3月の福音のメッセージ

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四旬節第4主日 ヨハネ福音9章1〜41
  「心の目。それは信仰。」

 私たちは、二つの目を持っています。一つは、体の目。つまり目眼です。もう一つは、「心の目」です。体の目は、とても素晴らしいです。私は、日本に来る前に、スペインの神学院の側にある盲人の学校に定期的に行っていました。彼らは、生まれた時から目の見えない人、また、途中で目が見えなくなってしまった人、様々です。生まれつき目の見えない人は、自分を生んでくれた母の顔を、透きとおった青空を、きれいに咲いている花を一度も見ていません。しかし、途中で視力を失った人も、非常に大変です。でも、素晴らしい宝物を失う人は、その価値を知っていると思いました。その宝物を失うと、とても寂しいです。私たちは、目眼で素晴らしいものを毎日見ています。これは本当にありがたいことです。全ての感覚の中で、耳より口より、何より優れているのは目です。この優れている目を通して、私たちはもう一つの目「心の目」でもっと深い「何か」を見るように。そして、この「心の目」こそが「信仰」なのです。
 アブラハムは、美しい中近東の空の星や太陽を毎日拝んでいました。でも、ある日、アブラハムは、悟りを開きました。体の目で見える星の彼方に、実際には見えない、もっと素晴らしい光があることに気がつきました。そして、温かい心を持っている絶対者、光を持っている絶対者に出会いました。目で見える星を通して、目に見えない絶対者に出会ったアブラハムのように、私たちも目に見える生活を通して、その向こうの目に見えないもっと深いところまで見るように。 ある日トマは、イエスに「御父を見せてください」と言いました。イエスは、「私を見る人は、父を見ているのではないですか」と言いました。イエス様を見て、イエス様を通して、絶対者である神様はどんな方かわかるような目を持ちたいです。目眼で見る光を通して、彼方が見える目、心の目が開かれますように。
 「清い心」を持っている人は、神を見ると言われます。今日の福音に出てくるファリサイ人は、清い心を持っていませんでした。ケチをつけたり、良くないところを見たりして、表面的なものしか見ていません。心の清い人は、もっとその奥に見える(かなたにある)ものを悟り、神様を感じます。今日の第1番目の朗読(サムエル上16・1〜13)の中で、預言者サムエルは、エッサイの子の中から、次の王を選ぶ事になりました。サムエルは、容姿がよく美しいエリアブに目を留めましたが、神様は、サムエルに言いました。「外面的な容姿ではなくて、心を見て下さい」と。人間の価値は、体ではなくて、その心です。私たちには、彼方のものを見る精神的な視力が大切です。霊的な目は、自分自身の顔を見るのではなく、外にあるものを見るためにあります。私たちの霊的な目で、自分の小さい失敗とか小さい罪とかを見て拘るより、もっと外を見ることです。それが大切です。 この世界には困っている人々が一杯います。四旬節の間、飢えている子どもたちや病に倒れている人々を、具体的に自分の目で見なくても、そこまで見えるように、この方たちに温かい手を延ばす心の目を持つように。 (ルイス・カンガス神父)



四旬節第5主日 ヨハネ福音11章1〜45
  「死ぬことによって真に生きる」

 イエス様はマルタとマリアの兄弟であるラザロを死からいのちへと呼び戻されます。これは単に死んでいた者がもう一度息を吹き返したという出来事以上に、救い主キリストの使命、すなわち人間を死に縛られた状態から真のいのちへ移していく、過越していく使命を描いています。父である神は私たちを真のいのちへと招いておられます。そしてその業を行うために神の子イエス様をこの世にお遣わしになりました。イエス様は御父の意向に従い真のいのちへの道を示し、御自分につながる必要を説かれました。イエス様の言葉に聞き従いそれを生きること、それを通して縛られた死の状態から真のいのちを生きる救いの状態へと過越されます。イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われます。私たちは何を信じているのでしょうか。それをもう一度振り返ってみる必要があります。自分に語りかけてくださっている方が誰であるか、そしてその方が示してくださる死からいのちへ移ることの意味、そして復活の意味について。イエス様は別の場面で、死ぬことによって真に生きるということについて話されたことがあります。死ぬことによっていのちを得ること。同時に復活もずっと後のことではなく、今この瞬間でも復活のいのちを生きることはできるということです。信じて生きる生き方をするなら、私たちの中にいのちが芽生えます。肉体は生きていても様々な事柄で心が死んでいることがあります。イエス様は私たちを束縛から解き放ち、躍動に満ちたいのちの生き方へ呼び戻すためにこの世に来られました。私たちも素直な心でもう一度心を向け直してみたい、聞き直してみたいです。イエス様が語られるいのちの言葉を。 (田丸篤神父)


