2009年12月の福音のメッセージ

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待降節第1主日 ルカ21章25〜28、34〜36
「いつも目を覚まし祈り、訪れを待つ」

 早いもので、今日から待降節が始まります。典礼暦では、今日が年の始まりであり、言わば、元旦です。皆さんは子供の頃のことを覚えていらっしゃるでしょうか。子供の頃、クリスマスやお正月があれほど待ち遠しかったのに、今、私たちが子供のような心で待ち遠しく思うもの、そのようなものはあるのでしょうか。
 「待つ」とは、こちらから出かけて行くことではなく、「向こうからの訪れ」を待つことです。まだ目で見たことも手で触れたこともない何かを、しかし、それが必ず来ることを信じながら、「ただひたすら待つ」ことです。
 同時に、「待つ」とは、不足を認めることです。私にはそれが必要であることを認めることです。また、やがて訪れるものが「よいもの」であることを知ることでもあるでしょう。すでに手にしているものであったり、他の何かで代用できるようなものであるならば、それほどまでに待つ必要はありません。そのようなものであれば、訪れの喜びも大きなものとは言えないでしょう。
 今日から始まる待降節には、二つの意味があります。一つは、私たちがクリスマスという言葉で慣れ親しんでいるもの、幼子イエスの誕生を待つ季節であり、もう一つは、終りの日におけるキリストの再臨を待つ期間です。そして、降誕祭やクリスマスという言葉が、「喜び」を私たちの心にもたらすのに対し、今日の福音が語る人の子の再臨には、不安や恐怖心が伴います。その理由は再臨の前兆である天変地異であり、それ以上に、人の子による「最後の審判」でしょう。
 しかし、今日の福音は、それが恐れのときではなく、私たちの「解放の時」であると語っています。「解放」とは、「ときはなして自由にすること」であり「体や心の束縛や制限などをとり除いて自由にすること」です。だとすれば、天変地異とは、私たちがよって立つこの世の確かさの崩壊と言えるのではないでしょうか。この世の価値観のあやうさは、私たちが日毎に思い知らされる事柄でもあります。まずは、毎日の生活をゆっくりと振り返ってみたいと思います。
 私たち大人が待降節を過ごす思いは、子供のそれとは異なります。子供の頃、プレゼントやケーキを心待ちにしたのとは違って、私たちが待ち望むのは解放であり、捕らわれの身からの自由です。この世の価値観から抜け出し、神の価値観を受け入れることです。そして、奴隷状態から解き放たれた状態こそが、神の国の実現であると言えるでしょう。
 そのとき、私たちに求められるのは、ただ「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈る」こと、それだけです。降誕であれ再臨であれ、私たちの側から神を探し求めて「出かけて行く」のではなく、逆に「訪れを待つ」ことです。神が、私たちを訪れてくださる、待降節とはそのようなときであり、解放してくださる神を信じる季節でもあります。 (加藤 信也神父)


待降節第2主日 ルカ3章1〜6
「平らな心」

 私たちは先週から、こらから来られるキリストのために心の準備を始めました。この準備のために、今日の福音は良いヒントを与えてくださっています。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る』

 人は、みな誰かを出迎えようとする時に、その道がデコボコだったり、整えられていない山道だったりしたら、相手の方が、少しでも速く来やすいように道を整えて準備をします。例えば、車が走りやすいように、カーブを減らし、なるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
 それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡して走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちの生活)、谷は失望する時(貧しい心や貧しい生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
 キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。今年は、ベルリンの壁が崩壊して20年経ちます。ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様力を与えてください』と。
 国連のデータによると、今、この世界で飢えている人々が、10億24万人いるそうです。また、6秒おきに栄養失調の子どもが死亡しているそうです。12月2日に、アメリカのオバマ大統領がアフガニスタン支援のための増兵を正式に発表しました。そのために年間300億ドル(約2兆6000億円)の費用がかかるそうです。そのお金の少しでも飢えている人々に使えたら、大きな"橋"になるのではないでしょうか。
 クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。(ルイス カンガス神父)


