2009年7月の福音のメッセージ

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年間第14主日 マルコ6章1〜6
「イエスは全き神。イエスは全き人間。」

 イエスは私生活の30年間、ナザレの人たちと全く変らない同じ生活をされたことが、今日の福音でわかります。
 ナザレの人々は、イエスが学校に通わなかったので、みなに素晴らしい教えを教えることができるはずかないと考えていました。
 また、これまで病気になったときも、自分の力で治すことがなかったので、いまさら他の病人を癒せるはずかないと考えていました。
 以上のことから、二つのことがわかります。

(1)み言葉は完全に受肉されました。
イエスは、神でありながら何の特権も持たずに、私たちと同じように人間の単調な毎日を実際に一緒に過ごされました。これこそ、神がいかに私たちを愛しておられるかを示している証です。

(2)ナザレの人々は、自分たちの偏見から、人が成長できることを認めませんでした。
偏見や先入観は、人間を型にはめてしまい、その自由や人格を否定してしまいます。このため、イエスは、他の場所で教えられたことや、なされた奇跡などを、イエスの故郷であるナザレでは出来なくなりました。
(ルイス カンガス神父)



年間第15主日 マルコ6章7〜13
「常に、福音に触れ、祈りと愛の業に励み、宣教の意識を高める必要がある」

 きょう、福音宣教の新しい段階が始まります。
 これまで、イエスさまは神の国の福音を宣べ伝え、力ある業と奇跡をもって、証ししてこられました。弟子は、イエスさまと行動を共にしながら、言葉と行いに触れて、信じることができるようになりました。これから、福音宣教の実践の場に入っていきます。
 「イエスは、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」 選ばれた12人、新しいイスラエルの民を象徴する、使徒団。組にして、遣わされる。分かち合い、交わる関係を大切にする、ティームとしての派遣です。 まず、汚れた霊に対する権能を授けておられます。それから、宣教に乗り出す、心構えを教えておられます。
 「杖一本のほか、何も持って行ってはいけない、パンも袋も、お金も持たず、下着も2枚着てはならない。」 貧しい出で立ちで、装備に手間をかけず、普段着のまま、出かけなさい、と言われています。「どこかの家に入ったら、この家に、平安があるように、と言いなさい。その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。・・・しかし、受け入れようとせず、耳を傾けようともしないなら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして、足の裏の埃を払い落としなさい。」
 弟子は、即座に、出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。わたしたちもまた、家庭や職場、遣わされた場において、福音を宣べ伝える使命があるのです。常に、福音に触れ、祈りと愛の業に励み、宣教の意識を高める必要があります。
 教皇さまの新しい回勅「希望による救い」(31)によると、「神の国とは、神が愛され、神の愛がわたしたちのところに達したところに存在する。」と言われています。
 神の国は、神がひとり子を通して為し遂げてくださった救いの業のうちに基礎があります。 すべての人が、神の子とされ、罪の赦しを受け、キリストのうちに一つにまとめられる、わたしたちは、この救いの業の完成のために働くよう、呼ばれています。 主が勝ち取ってくださった永遠の命そのものが、福音の実体です。
 多くの人々が、神の国とその栄光に与り、救いの業を讃えることがでますように!
 聖霊がわたしたちを力づけ、福音宣教に遣わしてくださるように、祈ります。 (西山 和男神父)