受難の主日(枝の主日)マタイ福音21章1〜11
  「イエスのエルサレム入城から聖週間の意味を考える」

 きょうから聖週間に入るカトリック教会は、イエスの受難と死去、またその結びとなるイエスの復活を記念します。きょうからの8日間は、キリスト教の最も荘厳で意義深い一週間です。  「枝の主日」とも言われる今日のミサには、マタイ福音書からとった二つの朗読があります。一つは、イエスのエルサレム入城の物語。もう一つは、マタイによるご受難の朗読です。スペースの限られたこのホームページでは、福音著者四人とも取り上げているイエスの入城の凱旋行列についてコメントを載せましょう。  遠いガリラヤから歩いて来たイエスは、エルサレムに近づくと、凱旋行列を作って都に入ることにしました。とは言え、立派な馬に乗った凱旋将軍の姿ではなく、数百年前にゼカリア預言者が予告した貧しいメシア、ロバに乗った柔和なメシアの姿で入場したいのです。その予言を実現したかったイエスは、ベタニアに着いた時、ロバを借りる二人の弟子を村に送ります。マタイのほか、この内容にふれるマルコ、ルカとヨハネは一匹のロバについて話しますが、ゼカリア書のギリシア語約を基にするマタイは、女ロバと子ロバ二匹を登場させます。ルカとマルコにおいては、イエスに癒される一人の盲人か一人の悪魔つきが、マタイ福音書の平行箇所を見れば二人となるので、このエピソードにもロバが二匹となるのは、それほど珍しくないでしょう。  やっと、弟子たちが待ち望んでいた「イエスの勝利の日」、先生がメシアとして公に姿を見せる日が訪れました。彼らはロバの上に服をかけて、イエスがそれに乗るようにします。そのほか、大勢の人は自分の服を道に置き、枝を切って道に敷きます。手にナツメヤシの枝を持っている人もいます。「ダビデの子、ホサンナ(万歳)」、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」、「いと高きところにホサンナ」と、118編の言葉で、メシアとしてイエスを認めている大衆の歓呼の声がますます上がってきます。凱旋行列が都に入城したとき大騒ぎとなり、大衆は、権力者によって今まで軽蔑されていたナザレのイエスに、歓声の声を上げています。  マタイのきょうの凱旋行列は、ほしければ、イエスが皆に自分を認めさせる力があることを明らかにさせます。しかし、これから主が歩むことになる道は「勝利の道」ではありません。かえって、奴隷しか受けない、十字架に釘つけられる恐ろしい死に方です。どうしてそうなったのでしょうか。それは、イエスの弟子である私たちは、これからの聖週間にわたって深めるべき、そして、考えなければならないことでしょう。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


復活の主日 ヨハネ福音20章1〜9
  「イエスの弟子として、自分の置かれた場で生きる」

 主のご復活おめでとうございます。 この喜びは、イエスの十字架と復活を通して、この私を救おうとされている神の愛と力に触れさせて頂く喜びであり、その体験を通して告げ知らせていく弟子として招かれているキリスト者の喜びでもあります。二千年前にイエスがナザレに生まれ、ガリラヤ全土で宣教をし、十字架上でエルサレムに死す。そして、聖書にあるとおり三日目に復活させられた、という出来事に基づいている復活信仰です。それは人間の創造によるものではなく、弟子たちが見て聞いて味わった体験によって受け継がれてきた信仰体験を私達は信じています。
 今日のヨハネ福音が語る復活記述から復活の証人とは?の意味を共に考えてみたいです。この箇所では、マグダラのマリア・ペトロ・愛された弟子としてヨハネの三人が登場しています。少し彼らの行動に留まりましょう。「マグダラのマリアは墓に行き石が取りのけられているのを見た。弟子たちに告げた。弟子たちは外に出て墓に行った。墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。彼らは見て信じた。二人はまだ聖書の言葉を理解していなかった。弟子たちは家に帰って行った。」 特に、注目したいのは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている聖書の言葉を、まだ理解していなかった」と「彼らは見て信じた」と言う行動です。信仰とは、頭の理解だけではなく、十字架と思える体験を通して真理を知ったり、救われた体験に至ったりした時、決定的な意味と力を持った信仰体験となるのでしょう。それは、自分から出て見に行き、見たことを告げ、自分の家=生活の場で生きるということでしょう。この三人は、私達と同じ人間的弱さも兼ね持った弟子でした。でも、救われ招かれた「イエスにもう一度会いたい。」これらの動詞を通して信仰宣言のようにも聴こえてきます。私たちもその復活のイエスに魅せられた弟子(キリスト者)として、自分の置かれた場で生きたいものです。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


復活節第2主日 ヨハネ福音20章19〜31
  「信仰とは、見ても見なくても信じなさい。見るよりも"聞くこと"に努めよ」

 ご復活おめでとう。四旬節の間、人それぞれの思いを神との出会いを通して"今こそ"と日々の回心に努力されたことでしょう。40日間の歩みをふり返るとき、回心とは、人の心の中にある価値観の全き転換、それによって生き方が神に従う道へ転換すること。しかし現実は、そう簡単ではないことを思い知らされた時でした。何故なら、人はいつの時代にあっても、他人と自分を比較することに奔走し、神との交わり、関係がどうであるのかを忘れてしまうからです。己の僅かな優れた点を他人と比較し、自己満足するのです。これでは、いつまで経っても偶像依存信仰に終始するしかないでしょう。
 今日の福音は、その真の価値観の原点、生き方を教えています。復活したキリストとの出会い、そして喜び。それは単に出会い、喜びだけで終わるのではなく、「あなたがたに平和があるように」と復活したイエスから暖かい言葉を受けるのです。その主との出会いは、さらに弟子たちを通して人々に心の安らぎをもたらし、喜びが湧きあがるのを知らせます。言い換えるならば、復活の主は、人々の心に宣教の力となる聖霊を贈っているのです。さらにトマスを通して「信仰とは、見ても見なくても信じなさい。見るよりも"聞くこと"に努めよ」と激励し、出会った弟子たち皆に新たな使命を授けたのです。これはイエスご自身が、御父から受けた同じものであり、福音を宣べ伝えることでした。つまり、他人と自分と言った比較ではなく、自分と神・神の愛の関係がどうであるのか、どうなっているのかを常に意識することが大切なのです。そうすることで自分の心が、喜びと安らぎに満たされると伝えています。この世の森羅万象に影響されない生き方、それはキリストに従うことです。それによって皆、永遠の命への道を歩み始めることが出来るからです。頑なにこだわり続ける自我から離脱し、神との交わりである真の信仰へと導かれる喜びに与りましょう。(松村信也神父)



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