11月の福音のメッセージ

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死者の日 ヨハネ福音6章37〜40
「”いま”を生きるとは、永遠の世界に直結していること」

 今日11月2日は、「死者の日」です。亡くなった全てのキリスト者のために祈りを唱えます。この日にちなみ、「死が、いま、やってきたら」というテーマでお話しましょう。
 「いまやらねば いつできる わしがやらねば だれがやる」。これは、彫刻家平櫛田中氏の言葉で、岡山県井原市の美術館に掲げてあるそうです。この言葉を聞いたとき、私は4世紀に活躍したアウグスティヌスの言葉ではないかと思いました。 乱脈な生活におぼれていたアウグスティヌスは、たびたび、心のなかに回心への招きを感じていました。そして、その度に「はい、そうします」そして「今日ではなく、明日から」と答え、ずるずると30年間を過ごしました。でも、ある時ついに彼は「今日」を選び取りました。そして、その瞬間に彼は世界史に名をとどめる宗教家、思想家、文学者としての道を歩み始めました。「明日になれば」の内には何も始まりません。平櫛氏も「わしが、いまやらねば」の信念の故に、数々の傑作を生み出したのでしょう。
 私たちの生活は、現実には「いま」という時のなかにしかありません。その「いま」は刻々と過ぎ去っていきます。その過ぎ去った過去に捉われたり、まだ手元に現実となっていない未来に捉われたりすることがいかに多いことかは、私たちはいつも経験しています。過去の出来事に、私たちはさまざまな心情を持ちます。どうしてあんなことをしでかしたか、何故、あの人は私の善意がわからないのか、あの時こうすれば良かったと後悔し、責めを感じ、憤慨します。未来についても同様です。そして、始末の悪いことに、これは繰り返し頭の中に浮かび、次第に勢いを増していきます。そして、際限なく繰り返されます。こうして私たちは過去と未来に引き裂かれ、うわの空で「いま」を生きることになります。「昨日」は神の慈悲にゆだね、「明日」は神の摂理に任せて、「今日」を生きるのが私たちの務めです。
 聖アロイジオ・デ・ゴンザガは23歳で亡くなった聖人です。彼にまつわるこんな話があります。『ある時神学生たち五〜六人が休息の時間を過ごしていました。なかの一人が、「あと一時間で神に召されると分かったら、みんなはどうしますか」と尋ねました。答えは様々です。「聖堂に駆け込んでお祈りをする」「告白して、罪のゆるしをいただく」「家族や恩人に別れの手紙を書く」などなど・・。しかし、アロイジオはこう答えました。「一時間後に死を迎えると分かっても、わたしはこのまま皆さんとこのように話し続けます。いまは休息のときですから」と。』 アロイジオも「いま」を生きるよう心がけた人でした。
 西ヨーロッパ修道院の伝統では、nunc coepi つまり「いま、また新たに始める」が、繰り返し若い世代に教えられました。人は迷い、踏み外すものだ。また新たに歩みだす、その心が肝心だという意味でしょう。また、Hic et Nunc 「ここで、いま」も同様に強調されました。聖アロイジオは、行うとき、事に当たる際に、心のなかで次のように自問したといわれます。 Quid prodest hoc ad aeternitatem つまり「このことは、永遠の命にとって、役にたつものであるか」と。
 「いま」を生きるとは、永遠の世界に直結していることだと、私は学びました。私の洗礼名は、このアロイジオ(スペイン語ではルイスと表記します)です。この聖アロイジオの生き方は、いつも私にとって指針となりました。それぞれの「いま」というときは、神の永遠に直結するというのが私の信念であり、また聖書のメッセージです。(ルイス・カンガス神父)
 このメッセージに関連し、「
祈りの場」でコヘレトの言葉を載せてあります。ご覧下さい。(編集部より)



ラテラン教会の献堂 ヨハネ福音2章13〜22
「イエス様御自身こそ神殿である」

 「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒されながら言われたイエス様の言葉です。たぶん福音書の中で他に見られないほどのイエス様の熱く力のこもった言葉だと思います。なぜイエス様はこれほどまでして神殿を清めようとなさったのでしょうか。そこにはイエス様の真の神殿、真の神の家のあるべき姿が示されています。
 神殿は人間の欲望が集められる場所ではありません。神様に賛美と感謝を捧げる場所です。皆が心を一つにして祈る場所です。一人ひとりが神様に心を開き、神様からの呼びかけに耳を傾ける場所です。しかし時代の流れとともにいつのまにか人間の欲望の住まいと化した場所になってしまっていたのかもしれません。人々は自分の祈りが聞き入れられるように動物をいけにえとして捧げていました。しかし神様はそのようないけにえと引き換えに祈りを聞き入れる方でしょうか。捧げた額の多さでよしあしを決められる方でしょうか。
 イエス様はご自分を屠られた子羊として捧げられ、もうこれからは屠られたいけにえを捧げる必要がないこと、いけにえの儀式は必要ではないことをお示しになります。同時に神殿とは神がそこに住み、人が神と出会う場であるとし、イエス様御自身こそその意味での神殿であることを示されます。神殿そして教会のよしあしはその建築のすばらしさにあるのではありません。人々がイエス様と出会い、イエス様に心を開き、イエス様との心の交流が実現していること、そしてそこに集う人々の間での心の一致が実現していることこそが大切です。私たちが集う教会の姿はどうでしょうか。そこにイエス様との心の交流が実現しているでしょうか。あらためて問い直してみたいです。 (田丸 篤神父)




