2009年8月の福音のメッセージ

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年間第18主日 ヨハネ6章24〜35
「神様が示す象徴の深さ、温かさを読み取る心の視力」

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・26)
 ある青年は、一生懸命に働き、食事を節約して、やっと恋人のためにダイアモンドがついたきれいな指輪を買った。
そして、そのダイアモンドを恋人にプレゼントした。しかし、その時、恋人は、プレゼントした若者を無視して「ありがとう」ともいわずに、夢中になってダイアモンドばかりを一生懸命見てしまった。恋人は、ダイアモンドがその青年の愛のしるしであり、象徴である事が分かっていなかった。
 イエスは、三日間、何も食べないでついて来た群集を愛して、憐れんで、奇跡を行いパンと魚を食べさせたました。 しかし、今日の福音によると、パンを食べた群衆は、イエスを信じて、イエスを愛したからではなくて、ただ満腹したからイエスを探しているのです。つまり、先に書いた青年の恋人と同じように、群衆は、パンの奇跡は、人々に対するイエスの愛の象徴である事が分かっていなかったのです。
 みなさんは、この8月の夏休みの間に、旅行などして、美しい大自然と向き合ったりするでしょう。大自然は、それを創った神様の愛の象徴であります。美しい花のかなたに、見えない神のデリケートな手、暖かい愛を読み取るように。そして、友だちと付き合う時に、人々の心の思いやりと慈しみを読み取るように。 私たちの周りには、神からもいただいたものから、そして、人間からもいただいたものの象徴が一杯あります。先の恋人やイエスを追った群衆のようではなくて、その象徴を表す深さ、温かさを読み取る心の視力があるように願いたいと思います。
 パンの増加の奇跡は、その象徴の意味を読み取る事を勧めています。パンが増やされたように、世界諸国の信者達が、同じイエスをいただく象徴になります。 (ルイス カンガス神父)

年間第19主日 ヨハネ6章41〜51
「あなたは 死なない」

 わたしが、ある病気で悩まされていたとき、「あなたはこの病気では、死なない」と、医者から言われたとき、非常に安心しました。そのとき、感じたことは、人は寿命が来れば、死ぬのであり、病気が命と直結している訳ではない、と言うことでした。
 ある信者さんは、がんで非常に苦しんでいたとき、もう、死にたい、死にたい、と言っていました。それは、抗がん剤治療が非常に苦しかったからでした。その治療のすべての過程を終えて、苦痛は去りました。しかし、認知症がひどくなり、最後には、信仰のうちに命をささげて、亡くなりました。
 エリヤは、王妃イゼベルの怒りから逃がれ、荒野を通って一日の道程を歩き続け、力尽き、「主よ、もう十分です。命を取ってください。」と言いました。しかし、主は、パン菓子と水を用意し、「起きて食べよ。」と、生きる糧を与えられます。その食べ物に力づけられて、四十日四十夜歩き続け、目的地である、イスラエルの信仰の原点である、神の山ホレブに着いたのでした。
 わたしたちの命は、神のみ手の中にあって、守られています。特に、堅信の秘跡を受け、救いを体験した者は、その保証として、霊印(カラクテル)を捺され、神の子としての命を生きることができます。パウロは、「神の霊を悲しませてはいけません。」と言います。
 神の子イエスを愛し、愛のうちに生きる者は、死なない、永遠の命を生きるのです。
 イエスは、宣教に送り出した弟子たちが帰ってきたとき、疲れて興奮気味な様子を見て、「あなた方は人里離れたところに行って、しばらく休みなさい」、と言われました。一同は舟に乗って出かけたのですが、対岸に着くと、先回りして待ち構えていた大勢の群衆を見て、牧者のいない羊のような有様を、イエスは、深くあわれまれました。そして、パンの増やしの奇跡を行われました。それから、「わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるものは、永遠に生きる。」と、実際に食べるように、教えられます。
 神のみ手の中にあって守られている命は、霊的な命であって、信仰を通して生きる命です。しかし、イエスの与えてくださる、生きたパンによって、養われる必要があるのです。 イエスの教えは、聖体の秘跡を説き明かす、いのちの言葉だったのです。
   「人はパンだけではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる。」(マタイ4章4節)
(西山 和男神父)


