9月の福音のメッセージ

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年間第23主日 マタイ福音18章15〜20
「一緒に痛みを感じ、一緒に喜びを味わい、一人で祈るより、一緒に祈る」

 今日は、イエス様は「かかわり」を持つということについて話されています。 「かかわり」はとても大切なことです。この「かかわり」は、現代の大都会をみると、とても薄くなりました。田舎だと、行きかう人々は、すぐ挨拶を交わしますが、大都会では、その交わりが薄くなっています。例えば、ラッシュアワーの電車の中では、押しつぶされそうになり体と体が触れ合っていても、心の触れ合いは一つもなく、そこには、「かかわり」がありません。また、都心のアパートでは、誰にも発見されずに隣の人が死んでいることもあます。ここにも隣人同士の「かかわり」がありません。このような現象は日本だけではなく外国でも同じです。
 今日の福音の中で、イエス様は、皆に「かかわり」を持ちましょうと呼びかけられています。私たちは、みな平等に神様の子どもたちです。みな兄弟姉妹です。一つの大きな家庭です。そして、私たちは、皆が集まった一つの体です。大きな家庭の中に、いろいろな人がいるように、この体の中には、一杯のメンバーがあり、それはそれぞれです。しかし、"それぞれ"でも、それは、"一つ"です。だから、一つの部分が痛みを感じるときには、その痛みは、その部分だけではなく体全体に伝わっていきます。
イエス様はおっしゃっています。「一人の人が罪を犯した(精神的な痛み、病気)ときに、あなたたちは、その痛みを感じてあげなさい。」と。つまり、自分の体のどこかが病んでいる時に、他の体のどこかがそれを助けるために、体全体が、病んでいる所を助けようとします。みなさんも、罪を犯している人(精神的な痛みを持っている、病気の人)がいたら、それを治すように協力し合わなくてはいけません。無関心であってはいけません。無関心でいる人は罪を犯しています。自分の体の一部が病んでいる時に、他の体の部分が無関心でいたら、体全体は、どんどん弱っていくでしょう。その人の痛みを自分のものとして、痛みを感じとることは、私たちの大きな責任です。「かかわり」を持ち、無関心でいてはいけません。無関心は、私たち全体が罪を犯すことと同じでしょう。
 また、イエス様は、二人または三人と一緒に祈るときに、「私はその中にいる」と教えてくださっています。一緒に痛みを感じ、一緒に喜びを味わう。一人で祈るより、二人・三人で祈っている時に力があると。そして、それによって神様にいつまでも祝福されます。  今日、私たちは、このような「かかわり」を持つ心が、全世界に広がるようにみなさんと一緒に神様に祈りたいと思います。
(ルイス・カンガス神父)



十字架称賛 ヨハネ福音3章13〜17
「十字架に結ばれた生き方をする」

教会の建物の中に初めて入った人がまずどのようにとらえたらよいかとまどうのが、十字架に架けられたイエス様の姿だと思います。教会やキリスト教に対してよいイメージを持っていたとしても、この十字架の姿の意味は簡単に理解できるものではないでしょう。そしてその姿には人間がとらえる救い主のイメージと実際にイエス様が示された救い主の姿の違いが表されています。
 私たちは誰しも救いを求め、神の助けを必要と感じます。そして慈しみ深く私たちを迎え、憐れみとあたたかさで包んでくれるような神の姿を求めています。しかし実際にイエス様が神の子として、そして真の救い主としてご自分の姿を表してくださったのは、へりくだり、御自分を無にして十字架に架かるその姿でした。この世で栄光に輝き力に満ちた神の子としての姿ではなく、ぼろぼろになり、人間から侮辱され辱められた姿をその身に帯びてくださったのです。でもその姿で私たちを救い、神の私たちへの思いを示されたのです。
 今日、十字架の称賛の祝日にあたり、私たちもその十字架に架けられたイエス様の姿をしっかりと見つめたいと思います。そしてその姿で語ってくださっている真のメッセージを汲み取りたいです。神の子がその身に担ってくださった十字架の重み、そして私たちに本当の愛の姿を身をもって教えてくださったということ。
 十字架に価値があるということはそう簡単に納得できるものではないかもしれません。十字架はできれば避けたいというのが自然の感情でしょう。しかし愛という世界から見れば、十字架は価値をもってきます。十字架そしてその苦しみの中で誠実であるなら、愛は深く確かなものになっていきます。そして十字架に結ばれた生き方をすること、すなわち自分を忘れ、自分を捧げて生きるとき、真のいのちが自分の中に宿る体験をしていくのです。十字架を生きることと復活のいのちはつながっています。弱さを背負う私たちですが、十字架の姿で身をもって語ってくださったイエス様に励まされながら、人生の歩みの大切な部分を自分のものにできればどんなにすばらしいでしょう。その恵みを皆で心を合わせて祈りましょう。 (田丸 篤神父)


