘が死にそうだから、手をおいて癒してほしいというものでした。イエスはすぐに、ヤイロと共に娘の待つ家に向かおうとします。
 今日の福音はしかし、ここに、もう一つの話を挟んでいます。それは、十二年もの間、出血の病に苦しんでいた女が、群集に紛れ込んでイエスに近づき、後ろから服に触れた、という話です。「女」「十二年間もの病」「医者にかかってひどく苦しめられ全財産を使い果たした」、これらの言葉からは、社会の底辺にいる弱者であり、差別された者としてのイメージが伝わってきます。イエスはひとまず足を止め、この女に関わろうとします。そして、奇跡は起こり、女は癒されます。
 女の病を癒したイエスはそこを去り、ヤイロの家に向かいます。そして、すでに死んでいた娘に「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と呼びかけて、彼女を死から蘇らせます。十二年もの間患っていた女を癒した奇跡では、イエスの側からは積極的な働きかけがなされたわけではありません。ただ、自分の内から力が出て行ったことにイエス自身が気づいただけで、まだ事の次第を把握してはいませんでした。「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉がそれを示しています。奇跡の終わりに語られる「あなたの信仰があなたを救った」という言葉、「わたしがあなたを癒した」ではなく、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉にも頷けます。それに対し、亡くなった少女を蘇らせる話では、イエスは、彼女を蘇らせようと、自ら家に赴き、彼女の手を取り、呼びかけた、とあります。イエスの側からの積極的な働きかけです。
 これら二つの奇跡物語を比べたとき、神はどのように人と関わるかについて考えさせられます。神の業は、必ずしも神の側からのイニシアチブによって実現するものとは限りません。われわれの側からの積極的な働きかけによって実現することもあれば、神の側からの働きかけによって実現することもあります。双方に共通するのは、触れるという行為です。私たちが手を伸ばして神に触れる、あるいは、神が私たちに手を伸ばして触れるかです。 「手当て」という言葉があります。たとえ何もできないにせよ、「手を当てる」、触れることによって人としての暖かさを伝える、そのような触れ合いのもつ力を、イエスは訴えているのかもしれません。
 また今日の福音は、神がまず心を砕かれるのが誰であるかについても教えています。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20.16)とイエスが語ったとおりです。まず、富める者ではなく、貧しい者と共にあることを望むイエスの姿を教えてくれる福音だと言えるのかもしれません。 (加藤 信也神父)




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