10月の福音のメッセージ

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年間第27主日 マタイ福音21章33〜43
「神様の心に感謝することは素晴らしい」

 神様は、私たちに一つ一つ心をこめて全てのことをなさってくださいます。今日の福音の中で、神様は、細かいところまで気を配って、ぶどう園を作り、尽くして下さいました。それなのに、農夫たちはこれに対してどうのように応えたのでしょうか。感謝の心を持ってではなく、棒を持って僕たちを殺してしまいます。イエス様は、このたとえ話で何を私たちに教えたかったのでしょう。
 私たちは、神様の恵みに対して感謝の心を持つように。イエス様はとてもデリケートな心を持っていました。ある時、イエス様は10人の皮膚病をわずらっている人たちを癒されました。でも、感謝して戻ってきたのは1人だけでした。イエス様は悲しんで話されました「清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこに行ったのか。この外国人(サマリア人)のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」(ルカ17・11〜19)と。
 今日の聖書を読みますと、私たちは、悪い農夫たちのように人を殺したりはしませんが、果たして、神様のなさることに心から感謝しているでしょうか。感謝が足りないのではないでしょうか。私たちは毎日どれだけ恵まれているかを考えてみましょう。神様から、社会から、家庭からどの位大きな恵みをいただいでいるでしょうか。今日のミサの中で1週間の間どの位恵まれていたかを一つ一つを振り返ってみましょう。 そして、「神様ありがとう。私は”誰々(何々)"から恵みをいただきましたから、どうぞこのは"誰々(何々)"に恵みを与えてください」と感謝しましょう。 時々、私たちは毎日の生活に慣れてしまいます。でも、世界ではいろいろな悲惨なことが起こっています。私たちは、ものを失った時にそのものの価値がわかります。だから、いつも感謝していましょう。
言葉の中で、一番美しい響きの言葉は、「ありがとう」です。
 また、私たちは、信仰を持っているのですから、その恵みのかたなに暖かい神様の恩恵を見るように。私たちは、直接、神様の顔を見ることはできませんが、毎日の生活の中に、目に見えない神様の心を見ることはできます。それはとても素晴らしいことだと思います。そして、その神様の心に感謝することは素晴らしいことです。(ルイス・カンガス神父)



年間第28主日 マタイ福音22章1〜14
「礼服を着るとは神様の呼びかけにふさわしい心で応えること」

 王子のための婚宴に招かれていた人たちは、呼ばれたのに来ようとはしませんでした。2度も呼びかけられたのに無視してしまいます。それはなぜでしょう。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあります。彼らにとって婚宴に出かけていくこと以上に優先することがあったということでしょう。それは自分の仕事であり生活かもしれません。仕事そして生活は人間として大切にしなければならないことです。生活するために一生懸命働く。しかしそのこと以上に大切で優先すべきことがあります。それは他者の気持ちを理解すること、喜びの時は共に喜びに出かけていくような相手を思いやる心です。そしてそれは神様の呼びかけ、招きに応えることになります。人々は自分の生活に心が奪われるあまり、神様が招かれる宴の素晴らしさ、ありがたさを見落としてしまったと言えるでしょう。あまりに人間的、この世的な幸せや価値観に心奪われ、そのことに一生懸命になるあまり、神様の招き、呼びかけの計り知れない恵み、富を見落としてしまうということです。神様の呼びかけは一見地味で平凡なことのように見えるかもしれません。しかし、神様が準備してくださる宴はこの世のものとは違う、尽きることのない喜びそのものです。私たちももしかしたら同じように毎日の生活の中に埋もれている神様の声、呼びかけを聞き逃してしまっているかもしれません。
 また同時に、呼びかけに応えることができてもどのような心をもって応えたかも問いかけられます。婚宴に参加するのであれば礼服が求められるのと同じです。礼服を着るとは神様の呼びかけにふさわしい心で応えることです。その心とはいつも神様を第一にし、神様に心を向けていく心のことです。どこかでこの世に神と神の呼びかけなどどこにあるかといような声が聞こえてきそうです。それほど私たちの生活は世俗化し、神様をどこかに忘れてしまっているのかもしれません。神様の望み、心に気づいていくためにはどうしたらよいでしょうか。まずは一度立ち止まり、ゆっくり深呼吸し、今があることを感謝することから、そして「神様、あなたの望みをお聞かせください」と謙虚に心の耳を傾けることから始めましょう。 (田丸 篤神父)


