7月の福音のメッセージ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。



年間第14主日 マタイ福音11章25〜30
「イエスは、苦しみを一緒に背負ってくださいます」

 夏休み前のこの時期に、この福音の箇所はぴったり合っています。
 現代の日本では、”過労死”という言葉はめずらしくありません。そして、このような死は、日本独特のものともいえます。毎年、数千人の日本人が仕事に追われて亡くなっています。毎日、朝早くから夜遅くまで仕事をし続ける人が多く、仕事場までの遠い道のりの通勤電車も立ったまま、その上、休日出勤もあります。そのような過酷な現実がストレスを招き、限界を感じ自殺する人が増えています。
 今日、イエス様は、大きい声で言われています。『疲れている皆さん、私のところへ来てください。休ませてあげましょう。』と。
 しかし、きちんと休むために、イエス様の柔和・謙遜に倣いましょう。つまり、質素を心がけ、やりすぎを避け、背伸びをしないように。背伸びをすると、どこかで躓きます。 イエス様は、神でありながら、馬小屋で生まれました。また、今日のミサの第1朗読では、ゼカリヤがロバのことを書いています。メシアは立派な馬ではなく、目立たないロバに乗って来られるのです。
 『わたしの軛は負いやすい』。イエスの時代の農家では、一つの軛に縛られた二頭の牛が、一緒に一つの仕事をしました。私たちもイエス様と共に二人一緒に重荷を背負っていきましょう。イエス様は、苦しい問題を解決することはしません。しかし、苦しみを一緒に背負ってくださるので、苦しみはなくならなくても、軽くなります。
 現代の多くの人は、富や名声などに限界を感じ、もっと深いことに憧れています。信仰と、神との交わりは、大きな平和と深い安らぎを与えてくれます。 (ルイス・カンガス神父)



年間第15主日 マタイ福音13章1〜23
「み言葉を聞き、実を結ぶ生き方を実践していく」

 この福音の箇所は、イエス様がなさった種を蒔く人のたとえ話です。そしてイエス様の思いは、神の言葉であるご自分の言葉をしっかりと受け止め、それを生きる実を結ぶよい土地に私たちがなっていくことでしょう。
 イエス様が望まれるよい土地の姿とはどのようなものでしょう。私は、最近ある有名なお寺を訪れる機会があり、落ち着きと静けさ、自然との調和が実現している日本ならではお寺のすばらしさを感じたことがあります。そして、そこを訪れる人は、その雰囲気に浸り、心を静め、心と身体を整える大切さ、そして祈り生きる大事さを覚えるのだと思いました。イエス様が、神の子として御父からこの世に遣わされたのは二つの意味があります。一つは、傷つき倒れ力を失っている私たちを力づけ、励ますことで神の私たちへの思いを示すため。もう一つは、私たちに御父へ向かい、御父につながる道を示すためです。私たちを力づけ、私たちが御父に向かって歩み生きる中にこそ私たちの救いがあることを示されたのがイエス様です。そしてそのことを私たちが心と体に刻み、実際に生きることをどれほど願われたことでしょう。その思いは今も変わらずイエス様の思いです。私たちは、もしかしたらただ自分の願いが満たされることだけのために教会にミサに足を運んでいるかもしれません。イエス様は、そのような私たちの小ささを、憐れみの心で見守っておられるでしょう。しかし、同時に、私たちがしっかりと歩むことも心から願っておられるにちがいありません。私たちがみ言葉を聞くだけで終わらず、生き方につなげていくこと。実を結ぶ生き方を実践していくこと。それが、実を実らせるよい土地になることであり、イエス様の心に適う私たちのあり方なのです。どうかイエス様の今も変わらぬ思いに少しでも応え、真の喜びを実感する生き方を自分のものにしていくことができますように。 (田丸 篤神父)


