6月の福音のメッセージ

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年間第9主日 マタイ福音7章21〜27
「主よ、主よと言うだけではなく、神のみ旨を行う人は救われる」

ぶどうの木(わたしにつなっがていなさい)  この世の中で、神を一番愛し、神に愛された人間は、ゆうまでもなくイエスの母聖マリアであった。何故、マリアは神にこんなに愛され、また、どのような訳でマリアは世界一の方だったのでしょうか。誰でも、すぐに"イエスの母、神の母だから"と答えるでしょう。しかし、本当のマリアの最後の誉れは、神の母であった以上に、マリアが無条件に神の思し召しを果たした事で、それが、マリアの最高の誉れでした。ある日イエスの素晴らしい教え、めずらしい奇跡を見た、あるお母さんは、感心して言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたの宿した胎。あなたがすった乳房は。」しかし、イエスは言われた「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11・27-28)。 結局、イエスによると、マリアは自分の母だったから、幸せだったが、しかし、これ以上、マリアが幸せだった理由は、イエスの母になることを望んでおられた神に、「はい」と答えて、天使に言われた「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)つまり、Fiat 無条件に神の思し召しを果たしたから、幸せであり立派であったのです。
 さて、生まれたイエスの使命を告げて謳った天使達は、羊飼い達に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2・14)と。イエスは、神の御心にかない、神の思し召しを果たす人々に平和と愛を与えます。
 イエスは、洗礼を受けられたときに父なる神が、何故イエスを愛してくださったか、理由を打ち明けて言われました。「これ(イエス)は、私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3・17)イエスは、いろいろな理由で父なる神に愛されました。しかし、最高の理由として、御父のみ心に適って、いつも父なる神の思し召しを果たされたから愛されていたのです。
 ご変容の時にも、また、父が、何故イエスを愛してくださるかの理由を、新たに話されました。「これは、私の愛する子。私の心に適うもの」そして、人間である私たちも神に愛される理由をイエスから学ぶように、「イエスに聞け」(マタイ17・5)と加えられました。
 父なる神の思し召しを行う事は、イエスには苦痛ではなく、ご馳走を食べる、楽しく嬉しい事だと言い表すように、「ラビ、食事をどうぞ」と食べ物を勧めた弟子達に言われました。「わたしにはあなたがたが知らない食べ物がある」(ヨハネ4・31−32)。すなわち、イエスが口で美味しい食べ物を食べる事より、神の思し召しを果たす事が、美味しく、好きでたのもしく、よろこばしいことだと弟子達に答えられたのです。
 しかし、神のみ旨を果たす事は、嬉しい事ばかりではありません。厳しくて、難しくて、守りがたいときもあります。ゲッセマネでイエスは、死ぬばかりに悲しいから、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いとおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)
 十字架に釘付けられていたイエスは、御父から与えられた全ての使命を、完全に果たした事を確信して、最後の言葉、ご自分の生涯のまとめとして言われた。「「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19・30) (ルイス・カンガス神父)



年間第10主日 マタイ福音9章9〜13
「神様の心は、第一に憐れみ」

 神様に近づくために、あるレベルに達していなければならないという考え方があるとしたら、これは神様の心を知っているようで知っていないと言えます。「わたしが望むのはあわれみであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい。」というイエス様の言葉をしっかりと受け止めたいです。
 神様の心は、やはり第一に憐れみなのです。人間を真に解放したい。罪と悪の束縛から解き放ちたい。神様ご自身、人間の痛ましい姿を見て心を痛めておられるというのが、神様の本当のお姿なのではないでしょうか。そして、そのためにこそ、神の子であるイエス様は私たちの闇の中に降りて来てくださったのです。その神様がただ私たちに望んでおられることがあるとしたら、それはその神様の憐れみに満ちた心を思い、私たちも同じように憐れみに満ちた人間になるということです。そのような生き方を毎日の生活の中でどう実践していくかだと思います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」救いを必要としている人に手を差し伸べるために来られた救い主・キリストであること。そして私たち人間側に求められていることは、自分もそのような者、救いを必要としている弱き罪人の一人だと素直に認めることです。神が憐れみの神であることを宣言されるイエス様。イエス様は、神の憐れみを示すために私たちのもとに来られました。そしてそのために罪人の病をその身に負ってくださり、十字架を引き受けてくださったのです。
 イエス様は人間の汚れに近づかれます。ファリサイ派は近づかず遠くから断罪します。私たちの中にある悪や罪は、断罪されるべきものとしてではなく、いやされるべきもの、光に照らされ変えられていくものとして受け止める必要があります。イエス様はそれをご自分の姿と働きで示してくださったのです。徴税人であったマタイがイエス様の呼びかけに素直に従い立ち上がったように、私たちもイエス様の真の姿に目を向け、心から従っていく弟子になりたいと思います。(田丸篤神父)