年間第25主日 マタイ福音20章1〜16
「人間の働きの長短を問わず、永遠の命は神の憐れみからの報酬」

 きょうの福音書はイエスのたとえです。イエスのたとえを最初に記録したのはマルコの福音書ですが、70・80年代になるとルカとマタイが幾つかのたとえを加えました。きょうの「ぶどう園の労働者」のたとえはその一つです。
 たとえは史実を伝える話ではありません。また、相手を楽しませる面白い「想像物語」でもありません。たとえは、聞き手に大事なポイントを悟らせようとする話です。ゆっくりと「ぶどう園の労働者」を読んでいる人には、そのポイントは明らかです。
福音書の主人は、広場に集まって来る日帰りの労働者を何回となく雇いに出かけます。夜明けに雇った者には一日つき1デナリオンの報酬を約束しましたが、後で雇った労働者に対し、ふさわしい賃金を払う旨だけを示しました。ただし、賃金を払うと、主人は、一日のある部分しか働かなかった労働者を憐れに思い、一人残らず皆に1デナリオンを払いました。これを話したイエスは何を伝えたかったのでしょうか?
 天におられる我らの父はその主人です。神のお望みに従って世界のぶどう園で働くように私たちに呼びかけています。ある人は人生の夜明けに、他の人は(イエスのそばに十字架につけられた犯罪人はそうでしたが)人生の夕暮れに神の呼びかけに応じてぶどう園で働き始めます。憐れみ深い天の父は(これこそ、たとえのポイントですが)彼らに同じ1デナリオン、すなわち同じ天国を与えられます。人間の働きの長短を問わず、永遠の命は人間の努力に相当した報いではなく、神の憐れみからの報酬です。
 たとえを細かく分析すれば、二の次があり、ポイントでない箇所が見当たります。物語の新鮮さやインパクトがなくならないように、その箇所に心を留めないようにしましょう。たとえば、5時に雇われた労働者は、「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っているのか」と尋ねられたとき、「(今まで)誰も雇ってくれないのです」と答えました。考えてみると、質問と答え両方ともあまりピント来ないような気がします。主人が何回も広場に来たのに、どうして5時の労働者はその時まで雇われなかったのでしょうか? 答えは一つしか考えられないと思います。彼らは広場にいなかったからです...
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第26主日 マタイ福音21章28〜32
「内外一致:自身を謙虚に受け止め・認め・その自分を差し出していく」

 今日の福音は、「神様との向き合い方」が問われています。それを、父親と二人の息子たちの関わり方で譬えられています。父親の望みに対して、兄は口で断り行動は実行し、弟は口で従い行動は不実行でした。このような両方のタイプの人は、現代社会にもいますね。何か頼み事をした時、表向きは良い顔や返事をしますが、実際は動かない人もいれば、物腰も無愛想で良い返事もないが、頼まれたことはする人。また、この二つの動きは、一人の人間の中に起こる内的変化にも見られます。 福音書では、「父親=神」「息子たち=私達」という構図で示しています。そして、どちらの息子の行動も褒められてはいません。この箇所の味わい方のポイントは、答え方とその結果ではなく、真剣に向き合うことから出てくる「内外一致」という応え方にあると思えます。 つまり、自分自身に素直になるという事です。出来る事と出来ない事に対して、自身を謙虚に受け止め・認め・その自分を差し出していく向き合い方は、神様の前にひれ伏す勇気と希望と真摯な自分。ありのままの自分という内外一致の生き方に他ならないでしょう。妙なプライドは脱捨てて良いのです。福音書は語っています。「徴税人や娼婦たちの方が、(律法を良く知っていると言う)あなた方より先に神の国に入るだろう」と。 この内外一致の向き合い方は、神様との関わり合いだけでなく、私は人と人との関係性においても大事なことだと思っています。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)




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