年間第16主日 マルコ6章30〜34
「イエスと一休みをとる−安らぎを得られる」


 きょうの福音書を見ると、「この福音書は、夏休みを待ち構えている私のために載せられたではないか」と、読者が思うかもしれません。イエスのもとに宣教旅行から帰った使徒たちはくたびれていたでしょう。また、教会のホームページを見ている読者も、蒸し暑い梅雨と身を焦がすような夏の暑さのためくたびれているでしょう。弟子たちがしたように、この疲れのことをイエスに報告しましょう。
 思いやりをもって弟子たちの報告を聞いたイエスは、静かな場所に行って、一休みをとるように提案されました。イエスは、ただ「十字架を背負いなさい」と弟子たちに促すばかりではありません。疲れている彼らの状態も気にしておられます。私たちに対してもその通りです。待ち兼ねている夏休みは、イエスのお土産と思い、精一杯楽しみましょう。
 小船に乗ったイエス先生と使徒たちは、その時の宣教旅行について一杯話したでしょう。ゆっくりと漕ぎながら湖を渡っています。せっかく一休みなのですから、イエスは堅い話をせず、ナザレの体験、大工の仕事の疲れと必要な休みについて話されたでしょう。湖の畔から多くの人は彼らを見ていますが、遠足を楽しんでいる使徒たちは、多くの人に追跡されても、別にかまわなかったと思います。湖を渡るのは二、三時間かかったでしょうが、やっと人里離れた(?)向こう岸に到着しました。
 上陸した使徒たちはびっくりしました。人里離れたと思った場所は、彼らを待ちうけている人でいっぱいです。舟をのろのろ漕ぎ続ける間、それを見ている群衆は湖の畔を走り、使徒たちに先立って目的地に着いていたのです。かわいそうな弟子たちは、これからイエス先生と一休みをとるのは不可能です。残念ながら、イエスが提案なさった「一休み」は、最終的には「一失敗」に終わってしまいました。
 でも、実際にそうなったのでしょうか?予想の一休みは失敗に終わったのでしょうか?「失敗」という結論は間違っているような気がします。湖を渡る遠足は使徒たちの心を満たし、素晴らしい一休みだったと考えざるを得ないと、私は思っています。
 もしかすると、一行が舟に乗る前に、マタイ福音書に記録されるこの言葉をイエスが使徒たちに話されたかもしれません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と(マタイ11.28−29)。のろのろ漕ぎながら、二、三時間イエスと過ごした弟子たちは、布教の重荷と疲れを先生に打ち明け、優しく柔和なイエスから励ましの言葉を聞き、先生と協力してその重荷と疲れをあらためて受け入れる決心をしたと思います。その時、「あなたがたは安らぎを得られる」という、イエスの言葉は必ず実現しました。
 夏休みを迎えている私たちは、時々イエスと一休みをとったらどうでしょうか。イエスと二人きりで湖を渡り、漕ぎながらイエスと時間を過ごしましょう。必ず私たちも心の安らぎを得られます。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、Eメール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第17主日 ヨハネ6章1〜15
「私たちが、持っている何かを捧げることこそが、神の働きを可能にする」


 今日の福音は、「パンの増加の奇跡」として知られる個所です。ところがこの話には、パンが増えたという記述はなく、大勢の群集がいたこと、大麦のパン五つと魚二匹とを持った少年がいたこと、イエスがパンと魚を取り感謝の祈りを唱えて人々に分け与えると、およそ五千人の人々が欲しいだけ食べ、それでも余ったとあるだけです。
 五千人もの群集がいたのに、食べ物を持っていたのは一人の少年だけでした。少年以外にも食べ物を持っていた人がいた、と考える方が自然なのかもしれません。
 また、群集が空腹であったならば、少年も空腹であったことでしょう。空腹の少年が、持っていたすべてを差し出しました。それは、奇跡と呼ぶのに相応しい行為だと言えるのかもしれません。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18.3)、そんな言葉が思い起こされます。
 私たちの多くは、今自分の手の内にあるパンを手放すことができません。手放すことに大きな痛みを感じます。あるいは、まず私自身が、私の家族が満たされてから…、そうも思います。私たちのありのままの姿ではないでしょうか。
 しかし少年は持っていたすべてを、群集にとってはたった五つのパンと二匹の魚を、イエスに渡しました。正確にはイエスにではなく、イエスを通して五千人の群集に差し出しました。この何の役にも立たないと思える行為からすべてが始まりました。イエスの祈りがあり、パンと魚の分配がありました。そして人々は食べて満足し、パンは余りました。
 私たちは神に祈ります、「私の不足を補ってください…」。それはまるで、祈るのは私であり、かなえるのは神の仕事であると言うかのようです。しかし今日の福音は、持っているものを差し出すという少年の行為がなかったとしたら、それに続く一連の出来事もなかったことを教えています。私たちには奇跡と見える出来事も、実は神と人との共同作業です。私たちが、痛みを感じながらも、持てる何かを捧げることこそが、神の働きを可能にするための条件であるとも言えます。
 もし、私たちがそのことを理解していなければ、たとえ奇跡を目の当たりにしても、事の真相を理解することはできないでしょう。そのいい例が群集です。彼らは満腹した後、イエスを自分たちの王にするために連れて行こうとし、イエスは山に退きました。人々の無理解を、イエスは拒絶しました。
 今日の福音は、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」と語っています。イエスの祈りは、ただ祈りだけに留まることなく、人々の必要に応える具体的な行為へと発展していきます。別な言い方をすれば、イエスが祈るだけで、その実りを具体的な行動として実現しなかったならば、その教えはキリスト教として世界的な広がりをみせることもなかったでしょう。 (加藤 信也神父)




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