年間第11主日 マタイ福音9章36〜10章8
「イエスのメッセージを宣べ伝え続けよう」

 「イエスは群衆の惨めな状態を見て憐れに思われた」と、きょうの福音書に書いてあります。確かに当時の平民の生活は貧しくて、彼らはあらゆる病気と権力者の圧迫に悩んでいましたが、イエスが特に同情されたのは、「飼い主のいない羊のように」弱く、打ちひしがれていたということです。人々のこうした惨めな状態が変わる希望もなく、助ける指導者も全くいませんでした。
 現社会についてどうでしょうか? イエスの当時に比べれば、国民の生活レベルは著しく改良され、私たちみな、それ相当に金持ちとなったとも言えるでしょう。 しかし、実は、「飼い主のいない羊のような」惨めな状態は今でも続いています。 私は、7年間、山口で結婚セミナーに関わってきました。その間に、山口サビエル記念聖堂で式を挙げたいと希望した若者に「あなたが死んだ後、どうなるかな?」と聞いたところ、圧倒的に「何らかの形で生き残るか、無になるか全く分かりません」と答えてくれました。彼らは、生まれてから死ぬ瞬間まで存在し続ける「自我」がどこから来るか理解していなかった。また、「永遠の幸せが可能であるならば、それを手に入れる道を全く知らない」とも話しました。自分の過去と未来を知らない状態、未来に向かってやるべきことが分からないという状態は、とっても惨めなことではないでしょうか。
 福音の良い便り、いわばイエスのメッセージのみ、人生の謎を解いてくれるものです。私たちは愛をもって造ってくださった神から来ます。世を出た後、神の元に帰って「永遠の命」に入ります。世にいる限り、父である神への愛の心を育て、永遠の命への準備をします。これはイエスのメッセージの良い便りです。
 きょうの福音書のイエスは、このメッセージを宣べ伝え続ける多くの働き手を送ってくださるようにと、天の父に願うことを勧められます。それだけではなく、先立って私たちのために布教の道を開く12名の使徒を派遣します。宣教範囲を決めるのは、当時も今もイエスだけです。パウロとザビエルのように国々を巡り歩いて宣教するか、住んでいる地方、働いている場所でイエスの証しをたてるか、また自分の家庭の中で希望と喜びを与えるイエスのメッセージを宣教するか、それぞれの召し出に従って決められるでしょうが、自分なりに布教するのはイエスの弟子の生きがいです。
 「天の国が近づいた」と知らせる宣教者は、イエスのメッセージとともに新しい時代が始まり、それは天国がこの世に移される時代だと宣言します。きょうイエスの派遣の言葉を聞いた私たちは、その時代が早められますように願いましょう。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第12主日 マタイ福音10章26〜33
「神との深いつながりなしには生きられない」

 今日の福音には色々な教えが入っていて、一見つかみにくいように感じられるかもしれませんが、ここでは「神への信頼」を再度呼びかけられている箇所です。それは、「恐れるな」という言葉を通して、何度も繰り返されているイエスからの呼びかけなのです。では、何に対してでしょうか? まずは、「真理」に対してです。「覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。」神の言葉は、人が耳をふさごうとも・目をつぶって見まいとしても、真理は覆い隠せません。たとえ人間的な力でねじ伏せたようでも、それは一時的な見方に過ぎません。永遠の目で見れば「真理」は常に不動なのです。だからこそ、恐れずに希望をここにおいて、目の前の現実に向き合いなさい!とイエスは支えます。次に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」永遠の命に生きるには、神との深いつながりなしには生きられません。だからこそ、人に左右されるのではなく、あなたを根底から生かしている方を信じて誠実に生きなさい!とイエスは励まします。また、イエスは「神の摂理」を教えます。空を飛ぶ雀さえ、御父の慈しみ深い御手の中にある。ましてや、人の存在はそれ以上であり、御父の計り知れない大きな力に包まれ、守られ、愛されているのです。だからこそ、勇気を持ってその愛に応えなさい!と導きます。 いつの時代にも「迫害」はあり、この現代社会の中でも「迫害」と「殉教」があるでしょう。常に神は生きておられる神。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


聖ペトロ・聖パウロ使徒 マタイ福音16章13〜19
「神様の呼びかけに心から素直に応える」

 一見、順風満帆の現代社会、ところが毎日のように報道される新聞・テレビの出来事は、地獄さながらと思える犯罪記事のオンパレードです。その原因を辿ってみるとき、愛の欠如、家庭の崩壊、情報過多による真理の昏迷などが挙げられるのではないでしょうか。"道、真理、命"に飢え渇く現代社会に今日の福音は明言します。
「イエス様が誰であるか」という出来事が、当時、異教の地として知れ渡っていたフリッポ・カイサリアで起こりました。その頃人々は、イエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者」「エリヤ」「エレミヤ」だと言っています。ところが弟子であったシモン・ペトロは、イエス様に対して「生ける神の子」と告白します。このシモン・ペトロの告白は、彼のイエス様に対する十分な理解を示す言葉ではなく、神からの呼びかけに対する人間の実直な応えであると聖書学者は言います。そしてイエス様は、シモン・ペトロに向かって「あなたは幸いだ」と言って祝福を与え、さらにシモンに「あなたはペトロ、この岩の上にわたしの教会を建てる」と約束します。つまり、神様の呼びかけに対して誰であっても、心から素直に応えたものを礎として「わたしの教会・イエスの教会」が建てられるのです。勿論、教会とは建物を指しているのではありません。「神のみ言葉を聞くために集まった民」のことです。神様は、ご自身からの呼びかけに対して誠実に応えようとしたものに、神様の使命と権能がイエス様をとおして授けられるのです。そこでイエス様は、ペトロに「天の国の鍵」を授けました。その鍵は、すべての人々に天の国の門を開く「鍵」なのです。
今日もイエス様は御自身が、すべての人々を救いに導く"生ける神の子・メシア"であることを宣言しています。あなたはイエス様の呼びかける声が聞こえていますか。 (松村 信也神父)



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