2009年1月の福音のメッセージ

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年間第4主日 マルコ1章21〜28
「良心の文化」

 今日の福音は、イエスがカファルナウムで民衆に向かって教えを始めた話です。イエスは、何故、ご自分が暮らしていたナザレではなく、カファルナウムを選び、そこでご自分の教えを宣べ伝え始められたのでしょうか。 当時のナザレは、水は豊富にありましたが、人口は少なく、小さくて寂しい村でした。 一方、ガリラヤ湖を臨むカファルナウムは、そこを通って地中海などいろいろ国々へ移動する人々が非常に多く集まり賑やかな町でした。従って、大きな会堂もありました(19世紀の考古学者は、この土地でその当時の大きな会堂跡やイエスが泊まったと言われるペトロの家を発見しています)。 また、当時、ローマ帝国は大きな町に百人隊長を置いていました。その一つの町が、カファルナウムでした。このカファルナウムは、イエスの弟子になった徴税人のマタイ(マタイ9・9)が住んでいた町でもあります。つまり、民衆から税金を取るほどの大きな町で人口も多かったのです。  そのような大きな町でイエスは、安息日に会堂に入って教えを話し始められましたが、他の人たちが(律法学者を指す)自分の言葉で話すのではなく律法を引用して話をするのとは異なり、イエスご自身の言葉でお話になったのです。
 ルース・ベネディクトの「菊と刀」の著書の中で、彼は「恥の文化」と「良心の文化」について述べています。 「恥の文化」は、人は何かを話したり行動しようとしたりする時に、外部を見ます。 例えば、お母さんは、「○○○○をすると、○○ですよ!」と、よく子どもを諌めます。つまり、人は、外部の基準(外に合わせて―世間体など)で事を判断し行動します。 一方、「良心の文化」は、自分の良心に従い行動することです。自分は、相手に向かって何かを話し、行動する時、自分の確信(心)によりそれを行います。 イエスは、まさにこの「良心の文化」を実現した方です。イエスは、律法学者のようではなく、自信を持ってご自分の言葉で人びとに語られました。それは、目から入るものをそのまま話すのではなく、心にとどめ、その心を通して、それが言葉となり話されたのです。そのような教えの姿勢を知らなかった人びとは、それに驚いたのです。
 日本二十六聖人の中の一人ルドビコ・茨木は、12歳で殉教しました。京都から長崎に連れてこられた少年を見た長崎の奉行寺沢半三郎は、気の毒に思い、「キリストを捨て武士になりなさい」と棄教を勧めました。しかし、彼は全くそれとは逆のことを奉行に勧めたそうです。ルドビコは、「永遠の喜び」を知っていたのでしょう。この12歳の少年殉教者も強い気持ちを持ち、自分の心の良心に従って、確信(心)を持ち寺沢半三郎に話したのでしょう。  (ルイス・カンガス神父)



年間第5主日 マルコ1章29〜39
「祈りの中に真の解放がある」

 「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」 ここにイエス様の働きと使命がまとめられています。病人のいやし、それは苦しみを受け止め、理解し、愛と慈しみの手を差し出していく愛の奉仕の働きです。そして悪霊を追い出すとは、悪に立ち向かい、神の心と相容れない力や働きに対して毅然とした態度を示すこと、そしてその悪の力と働きをこの世から追い出そうと働くことです。この2つの働きはイエス様の働きの大きな部分を占めていたと言えます。
 イエス様がこの世に救い主として来られた大きな意味は、様々なことに囚われ、縛られている人間を真の自由と愛に満ちた生き方へ引き戻すことにありました。病気のいやしも、ただその病気がいやされることが目的であるというより、その人が自由さを取り戻し、愛に生きるようになることを願ってのいやしだったと思います。 シモンのしゅうとめも、イエス様に手を取って起こされたおかげで熱が去り、そしてすぐに行ったことは一同をもてなすことでした。彼女の感謝のしるしは、長い祈りを唱えることではなく、人々をもてなすその行いを通して神に対する感謝の心を表したのです。何気ない出来事、行いのように見えますが、福音に描かれている場面をよく見つめていくとき、そこに大切なメッセージを読み取ることができます。
 私たちは、もしかしたら病気のいやしを祈り求めても、それがより愛を生きるためであるというところまで思いがいたっていないかもしれません。イエス様が人間の中に見ておられる真の束縛は、病気による身体的な束縛以上に、心がそのためにふさいでしまっていることではないでしょうか。逆に大きな病気を抱えていても、心が愛に開かれている人をどれほどイエス様はお喜びになられるでしょう。この世には人間の心を縛り不自由にしてしまう様々な要素が混在しています。その現実をよく見つめることが必要でしょう。そして真の救い主であるイエス様にしっかりとつながっていくことが大切でしょう。そのイエス様は「朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」と記されています。イエス様の働きの土台はこの祈りにありました。私たちにとってもイエス様につながるために祈りが大事です。祈りの中でイエス様に心を向け、イエス様のこの私への望みを感じ取っていくこと、そして実践していくことです。その歩みの中にきっと真の解放があると思います。(田丸篤神父)