年間第20主日 ヨハネ6章51〜58
「聖体拝領は、永遠の命の必須条件」

 きょうの福音書は、イエスのカファルナウムの説教を結ぶ「聖体の約束」を取り上げます。ご聖体を中心にするカトリック典礼は、この箇所を非常に大切にします。ヨハネ福音書の6章は、まずイエスがパンと魚を増やされた奇跡を記録します。その後、奇跡に続くカファルナウム会堂の説教を載せます。イエスの話の前半は、自分が天から降ったパンであること、また、自分への信仰のパンが永遠の命をもたらすことを強調します。「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」。きょうの福音書の冒頭にあるこの言葉は、説教の前半とその後半である「聖体の約束」のつながりになります。
 先の言葉を聞いたユダヤ人はびっくりさせられたでしょう。彼らは、人の肉を食べるような野蛮人ではありません。先生はたとえのつもりでそれを話すのでしょうが、やはり、自分の肉を食べさせるなんて、いやな気持ちになる言葉です。聞き手は「先生は変なことを言うなあ」と反応したでしょう。その反応を見ても、イエス先生は言葉を取り消したり、説明したりしてはいません。それどころか、六回も自分の肉を食べさせる言いつけを繰り返しました。これをする人は密接にイエスに結ばれ、永遠に至る命を得て、終わりの日に復活させられますが、先生の肉を食べなければ、その人の内に命はありません。言い替えれば、聖体拝領するのは、永遠の命の必須条件になります。
 福音書に目を通せば、もう一つの言いつけが四回も出てきます。イエスの弟子は先生の肉を食べるほか、その血を飲まなければなりません。これを聞いた人々は、思いもよらないほどいやになったでしょう。現代の熱心なユダヤ人たちも人の血をもちろんのこと、動物の血さえも食べません。店で買う肉は血の一滴もない肉、「コーシャー」という肉でなければなりません。
 きょうの福音書はここまで続きますが、弟子たちの多くの者がイエスの話を聞くと、「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」と憤慨し、離れ去り、その時からイエスと共に歩まなくなってしまいました。もしかすると、イエスがたとえのつもりで先の言葉を話したとすれば、その弟子を呼び戻し、彼らの誤解を正したでしょうが、イエスは何もしませんでした。それどころか、十二人の使徒に向かって、「あなたたちも離れて行きたいか」と尋ねられただけです。
 このエピソードの最後に、ご自分の言葉を正しく解釈するアプローチが何かをイエスが教えてくださいました。私たちは、誤解に陥らないように、「肉」(=自然の常識)の観点からではなく、「霊」(=信仰)の観点から主の言葉を解釈しなければなりません。それは、復活されたイエスを「絶対信用」する観点です。命を与える主の言葉が「霊」であるので、信仰の浅い畑にその種が蒔かれた場合、永遠の命に至る実を結べないでしょう。 (J.M.バラ神父(現:益田教会))


年間第21主日 ヨハネ6章60〜69
「我々を我慢強く待ってくださる神」

 福音書のテーマの一つは、「イエスとは誰か」というものです。登場人物のそれぞれが「イエスとは誰か」と問い、イエス自身も「私を誰だと思うか」と問います。そして、この謎解きの答えが、その人のその後の生き方を決定します。
 イエスを信じ、従った人々がいました。また、イエスに対して悪意や殺意までも抱いた人々がいました。福音書とはイエスに従った人々についての物語であると同時に、イエスを受け入れなかった者たちについての物語であるとも言えます。それも、一度はイエスを自分たちの師として従いながら、受難が近づくにつれて離れていっただけでなく、ある者はイエスを売り渡し、ある者は「知らない」と否認する、そんな者たちの姿を描いた書物です。
 イエスから使徒と呼ばれた人々は、逃げ隠れしただけでなく、たとえば、復活したイエスが昇天する場面でさえ、まだ疑う人々でした(マタイ28.17)。復活したイエスを目の当たりにしながら、まだそのような思いを心に抱く者たちであることを知りながら、しかしイエスは福音宣教を彼らに任せていきます。  人々がイエスを受け入れないもう一つの箇所は、今日の福音です。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というイエスの言葉を聞いた人々には二つの反応がありました。
 その場に居合わせた多くの人々は、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、イエスから離れ去りました。彼らはただの群集ではなく、イエスの弟子たちであったこと、これを機に、もはやイエスと共に歩まなくなったことを、今日の福音は記しています。それが、イエスが与えるパンによって満腹し、イエスを捜し求めた人々の反応であり、イエスから直接教えを受け、何度も奇跡を目の当たりにした弟子たちの反応でした。全財産や家族まで後にして、イエスに従ったはずの者たちでさえ立ち去りました。後に残った者はわずかでした。多くの人々は信じることができず、離れていきました。
 今日の福音は、ガリラヤでのイエスの宣教の結びであると同時に、「いのちのパン」についての長い説教の締めくくりの部分です。イエスの言葉が、多くの弟子にとっては離反のもととなりました。イエスの説教の内容は、もはや「いのちのパン」についての議論ではなくなり、「イエスの肉を食べ、血を飲む」ことから離れて、ただ「あなたがたも離れて行きたいか」という問いに変わっていきます。
 しかし同時に、弟子たちの中心人物であったペトロにとっては信仰宣言の機会ともなりました。「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの問いに、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えています。
 あるいは、心の中では信じることに困難を感じながらも、必死の思いでイエスのもとに留まったペトロなのかもしれません。あるいは、離れない者、諦めない者だけが味わうことのできる、イエスの人間的な魅力がそうさせたのかもしれません。
「あなたがたも離れて行きたいか」、問うイエスの側にも、また問われる弟子たちの側にも「痛み」を感じさせる問いです。私たちも、毎日の生活の中で出会う様々な問題や困難、それらを経験し、何かを投げ出そうとするたびに、イエスから同じように問われています。「あなたも離れて行きたいか。」諦め、絶望するのは人の常です。しかし、これほど弱く躓きやすいわれわれにも決して絶望せず、我慢強くじっと待っている、それが私たちの神であることを忘れないでいたいと思います。(加藤 信也神父)


