5月の福音のメッセージ

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主の昇天 マタイ福音28章16〜20
  「イエスの遺言−活動と祈り−」

 今日のご昇天の祭日は、キリストが地上で活動した最後の日です。今まで、キリストは、神の国を広めるために全力を尽くしてきました。今日、弟子たちにバトンを渡し、そして、遺言を与えます。この遺言は二本の柱に基づいています。
 第一の柱は、『全力を尽くして種を蒔くように』ということです。すなわち、弟子たちが夢中になって天を仰いでいると、そこへ天使が現れて弟子たちを叱りました。「ボーッとしていないで、エルサレムに戻って活躍しなさい。キリストが言ったように全世界を歩き回ってください。そして、すべての国の人々に、イエスのメッセージを授けてください。」
 キリストの遺言の第二の柱は、『祈りと精神的な事柄を重んじるように』ということです。
福音を広めるためには神様の恵みも必要です。イエスは言っていました。「私はいつもあなたがたと共にいます。福音を広めるために、私にとどまってください。木から離れた枝は実を結びことができません。しかし、木とつながっていたら、たくさんの実を結びます。あなたがたは枝であり、私は木です。」
 この二本の柱は、すなわちマルタ的な活動とマリア的な態度です。この活動と態度こそが、今日のご昇天のメッセージです。キリストからバトンを受け継いでいる私たちは、100パーセント活動しながら、100パーセント神と一致しなければならないでしょう。
 今まで歩んできた道を振り返ってみますと、教会はある時には精神的な事柄を強調して、人間的な努力を怠ってきました。また、他の時には反対に、活動しすぎて、精神的な祈りと神との一致を怠っていました。現在は、どちらかと言えば、祈りと霊的な事柄を軽んじているのではないでしょうか。今日のご昇天の祭日に、あらためてイエスの遺言を大切にするように努めましょう。 (ルイス・カンガス神父)



聖霊降臨の主日 ヨハネ福音20章19〜23
  「毎日が聖霊降臨であるように」

 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。弟子たちの心は喪失感と挫折感、そして悲しみで一杯だったと思います。そんな弟子たちの真ん中に復活されたイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と二度にわたって仰せになります。普通であれば恐れをなして逃げ去ってしまったことを責められても仕方がない状況なのに、イエス様は弟子たちを責めることなく、逆に今も変わらない愛とあたたかさで包まれます。そしてこれからは弟子であるあなたがたが私の使命を引き継ぐことになるという意味で聖霊をそそがれます。 彼らは聖霊を受けることで神の愛に生きる者に変わっていきます。そしてイエス様が歩まれたのと同じ道を歩むようになっていきます。
 聖霊は人を愛であたため、励ましと導きを与えます。聖霊の役割は、神に逆らう働きが現実に起きているところに働きかけ、神の光で照らしていくことです。深い闇の中にあった弟子たちを光の世界に導いたのも聖霊であり、その同じ聖霊が現代を生きる私たちにも働きかけています。大切なことはいかに私たちがその聖霊の導きに気づき、それを感じ取っていくことができるかでしょう。自分の中に聖霊が働きかけてくださっていることを体験していくことです。困難や損に思える生き方の中に喜びを見出していくような体験の中に聖霊の導きを見出すことができます。損が損ではなかった、やはりこれでよかったのだと心から思える出来事の中に、人を真のいのちに導く聖霊の働きがあります。聖霊降臨を何か特別な日の出来事ととるのではなく、私たちにとって毎日が聖霊降臨なのだと思うことができるなら幸いです。私たちが日々聖霊に満たされて行動することができますように、また聖霊の導きを識別し、聖霊の呼びかけに心から応えて生活できますように祈りたいです。 (田丸 篤神父)


