2009年4月の福音のメッセージ

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四旬節第5主日 マルコ11章1〜10、マルコ15章1〜39
「いつもイエスと共に」

 今日の福音の箇所は私たちの黙想のヒントになります。
一つ目は、「人びとは”十字架につけろ”と叫び続けた。」 おそらくこう叫ぶ人々は、つい5日前には、イエスのエルサレム入場の際には”ホサンナ”と叫んだにちがいありません。
 人間の心は、いつもころころと変りますが、イエスの心は、いつまでも私たちを大切にされ変りません。
 二つ目のヒントは、「キレネのシモンはイエスの十字架を背負った。」(マルコ15・21)
 イエスお一人では、十字架を背負いきれないようです。イエスは、いつも私たちの協力を必要としておられます。「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」(コロサイ1・24)私たちは、キリストと共に十字架を背負っています。私たちの十字架とはどのようなものでしょうか。 健康に恵まれないこと、人とのコミュニケーションに悩む対人関係、乗り越えられそうもないほどの難しい仕事、そして、金銭の問題などもあるでしょう。(ルイス・カンガス神父)



復活の主日 マルコ16章1〜7
「復活は苦しみを通り越してそこに輝く栄光がある」

 私たちはこの木曜日から聖なる3日間を過ごしてきました。そこで記念されていたのは、神の子であるイエス様が弟子たちの足を洗い、御自分の体である聖体を制定し、十字架の苦しみを担って亡くなられたということでした。そしてそれは神様がどのように私たちを愛してくださっているかを示すものでした。神とは高みから人間を見下ろす方ではなく、逆に私たちの下になって私たちの足を洗ってくださる方、私たちに代わってその罪の代償である苦しみを担ってくださる方、神とはそのような方なのだということです。そしてその苦しみは単なる苦しむための苦しみではなく、私たちが古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになるためでした。古い自分に死んで新しいいのちに生きるようになる、それが神の子であるイエス様の私たちへの一番の思いだと思います。復活それはイエス様の生き方、一人ひとり病人に声をかけ、罪人をいやし、御自分は十字架の死の苦しみを担われたそのイエス様の生き方、十字架の死で終わってしまった、すべてが無に帰されたように思えたことが、終わってしまったのではなかった、無ではなかった、それを証しするのがイエス様の復活のできごとです。イエス様の生き方そのものが正しいものだった、真に意味のある価値あるものだったということ、それを父である神が証明されたできごとだということです。復活は苦しみが苦しみだけで終わらない、死ですべてが無に帰せられるのではない、苦しみを通り越してそこに輝く栄光があること、それを完全な形で示してくださったできごとです。苦しみを通り抜けた先に何にも代えられない真の喜びがあり、その喜びに心を向けて、この世的なものではなく、それを越える上にあるものを求めなさいということです。イエス様が十字架の死をその身に受け、そして復活されたことによって教えてくださったことを私たちも苦しみの中にあっても投げ出さず、精一杯歩んでいく、一人ひとりが復活体験をしていく、それが大事なことではないかなと思います。(田丸 篤神父)



復活節第2主日 ヨハネ20章19〜31
「私の主、私の神よ」

 30年4月9日、夜明けに復活したイエスは忙しい一日を過ごされました。まずマグダラのマリアに朝早く出現し、その次ペトロにも現れました。それだけではなく、エルサレムにいるのを危ないと思い、あわてて田舎に帰ったエマオの二人の弟子にも出現されました。厳格に言えば、彼らにただ姿を見せるだけではなく、彼らの旅の道づれとなり、行き先エマオに着くまで聖書を基にしてメシアのことを説明されました。そして、村に到着してクレオパの家に入り、二人の弟子と一緒に食事の席につかれました。
 きょうの出現は、個人への出現ではありません、晩餐の広間に集会している教会 ―婦人たちと11名の使徒、またクレオパたちからなっている教会― に対する出現です。実は、ヨハネ福音書がここで記録する出現は一つではなく、二週間続けて使徒たちに現れたイエスの二つの現れです。
 この出現において(ルカ福音書でもそうですが)「あなた方に平和があるように」とイエスは二度も同じように挨拶します。イエスの平和はデモで叫ぶスローガンではありません。復活されたイエスの赦しを基にする心の平和、喜びに満ち溢れる平和です。イエスの傷跡を見ると共に主の平和に恵まれた使徒たちは、聖霊の力を受け、神の赦しを授けるために全世界に遣わされます。「赦しの秘跡」は、その夜に制定された秘跡です。
 残念ながら、使徒トマスは、その夜の出現に立ち会いませんでした。どうして彼は留守だったでしょうか。福音書では理由が書かれていませんが、時々「個人の福音書」を作りたいと思っている私は、自分なりの説明を見つけました。あの日、朝早く買い物に出たトマスは、夜遅くまで家に帰らなかったのです。現実家のトマスは、冷静に共同体の状態を見ています。徹底した形でイエスの遺体の世話をしたい婦人たちは、きょう買い物に行く計画はありません。まず、買い物のお金がありません。共同体に与えられた寄付は全部ユダに任せられたが、ユダは消えてしまいました。主の遺体につける香料を買いに行った婦人たちは、一文残らず自分のお金を使い尽くしたでしょう。トマスは腹を決めました。まず、ベタニアのマルタとマリアの家に行き、そこから寄付をもらった彼は市場に行き、買い物を運ぶロバを借りたりなどして非常に忙しくなり、家に着いたのはもう夜更けでした。歓迎に出た仲間たちに「私たちは主を見た」と知らせられたが、その瞬間にトマスの心は暗闇に沈み、凍ってしまいました。イエスは皆に現れたが、一日中共同体のために尽くした自分には現れません。トマスにとって、このイエスの復活を認めることができませんでした。
 苦しい一週間を過ごしたトマスは、イエスの出現を信じるためにとっぴな条件をつけましたが、その彼の不信仰は、寂しさと劣等感から生じたものでした。イエスが彼にも現れた時、すぐさま元気を取り戻し、「私の主、私の神よ」と、立派な「信仰の宣言」を言い表したのです。
(J.M.バラ神父(現:益田教会))