年間第6主日 マルコ1章40〜45
「イエスは律法に従っていた」

 現代では、重い皮膚病が悪化しても、効果的治療があります。しかし、イエスの時代に、重い皮膚病は治療のない恐ろしい病気でした。病人の家族をはじめ、地方の人々が感染しないように、その病気に掛かった人は文字通り「村八分」になりました。本人に対する社会の扱いはどれほど厳しかったか、それは旧約聖書(レビ書13.9−17、45−46)から明らかになります。きょうの福音書の病人は、医者のルカによれば、重い全身皮膚病を患っていました。
 イエスは、ガリラヤの首都カファルナウムで宣教活動を始めました。この頃、ガリラヤの地方を巡っています。福音書の病人は、イエスがあらゆる病気を癒すと聞きましたが、町に入るのを許されなかったので、主に会うことができませんでした。やっと、人里離れた場所でイエスに出会うことができ、憐れんでくださるように願っています。イエスは心を打たれて早速癒してくださいました。
 ところで、病人を癒した時、イエスは一つ言いつけました。祭司のところに行って、癒しの証明書を受けるために律法で定められた手続き(レビ書13.1−17)を果たさなければなりません。神であると同時にユダヤ人であったイエスは律法に従っていましたし、ヨセフとマリアもそのようにしました。後でイエスが、自分のメッセージを伝える教会を創立したとき、土台となったペトロに教会の上に権威を与え、ペトロと他の使徒の指導を受け入れるよう、キリスト者に命じられたのです(ルカ10.16)。
 祭司に身を見せるほか、癒しの秘密を守るよう、イエスは病人に言いつけました。その命令の理由はいろいろ考えられます。イエスの奇跡の話を聞いた人は、「この預言者は、ローマ人から国を救うメシアだ」と考えるでしょうが、イエスはそのメシアではありません。十字架で命を捧げて人を罪から救うメシアです。もう一つの理由が推測できます。いかなる宗教であろうと、個人利益のために神(神々)を利用する深い傾向、「ご利益」と言う傾きが人間の心に根づいています。イエスに群がってきた人々の間には、「ご利益者」が少なくなかったでしょう。イエスが言われた通り、彼らは「パンを食べて満腹したから(ヨハネ6.26)」、個人利益を求めていたからイエスについたのです。癒しを秘密にして、イエスは人のご利益を抑えたかったでしょう。
 病人は秘密を守りませんでした。誇りにかられて「自分は奇跡の人だ」と、自慢したかったか、素直にイエスの宣伝をしたかったかもしれません。その結果、押し寄せてきた「ご利益者」がさらに多くなり、町で宣教するのは不可能になりました。これからイエスは、人里離れた場所で布教を続けられます。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第7主日 マルコ2章1〜12
「奇跡とは深い次元で自己と出会い・神と出会うという内的変化」

 今日の福音は、「中風の人が癒される」奇跡物語の箇所です。福音書が語る「奇跡物語」から何を読み取りますか?ご一緒に味わっていきましょう。
 状況は、イエスが御言葉を語っておられた時、四人の男が中風の人を運んできますが、群衆に阻まれてイエスのもとに連れて行けません。そこで、四人はイエスのおられる辺りの屋根をはがして、そこから病人を床ごとつり降ろします。この描写だけでも「治してあげたい」四人の思いと、「治りたい」病人の願いが、まるで「苦しい時の神だのみ」の如くに浮かび上がってきます。イエスが特別な存在であり、特別な力を持っている方であるから、近づいたのでしょう。イエスが神の独り子、救い主メシアであるという信仰と結び合っていなくても、願ったのでしょう。
 人は苦しい時にこそ「その状態から救われたい」と心から願い祈ります。苦しみや痛み、行きづまりや挫折、悲しみやもろさ・・・。健康で順調だった時には、自分の中にあった・持っていたものは、実は与えられていたものである事に気づかされるからこそ、頂き直したい姿勢になるのでしょう。
 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ・・・」と声をかけています。イエスは、この四人の人たちや中風の人の突飛な行動に「幸せになりたい。もう一度、人生を取り戻したい」という、人としての自然な願望を見ただけでなく、人格としてその奥底に潜んでいる深い渇望をくみ取り、その「命」に向き合って下さったのでしょう。
 奇跡とは、確かに目に見える外面的変化も起こしますが、深い次元で自己と出会い・神と出会うという内的変化、癒しの奇跡もあるのです。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)





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