待降節第3主日 ルカ3章10〜18
「喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

 きょう、待降節第3主日を迎えています。今日の聖書の朗読では、繰り返し、喜びなさい、と呼びかけます。それゆえ、「喜びの主日」と言われます。
 第一朗読は、ゼファニア書で、「娘シオンよ、喜び叫べ。」と呼びかけます。その呼びかけの根拠は、「イスラエルの王なる主は、お前の中におられる。主はお前のゆえに喜び楽しまれる。」、神が喜ばれるからです。イスラエルの王なる主は、イスラエルの試練と忍耐の時を共に過ごし、今や、勝利を共にされるのです。
 第二朗読において、パウロは、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と。その理由は、「主はすぐ近くにおられるからです。」
 福音では、洗礼者ヨハネのあかしが響いています。彼は、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしより優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打もない。」と言い、「その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。」と証しします。 ヨハネは、自分の洗礼は、その方の水先案内にすぎない、と謙遜に認めます。人々はそこに、真実を読み取ったのです。やがて来られる方が、いかに偉大な方であるか、を感じ取ることができました。
 聖霊と火で洗礼を授けるとは、聖化と浄めを意味し、真の救いをもたらす方であることを示しています。 「手に箕を持って、脱穀場をきれいにし、麦を倉に入れ、殻を消えない火で焼き払われる。」と、救い主の働きが、目で見て取るように、はっきりと示されています。
 わたしたちは、この方を迎えようとしているのです。それは、裁きを意味しています。恐れないでいられるでしょうか?
 パウロは、フィリピ書で、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」と。パウロは、牢獄にあって、死を前にしながら、確信を持っています。  「求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心を、キリスト・イエスによって守るでしょう。」
 わたしたちの解放の日、真の喜びの日は近いのです。(西山 和男神父)


待降節第4主日 ルカ1章39〜45
「イエスよ、この私は神の僕、神のはしためです」

 きょう、リースの四本目のろうそくを教会が灯しました。25日の降誕祭まで5日しかありません。待降節を締めくくるその時間は、クリスマスの直接準備に励みましょう。この態度を助けたい教会は、福音書において親類エリサベトを訪れる聖母マリアの姿を浮かべさせます。さながらマリアとエリサベトの出会いに居合わせるように、待降節の結び方を聖母マリアから学びましょう。
 最初の待降節は、イエスを宿してからご降誕までの、聖母マリアが過ごした九か月の時間です。その時、イエスが母の胎内に成長を続けると共に、御子に対するマリア様の憧れ、またその愛がますます燃え続けます。キリスト教の待降節の始め、教会は信者に「回心」を呼びかけますが、聖母マリアの待降節なら、回心すべき罪は全くありませんでした。それは、天使から神のご計画のお告げを受け、その計画が聖霊によって実行されると聞いた彼女が、「私は神のはしためです」と、たちどころ承知したところから、明らかなことです。マリア様のこの言葉は、「私は神のお望みに従って生活する者です」と、意味するのです。偽りのない愛は、行いによって示されますが、神に全身をささげるマリアは、先の言葉で神に対する「完全な愛」を示しています。
 愛の足りない人は、待降節の最初に回心するように教会によって招かれますが、待降節中「イエスよ、この私は神の僕、神のはしためです」と、イエスに訴えるならば、その人の体験はマリアの待降節に似たものになるでしょう。
 自分を「神のはしため」と言ったマリア様は、神を愛するだけではなく、神が愛される人間に対しても、愛を現す奉仕に励み続けます。エリサベトの妊娠のことを聞くとすぐ急いで訪問することに決めました。ユダヤの山里までは3日もかかる長い旅ですが、聖母は身ごもっている体にもこだわらず、おそらくヨセフに伴われてすぐさまユダヤに赴きました。これは、私たちによい手本となります。なぜなら、信者の望ましい待降節は、神の愛においてますます進歩しているだけではなく、兄弟・姉妹への奉仕に尽くし、愛をもってベツレヘムの馬小屋に近寄っていく道のりです。 マリア様のご訪問はただの行儀作法ではありません。エリサベトとヨハネにイエスに出合う好機を与えるお見舞いとも言えます。イエスの弟子の奉仕も、イエスに人を出会わせる最も効果的な宣教の道です。
 聖母マリアの訪れの結果、エリサベトは大喜びに恵まれました。胎内のヨハネも喜びにあふれておどりました。「あなたは女の中で祝福された方」と、エリサベトが聖母をたたえましたが、彼女の言葉は、何世紀にもわたり教会の「天使祝詞」の祈りにこだまし、信者方の心を暖める言葉です。
 カトリックでないキリスト教の中にも、「カトリックは、神としてマリアを拝んでいるではないか」と、非難する人たちがいますが、それは大間違いです。マリア様は人間に過ぎない方ですが、救い主の母であり、誰よりも神と隣人を愛される方ですから、「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう」と、聖母ご自身が預言されたように(ルカ1.48)、大勢のキリスト者は主の母を褒めたたえます。私たちも「いつの世の人も」の中の一人となり、エリサベトと共に、クリスマスのあいだ声高らかに聖母マリアを褒めたたえましょう。 (J.M.バラ神父(現:益田教会))