復活節第3主日 ルカ24章35〜48
「私たちの神は、平凡さを通して働く神」

 「復活」、私たちが日常的に口にする言葉ではあっても、しかし理解することは難しいものです。皆さんなら、イエスの復活をどのように説明なさるでしょう?
 生前のイエスに出合っただけでなく、復活したイエスにも出合った多くの人々がいたはずです。しかし、信じた人が少なかったことは、想像に難くありません。それは、イエスにもっとも近い立場にあった弟子たちがどのようなありさまだったのかを思い起こしてみればわかります。 マタイ福音書の結びの箇所は、そのことをはっきりと書き残しています。いよいよイエスが天の父のもとに帰ろうとするとき、山の上に集められた11人の弟子たちはイエスの前にひれ伏します。しかし「ひれ伏した」のとは裏腹に、彼らの中に「疑う者もいた」(マタイ28.17)と言います。私たちにとっては驚きです。
 疑う弟子たちとは、生前のイエスに「これは」と思わせ(マルコ3.13)、召し出された弟子たちであり、イエスと寝食を共にし、直接に教育された人々です。それだけでなく、体に傷を残したまま復活したイエスと何度も出会った人々でもありました。それでも疑う…、イエスの復活を信じるためには、いったい何が必要なのでしょう?
 そしてもう一つの驚きは、そんな疑い深い弟子たち、弱く躓きやすい弟子たちが、自らの命をかけてまでイエスの福音を世に伝えたという事実です。そのようにして、世界の片隅でたった一人の男によって宣べ伝えられたメッセージが、時代を越え、国境を超えて世界に広がるキリストの教会へと成長していきました。世界の歴史が証言する奇跡であり謎です。そして、たとえ私たちの理性は理解しないにしろ、この謎を解明してくれるもの、それはイエスの復活以外にありません。
 私たちは、人の死を体験することはありますが、復活を日常生活の中の具体的な出来事として体験することはありません。私たちは復活を、非日常的なもの、超自然的なものだと考えます。そのような非常に特別な出来事、非日常的な事柄を今日の福音はどのように記しているのかと言えば、そこには興味深いいくつかの言葉が見られます。イエスは弟子たちに、「手や足を見せました」。「わたしには肉も骨もある。触りなさい」と呼びかけました。そして、弟子たちの目の前で「焼いた魚を一切れ食べた」ともあります。それらは、決して非日常的だとか超自然的なものではなく、むしろ非常に日常的な事柄だと言えます。逆に見れば、私たちは復活を日常性の中にこそ見出そうとすべきなのかもしれません。
 「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」(ヨハネ7.27)。ヨハネ福音書にはそんな言葉があります。イエスの時代、ユダヤ人たちは、メシアがどこから来るのか誰にもわからない、と考えたようです。
 似たような傾向は私たちにもあります。私たちも時として、神秘的なものや、はっきりとわからないものにこそ価値を認めたり、ありがたみを感じたりすることがあります。あるいは、目の前にあるはっきりした「しるし」には気付かず、とんでもない場所にありもしない「救い」を探し求める、私たちが陥りがちな間違いでもあるようです。しかし、私たちの神は、日常の何気ない物事、目立たない人々の中に現れる神です。異常な物事ではなく、平凡さを通して働く神だと言えばいいのかもしれません。人となった神は、より人間的であるという、人にとってはまったく当たり前の事柄を通して、自分自身を世に示したということを、忘れないでいたいと思います。(加藤 信也神父)



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