2009年1月の福音のメッセージ

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主の公現 マタイ2章1〜12
「心の星」

 今日の福音によりますと、天文学者はベツレヘムの星に力を授けられ、その光に照らされて、幼いキリストまで導かれました。それと同じように、わたしたちの心の星がキリストまで案内してくれるでしょう。今日はこの「心の星」の特徴を考えながら、黙想してみましょう。
(1)確かにたくさんの人びとが、天文学者が見た星と同じ星を肉眼で見ていたでしょうが、たいていの人びとは、それに何も感じませんでした。しかし、この同じ星は、天文学者の心に語りかけました。
 私たちも心の中に入って、肉眼では見えない神の世界を見るように努めてみましょう。黙想と祈りによって、心の星がはっきりと見えてきます。
(2)どの星も、引力をもって他の天体を引き寄せます。 これと同じように、天文学者は、ベツレヘムの星によって幼子イエスまで引き寄せられていきました。
 神は無限の引力をもっておられます。それは私たちの心の中に入って、そして、私たちを神に強く引き寄せます。神は、母が子を引き寄せて抱くように、私たちを抱かれるのです。
(3)星は光を放って照らします。天文学者は、エルサレムに着いたとき、星が見えなくなりました。しかし、彼らはめげずに、星を探し続けました。そして、ついに星は特別な輝きをもって彼らを照らし、キリストまで導いたのです。
 心が曇って星が見えなくても、あきらめなければ、星は必ず幼子イエスまで導いてくれるでしょう。  (ルイス・カンガス神父)


主の洗礼 マルコ1章7〜11
「聖霊に満たされ自分の使命を生きる中に神のいのちがある」

 主の降誕の喜びをお祝いしてきた降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。そしてこの主の洗礼の出来事はイエス様の活動の出発点でもあります。この洗礼の中でイエス様は聖霊で満たされます。聖霊で満たされながらご自分の使命を深く心に留められます。イエス様の使命は人を神のいのちに招きいれることです。そのために人も聖霊で満たされることが必要です。そしてイエス様と同じように一人ひとりに与えられた使命を生きることが大事です。聖霊に満たされ自分の使命を生きる中に神のいのちがあります。
 私たちにとって洗礼が到達点、最終目的ではありません。洗礼は出発であり、そのための神様からの祝福です。洗礼を受け、その恵みを自分のものとして生きることの中に真のいのちへの招きがあるのです。私たちにはそれぞれ使命があります。自分で明確に意識していないとしても、それぞれに神様の思いと期待があるはずです。 しかし私たちは時としてそのことに目を向けず、時代の風潮に流されて生活しています。 私はあらためて祈ることの大切さを思います。祈ることなしに、また神様に力、聖霊の注ぎを願うことなしに神のいのちを生きることはできません。 まず大切なことは、自分に聖霊の力が必要であることを認めることでしょう。自分の心の中にある霊的な飢え渇きに気づいていくこと。そこから神様に心の目を向けていくこと。祈っていくこと。聖霊の本質的な働きは神と人を結び合わせることです。私たちがしっかりと神と心を合わせて生きることができるために聖霊を願い求めましょう。
 洗礼者ヨハネは言います。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」洗礼者ヨハネの洗礼は神の前に人間の心を準備していくという要素が強かったでしょう。ゆえに清めと悔い改め、回心という面が強調されていたと思います。しかしイエス様の洗礼は聖霊で満たす要素が強調されます。洗礼を通して聖霊が注がれ、力づけられる。その力は私たちが神様からの使命を生きるためにほかなりません。もう一度自分にとって聖霊の必要性と自分に求められている使命を自覚できたらと願います。神様はいつも私たちが生きること、真のいのちを生きることを願っておられます。神様は私たちにも「あなたはわたしの愛する子」とおっしゃってくださり、私たちを日々送り出してくださるでしょう。洗礼の恵みを活かす生き方を日々追い求めたいです。 (田丸篤神父)