三位一体の主日 ヨハネ福音3章16〜18
  「神の家族「三位一体」は、あらゆる家族の模範」

 きょうの福音書は非常に短く、神によって世に遣わされたイエス・キリストの使命を中心にする福音書です。ところが、教会がきょう祝っているのは、イエスがこの世で果たした使命ではなく、三位一体である神をほめたたえる祭日です。この祝いの礼拝において福音書が果たしている役割についてコメントいたしましょう。
 まず、三位一体の祭日にふれましょう。ユダヤ教とイスラム教と同様に、キリスト教も八百万の神々の宗教ではなく、唯一の神を宣言する宗教です。ただし ―これはキリスト教の特徴ですが― 唯一(一体)の神のうちにおいて三人(三位)の方の家族が存在し、すなわち親(御父)、子(御独り子イエス)と親子の愛(聖霊)がおられることをキリスト教は教えています。そのような神の家族「三位一体」は、あらゆる家族の模範です。
 きょうの第2の朗読は、パウロの2コリントの最後の挨拶を抜粋し、三位一体への呼びかけと願いである言葉「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように」という言葉を含めています。現代、司祭はミサの最初に信者たちに向かって、あらためてそのように挨拶します。
 他の2つの朗読は、直接三位一体にはふれません。第1の朗読は出エジプトを引用し、(旧約聖書の神)ヤーウェとシナイ山に呼び寄せられたモーセとの出会いを物語っています。イエスがいつもヤーウェを「父」と呼ばれたのですから(ヨハネ5.18、8.53)、第1の朗読は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみ過ぎる」と言い、ヤーウェ、すなわち、三位一体の第1の方御父をほめたたえています。モーセとの出会いに際し、ヤーウェは不忠実なイスラエルの民と新たに契約を結んでおられます。
 福音書は、御父によって世に遣わされた、三位一体の第2の方、御子についての内容です。御父は、御独り子をお与えになるほどに、私たちを愛しておられます。弱くて罪びとに過ぎない私たちです。 とは言え、イエスがこの世に送られたのは私たちを裁き、罪に断罪するためではありません。それどころか、私たちを赦し、励まし、永遠の命を与えるために、三位一体の第2の方は世に来られたのです。自分の惨めさを認め、謙遜にイエスから赦しを受けようとしてイエスを信じるならば、私は神の子供となり、すでに救われている者となります。ただし、高慢で自己中心で、イエスを認めず、イエスの赦しを受け入れたくない人がいるならば、その人は御父もイエスも愛せず、三位一体に愛されることを断る人ですから、心を改めなければ、愛である神から永遠に離れてしまうでしょう。  (J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


キリストの聖体 ヨハネ福音6章51〜58
  「ご聖体を頂くことは、イエスの愛を味わい、恵みを味わい生きること」

 キリストの聖体の主日。今日の福音は、私たちの「いのち」を育てるものが、イエスの肉であり血であると語り、それが私たちを内から生かす「永遠の命」。だからこそ「食べなさい。」と、常識ではとても考えられない言葉として語られています。
 では、「イエスを食べる」とは、どのような事を示すのでしょうか。この「食べる」という動詞は、今日の福音の中で8回も繰り返されています。言い換えれば、イエスを食べる事が、私たちの命を内側から生かす「真の食べ物=永遠の命」である事の強調であり、招きだとも言えるでしょう。この「食べる」という言葉をギリシャ語原文から見ると、イエスの受難と死を暗示していると共に、よく噛んで食べるという意味があるのだそうです。
 イエスを「食べる」という事は、私たちが日々の中で遭遇し味わわされる苦しさや悔しさ、どうにもならない程の大きな困難を、イエスの受難と死と共に自分の過ぎ越し=毎日のパスカとして受けながら、何度でもイエスと共に生きるという事でしょう。また、その出来事の奥にある意味を、神様の目から眺めるようによく噛んで味わって生きるという事でしょう。 ご聖体となってくださった「イエスを食べる」度に、そのイエスの生き方に招かれ「ハイ」という自分の信仰宣言への証しであり、私たちの内から生かそうとしてくださっているイエスからの愛によって頂き受けられる「ハイ」でもあるのです。
 ご聖体を頂くという事は、イエスの愛を味わい、日々の過ぎ越しの内にある恵みを味わい生きる事に通じていると、私は思っています。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


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