年間第22主日 マルコ7章1〜8、14〜15、21〜23
「神の思いは "すべての人々に” 向けられている」

 今日の福音はいつものように、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに論争を挑むという形をとっています。論争のきっかけは、彼らが「イエスの弟子たちの中に汚れた手で食事をする者がいるのを見た」ことでした。ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを堅く守ってきた、汚れた手のまま食事をすることは、昔の人の言い伝えに反するというものです。
 ここでいう「汚れた手」というのは、確かに「洗わない手」という意味なのですが、それは衛生上の清潔さの問題ではなく、宗教的な儀式を意味します。市場から帰ったときに身を清めるとか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うという行為も同じです。
 また、今日の福音の登場人物は「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」ですが、マルコはあえて、彼らが「エルサレムから来た」者たちであると紹介しています。エルサレムとは、ユダヤ教やその宗教的伝統の中心地であることを意味します。この短い言葉の裏には、エルサレムから来た彼らの心の中に、「われわれこそがユダヤ教を支えているのだ」という自負や誇り、エリート意識があったとしても不思議ではないでしょう。
 そんな彼らにイエスは、「神の掟」と「人間の言い伝え」という相対する二つの概念をもって反論しています。ユダヤ教を支えていると自負している彼らこそが「人間が作り上げた言い伝え」に固執するあまり、「神の掟」を忘れ、神の思いを見失っていると批判します。
 私たちも、昔から伝わる伝統や習慣をもっていますし、大切にします。カトリック教会の中、あるいは私たちの信仰生活の中にも、同じようなものを見出すことができるのかもしれません。ぎょくせき(玉石)こんこう(混交)という言葉があります。「すぐれた物とつまらない物とが入り混じっていて区別がつかないこと」を意味します。そして私たちも、自分の信仰の中にある優れた物とつまらない物、あるいは信仰を妨げている物を整理してみる必要があります。 私たちが作り上げてしまった「自負心や誇り、エリート意識」などを冷静に振り返ってみたとき、見失っていた神の思いに気付くことができるのかもしれません。
 今日の福音でイエスは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と結論づけています。私たちが犯す罪を振り返ってみるとき十分に納得のいく言葉です。私たちも、自らの心の中に生まれる思いによって罪を犯し、まわりの人々や自分自身を傷つけ、汚します。
 今日の福音でイエスは、律法を通して示された神の思いが何であるか、本当の清さとは何であるかを指摘しています。それにより、イエスはユダヤ教の人々が作り上げてしまった枠としての律法を取り払おうとしました。 人々を隔てていた律法が取り去られることにより、一部の選ばれた人々だけでなく、すべての人々に神への道が開かれます。
 私たちが毎日の生活の中で見失っているかもしれない事柄の一つは、神の思いは「すべての人々に」向けられているということです。決して「私だけに」ではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3.16)とあるとおりです。そして、そのような神の思いを実現するために、私たち一人ひとりが招かれていることを思い起こしたいと思います。  (加藤 信也神父)




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