聖家族 ルカ21章41〜52
「もっとも身近な隣人である家族へ暖かいまなざしを向ける」

 今日は「聖家族」の祝日。年末のあわただしさの中、私たちは、家族について振り返る時を持ちます。家族について語ることはやさしいことではありません。多くの人が、喜びだけでなく、難しさや心の痛みと共に家族を振り返るのではないでしょうか。
 今日の福音でも、親であるヨセフとマリアは子であるイエスのことで悩んでいます。十二歳になったイエスは、それまで両親が思い描いていたのとは異なった姿を彼らに見せます。
 時として、若者たちは不安定な姿を見せます。乱暴であったり、好ましくない行動にはしることもあります。しかし、昨今の「親による子供の虐待」などは、問題は子供だけではなく、成長し切れないまま親となってしまった大人の側へも拡大したことを教えています。
 「現代の司祭・修道者は、召し出しの危機にある。社会の中で自分が何であり、何者でならなければならないかをつかみきれずにいる。しかし、司祭とは何か、修道者とは何かという問題について誰もが納得できるような定義がないとしても、それですぐに、司祭に危機が生じるわけではない。それは、結婚について、育児についての学問的にすぐれた定義がまだないから、世界中の夫婦は危機的な状態にあるなどとは言えないのと同様である。大切なことは、夫婦の間で互いに尊敬し合っているか、親子が互いに大切にし合っているかということにつきる」(「何を、どう祈ればいいか」、アントニー・デ・メロ:著、裏辻洋二:訳より)。
 この言葉は、問題に対する学問的な定義や分析がなければ危機を回避することはできない、というものではなく、家庭生活の大切な点は、夫婦の間で互いに尊敬し合っているか、親子が互いに大切にし合っているかということにつきる、と教えています。
 以前、マザー・テレサの講演を聴く機会がありました。「では、僕には何ができるでしょう、何をしたらいいですか?」という学生の質問に、彼女は答えました。「あなたの家族の一人ひとりを思い起こしてください。孤独を感じている人はいませんか?いるとすれば、その人と共にいてあげてください。それが、あなたがしなければならないことです。」
 もっとも身近な隣人である家族へ暖かいまなざしを向けること、そんなごく当たり前のことをまず行ないなさい…、私たちが難しいものと考えがちな温かな家庭づくりの秘訣は、実は今すぐにでも行なうことができる小さなものの積み重ねにあるようです。 (加藤 信也神父)





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