年間第29主日 マタイ福音22章15〜21
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

 聖書が記録したイエスの言葉は真面目で、場合により少し固く聞こえるでしょうが、ユーモアに富んでいる言葉もあります。きょうのエピソードでイエスが口にした「語呂(ごろ)合わせ」はその一例です。
 きょうイエスを試し来る者は、ファリサイ派とヘロデ派の人びとです。ファリサイ人は国家主義者であって、国を圧迫するローマ人を憎みますが、偽善者として公に自分を非難するイエスも憎んでいます。ヘロデ派の人は、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスとローマ人の見方です。彼らもイエスを憎んでいます。イエスは、ヘロデが殺させた洗礼者ヨハネが案内したメシアです。メシアですから、国の独立をねらっていると思われます。通常、ファリサイ派とヘロデ派は敵対しますが、きょう一緒になるのは、イエスに罠をかけて言葉尻を捕らえ、亡き者にするためです。
 「(ローマの)皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、律法に適っていないでしょうか。」逃げ道のない反対者の質問です。「納めてもいい」とイエスが答えた場合、ファリサイ人は「国の裏切り者だ、死刑に値する者だ」と、民衆に訴えることができます。「納めてはならない」と答えると、ヘロデ派の者はローマ人に告発し、イエスは謀反人の死刑に処せられます。相手の悪意を見抜いているイエスはどう答えられるでしょうか。
 「税金を納めるお金を見せなさい」と答えられました。皇帝の肖像と銘が刻まれたデナリオ銀貨です。イエスのユーモアが表れるのはこれからです。「これは、だれの肖像と銘か」と反対者に聞きますが、文脈から見れば、質問の意味は一つしか考えられません。これは、「だれ(について)の肖像と銘か」ということです。反対者は当然「皇帝のものです」と答えました。しかし、文脈を別とするならば、「だれの肖像と銘か」には「その所有者はだれですか」という意味も考えれます。語呂合わせを使用したイエスは、「皇帝のものです」と答えた反対者の言葉に後者の解釈をつけました。そして、所有者が皇帝だということなら、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、話を打ち切られたのです。
 「ミイラ取りがミイラになった」とよく言われますが、今度は、イエスの言葉尻を捕らえようとした反対者は、イエスによって言葉尻を捕らえられたのでした…
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第30主日 マタイ福音22章34〜40
「神が与え下さった「隣人と自分」の命と存在を「愛する」事」

 今日の福音では、「最も重要な掟」は「愛する」事に尽きると語られています。 「掟」とは、社会の秩序を維持していくために必要な定めであり、そこには強制力が働く賞罰の意味を含みます。「愛」とは、心の奥底から湧き上がってくる自由で自発的なもの。その「掟」と「愛」がイコールになっている事に、私はイエスの語りかけの深みと呼びかけの大きな意味を痛感します。 律法の専門家がイエスを試そうとして「律法の中でどの掟が重要ですか?」と尋ね、イエスは旧約聖書の申命記の言葉を引用して「心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神を愛しなさい」と伝えます。律法の専門家に「律法」で答えるイエスは、何を語り、何を呼びかけておられるのでしょうか?それは、イスラエルの歴史の中に「神」が介入され、最も小さなイスラエルの民を選び・導き・約束の地を与えられた。この神の恵みを真に知り・味わい・忘れず・感謝の内に生きているなら、申命記の言葉があなた方の信仰宣言に結びつき「愛」の行為へとより生かしていくでしょう・・・。そう、私には聴こえてきます。 そして、今私達の生きている現実という日々の歴史にも、神が介入して下さっています。それは、私達の感覚の枠を超えて(神を感じることが出来ない時にでも)、共に生き、真の命へと招いて下さっている事を、今一度味わい直すならば、神が与え下さった「隣人と自分」の命と存在を「愛する」事が出来るでしょう。イエスは、これが新約の「愛」という「掟」であり、現代という時の内にいる私達に、「私と共に生きよ」と、語りかけ、呼び招いて下さっているように思えます。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)




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