年間第33主日 マタイ福音25章14〜30
「与えられたタラントンを実らせる心」

 「神を信じる人は弱虫だ。努力することなく、ただことを神に任せるばかりだ」。これはよく聞こえる文句です。そのような時、丁寧にきょうの福音書を読むように不平者に勧めましょう。面白くて、分かりやすいたとえ話です。たとえの主人は神を意味し、僕は私たちです。
 主人は、自分が不在にしている間、僕たちが商売ができるように、ある僕には銀の125キロ(5タラントン)を渡し、もう一人は50キロ、三人目は25キロを与えました。僕たちの能力が分かっている主人は、それぞれに合わせて分け与えます。莫大な金額を任せられた三人は能力を働かせることができ、ご主人に対して満足な結果をもたらすはずでしたが…
 しかし、銀25キロをもらった僕は満足しません。それどころか、差別のひどい侮辱を主人に掛けられたと思い、受けた一タラントンを投資しないことに決めました。どうしてこのようになったのでしょうか。
 きょうのたとえの「怠け者の僕」は、プライドの高い人です。実は彼は、大規模の商売に向いていないのですが、自分の限界を認めたくありません。僕の能力に金額を合わせてくださった主人に感謝しなければならないのですが、かえって、自分の失敗をことごとく「厳しい主人」の責任だと恨んでいます。結局のところ、旅から帰った主人は、全力を尽くしてお金を実らせた二人には賞を与えましたが、怠け者でプライドの高い悪い僕は厳しく罰せられました。
 きょうのたとえは、地上にいる人間の有様をぴったりと物語っています。神に造られ支えられている彼らは、神の僕たちです。その使命は、与えられたタラントンを、神を賛美し、敬い、使えるために実らせることです。確かに、僕たちが結ぶ実は、彼らがいただいた能力に応じて異なりますが、タラントンを実らせたいことでは、忠実な僕の態度は一致します。しかし、能力を無駄にして、実らせない僕もいます。どうしてそうなるでしょうか。劣等感に沈み、神から受けたタラントンを認めようとしない人がいますし、不正に神に扱われたと言い、神に深い恨みを感じる人もいます。もしかすると、劣等感も恨みも、妙なプライドの心から生まれるかもしれません。きょうの福音書を機会に、劣等感と怠惰に負けず、与えられたタラントンを実らせる心を希いましょう。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


王であるキリスト マタイ福音25章31〜46
「王であるキリストは、上からの君臨ではなく、私達の内に共に生きてくださっている方」

 年間最後の主日「王であるキリスト」。今日の福音書は、神は何を基準として私たちの一生をはかり、何が神の前で価値あるものなのでしょうか?世の終わりの時にくる「裁きの基準」が問われています。
 イエスは「私が○○の時、あなたは○○をしてくれた。」と語り、正しい人たちは「主よ、いつ私たちは、あなたに○○したでしょうか。」と応えます。神の基準は、人としての真心と関連しているようです。「飢えには食べさせ・渇きには飲ませ・人を見舞い慰める・・・」。あなたは人として、目の前の「命」と、どう向き合ったのですか?業績や貢献の大きさでは測りきれない、心の姿勢が問われています。 人間の目には、目立たない小さな行動やありきたりの事であっても、その奥にある「人としての真心=愛からの行為」だからこそ、神の目には尊いのです。ここに神の基準があるようですね。日々の生活の中で出会う様々な「命」に、人として誠実に向き合おうとする時、そこにはイエスが語られた「なすべき事を、したにすぎない僕」の謙虚で素朴な姿勢があるでしょう。だからこそ「いつ、あなたに〜したでしょうか・・?」と、意識しない「命」を生かし合う関わりが出来るのではないでしょうか。
 私たちの「王であるキリスト」は、上からの君臨ではなく、私達の内に共に生きてくださっている方です。そして、聖書を通して、このイエスに従いとする私たち(弟子たち)に向けて、「今日」語ってくださっているのです。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)




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