年間第2主日 ヨハネ1章35〜42
「神の子羊」

 私たちは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたエピソードを先週記念しました。主はその時から、福音(良いたより)を広げることにおいて協力してくれる人に呼びかけ、弟子たちの共同体を作られました。そのことに触れるヨハネ福音書は、共観福音著者(マルコ、ルカ、マタイ)の伝統と違う内容を記載し、以下コメントする朗読は、最初の二人の弟子の召し出しだけを取り上げます。そのひとりはペトロの兄弟アンデレで、もうひとりは、福音書に名前を載せないヨハネだろうと思われます。
 この二人と話していた洗礼者ヨハネは、近くを通り過ぎるイエスを見たら、「見よ、神の小羊だ」と紹介しました。人にはちょっと理解できない、不思議な言葉です。一方、イザヤ書の「ヤーウェの僕」を指す言葉、「屠り場に引かれる小羊のように…口を開かなかった」という言葉を思い起こさせますが、過越しに屠られた小羊を思い浮かべる解釈もできます。どちらの場合も、メシアとの関係のある言葉のように聞こえます。
 アンデレとヨハネは立ち上がり、好奇心にかられて、知らず知らずの内にイエスの後について行きます。主が振り返り、「御用は何でしょうか」と聞かれた彼らは返事に迷い、「お泊りはどこですか」と答えてしまいました。会話を続けるただの決まり文句でしたが、彼らの言葉を上手にとらえたイエスは、「一緒に来なさい。そうすればすぐ分かります。」と言って、住んでいる場所に連れて行かれました。ちょうど午後4時でした。(こんな細かい記録は、ヨハネの個人記録ではないでしょうか?)
 その日はイエスと共に泊まり、主の手厚いもてなしを受けました。貧しい生活をしているイエスは、大盤振る舞いのご馳走は出せなかったが、彼の話がいかにも魅力的で、洗礼者ヨハネのキャンプに帰るのを忘れた二人は、何時間立っても、首を長くしてイエスの言葉を聞き続けました。彼らに自己紹介したイエスは、自分がナザレの大工ヨセフの子であるだけではなく、神がイスラエルに約束されたメシアであることも知らせてくださいました。実は、明くる日に兄弟シモンに会ったアンデレは、「私たちはメシアに出会った」と伝え、シモンをイエスのところに連れて行きました。
 司祭職と修道生活への召出しの少ない現代は、人がイエスの後について行くようにするのには、どのような呼びかけをすればいいでしょうか? まず洗礼者ヨハネのように、忍耐強く呼びかけの言葉を繰り返し、イエスと共に一晩を過ごすように、いわば祈りの体験を身につけるように相手を導くのは必要です。祈りの体験さえあれば、相手は自分個人だけではなく、使徒アンデレと同様に、イエスの後について行く他の人を呼び集めるに違いないと思います。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



「パウロの回心」 マルコ16章15〜18
「イエスを伝える事、人々とイエスとの出会いを育てていく事」

 年間第3の主日。教会典礼では、本来主日優先となりますが、今年は「パウロ年」に当たっているため、1月25日「聖パウロの回心」祝日の聖書箇所(マルコ16:15-18)を用います。
 この箇所での中心メッセージとも言える「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」は、イエスの復活後、弟子たちへ直接聞こえる形で伝えられた終局的メッセージであり、宣教活動のあり方がイエスから弟子へと転換する事が読み取れます。イエスは、全ての人が「人らしく」生きられる「命」のために、自ら語り、自ら手を伸ばし触れ、人々の心の闇を照らし、その深い痛みや悲しみ、重荷をねぎらい癒されました。そして、「これからは、あなた方がこの宣教を担うのだよ」と、弟子たち自身に念押しと確認とをするかのようにこのメッセージを残し、イエスは弟子たちの前からも、人々の前からも姿を消(昇天)され、別の形で聖霊と共に現存なさいます。 そして今、新たな年2009年を迎えました。私たちが生きている世界は、今まで以上に嘆き、苦しみ、切なる叫びをあげています。救いの訪れ、真の福音化を担っているのです。声にならない声、言葉にならない言葉を感知するアンテナを持っているでしょうか?そのために、時間を使っているでしょうか?「福音を宣べ伝える」ための。人間的な信念やイデオロギーを伝える事より、あくまでもイエスを伝える事、人々とイエスとの出会いを育てていく事に。中心軸はイエスですから。 今日の祝日「パウロの回心」は、それぞれの転換が呼びかけられている「時」のように感じます。キリスト教迫害側だったパウロが、イエスとの出会いによって生き方転換をし、全世界に向けて発信した「命への転換」だったのです。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)





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