年間第16主日 マタイ福音13章24〜43
「毒麦から麦になるように、神から離れた人のために祈る」

 マタイ福音書の一つの特徴は、イエスの多くの言葉を記録することです。「ロギオン」と言うイエスの短い話は、マタイ福音書全体に散らばっていますが、その上、長い説教も五つあります。これからコメントする箇所は、教会の秘儀を取り上げる第3の説教の一部です。一つのトピックに限って少し話しましょう。
 教会は、地上からスタートする「天の国」です。イエスの話において教会は、み言葉の種が蒔かれた畑にたとえられます。古代からその畑で多くの聖人と聖女の刈り入れが収められ、現代も、神と人間同士を愛している信者、立派な信者の収穫があります。しかし、その畑の現状を見ると、教会に毒麦がないとは言えないと思います。残念ながら、教会の歴史にも、現在の教会にも、悪魔が蒔いている毒麦が多く、その結果の罪とつまずきがはびこっていることは、目の当たりの事実です。いったい、こうした悲しい状態をそのままに置いてもいいのでしょうか?
 教会の歴史を見ると、教会が、回心せずに教会の掟を無視した罪人と異端者を破門し、毒麦として神の畑から抜き出したことがたびたびあります。特に、その人が周りの信者にとって信仰のつまずきとなると判断されたとき、破門するほかには道がなかったのでしょう。しかし、現在の教会は滅多に信者を破門しません。文字通りにきょうの福音書の指導を受け入れ、世の最後の日の刈り入れが行われるときまで、麦と毒麦を育つままに置くことにしています。
 現代の教会のやり方は優しすぎるのではないでしょうか? 確かに、控えめな態度をとっている教会に重みのある理由があります。まず、教会の畑の麦と毒麦は人間の心に密接に絡み合っています。その心を見抜くことができない私たちには、誰が麦で、誰が毒麦かを決めるのは、中々難しいことです。人間の心を読み取られる神でなければ、その判別は不可能です。それだけではなく、今まで毒麦のように見えた信者が深く罪を悔い改め、立派な麦となったケースは毎日の出来事のようにあります。イエズス会の創立者イグナチオはその一人です。
 世の最後の日まで教会において麦と毒麦がともに育っていくのは、私たち皆にとってありがたいことです。毒麦から麦になるように、神から離れた人のために祈るなどして、彼らを助けることができます。また、毒麦の心から生まれるいやな思いの体験がときおりあるでしょうが、純粋な麦の心を育てて忍耐強くその苦しみを耐え忍ぶことができるならば、必ず天国の倉に、イエスに最も近い場所が与えられます。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第17主日 マタイ福音13章44〜52
「神のみ心に出会うことは、天の国への道」

 今日の福音書は、「天の国」の譬えが三話並べられています。まず、畑の宝を見つけた人と高価な真珠を見つけた人の譬えには、「求めている」「隠されている」「見つけ・喜び・全てを捨てる」という共通点があり、神のみ心を示唆している内容です。
 畑の宝の譬えでは、生活の中で神と出会うという呼びかけです。私は、畑の宝は偶然に見つかったのではなく、毎日の仕事をしている間に見つかったのだと読み取ります。この農夫は、日々コツコツと自分のつとめを行なっていたのでしょう。宝を見つけたのは、土の表面だけでなく、足元を深く掘っていたからでしょう。自分の信仰生活という畑の耕しも同じではないでしょうか。真摯な態度は、生き方においても信仰生活においても言行一致をもたらすものです。そして、この人が宝を発見したように、ある時突然、自分に対する神のみ心は「これだ」という確信にひらめくことがあります。その時、人は持ち物を売り払う如くに、今までとは違った生き方(イエスへの従い)に転換させられていきます。
 高価な真珠の譬えでは、ずっと探していたものが見つかった喜びです。言い換えれば、生涯の探究によって出会った生き方です。この商人も前の農夫も見出した確信に疑わず、ためらわず、自分のものにしたいほど、この「出会いは価値がある!」と選び取ります。
 最後の譬えでは、イエスの身体=教会のあり方が示唆されています。現代世界という湖に投げ下ろされた網の中には、色々な魚(人間)がいて良いのです。教会が地上の神の国をもたらす働きをするのならば、排他的ではなく包括的なのですから。ましてや、裁きは人間の領域ではなく、神の領域なのですから。神のみ心に出会うということは、天の国への道でもあるのです。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



Topへ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。