2008年1月の福音のメッセージ

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主の公現 マタイ福音2章1〜12
  「全ての人の中に神の恵みは働いている」

 今日の福音では、三人の学者はメシアの誕生の時と場所をはっきりと知らないままベツレヘムの星に力を授けられ、その光に照らされて長旅をし、貧しくて無力な赤ちゃんを救い主として認めて、幼子イエスの前にひれ伏して黄金・乳香・没薬の贈り物を捧げました。
 イエスをはっきり知らなくても、たくさんの未洗礼者は、家庭のために尽くし、困っている人に暖かい手を差しのべて、社会に貢献しながら良心的に生活をしています。これらの人々は「知られざるキリスト者」と呼ばれています。
 聖パウロが、イエスによって「すべての人が義とされて、いのちを得ることになった」(ローマ5・18)と書いたように、すべての人の中に神の恵みが働いています。幸いにも「知られざるキリスト者」は大勢いるのです。神は無限の引力を持って、人の心の中に入って来られます。
 今年、私たちの周りのすべての人の中にキリストが働いていることを意識しながら、彼らの中に神の愛の星を見いだすように努めていきたいものです。  (ルイス・カンガス神父)


主の洗礼 マタイ福音3章13〜17
  「洗礼はあらたに生まれるための恵み」

 洗礼が意味することは何かと時々考えることがあります。そして洗礼とは、洗礼によって新しく生まれ変わり、少しずつ神の目でものごとを見、また神の愛で愛することができるようになっていくことではないかと思います。
 神の子であるイエス様は、人間の心から悪を取り除き、人間の心をまったく新しいものへと生まれ変わらせるためにこの世に来られました。洗礼はそのあらたに生まれるための恵みであり、大きなしるしとなるものです。
 その洗礼をイエス御自身が洗礼者ヨハネからお受けになります。あらたに生まれる必要のない神の子がなぜ私たちと同じように洗礼をお受けになられたのでしょうか。ここに大きな神秘があります。そして考えられることは、イエス様にとって洗礼をお受けになるとは、御自分のこの世での使命に目覚め、それを生きるためだったということです。 イエス様がこの世で担われた使命は苦しみの僕としての使命でした。神の愛ゆえに、自らの苦しみよって、すべての人を救いへと導く使命です。その苦しみの僕の使命を積極的に引き受けるしるしとしてイエス様も洗礼を受けられたのです。
 イエス様は洗礼を受けられた時、祈っておられました。祈りは、使命に目覚めるために必要なことです。神と心を一つにして、神が私に何を望んでおられるかを知る。神の私に対する期待を聞く。そこから自らの使命に目覚めていく。 それが真の祈りです。イエス様が祈っておられたとき、聖霊が鳩のようにその上に降りました。 同じように私たちも、神の望み、私が果たすべき使命を本当に知ろうとして祈るならば、聖霊が私のところに降って来られるということです。そして自分の使命をしっかりと受けとめられたイエス様に天の父からの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が注がれます。自分の使命をはっきり認め、無条件にそれを受け取られたイエス様に対しての天の父の心が表されています。
 神から与えられる使命を素直に積極的に受け取る人こそ、神の心に適った人であり、そのような人こそ、神から「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれる人です。イエス様は、洗礼を受けることを通して私たちにたどるべき道を示されました。私たちも洗礼が持つしるしの意味をよく理解し、その恵みを生かすことができるように努めたいです。
(田丸 篤神父)



年間第2主日 ヨハネ福音1章29〜34
  「信仰の骨子は、三位一体、受肉、贖い」

 洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者として崇拝されています。主が現れるときに歓迎されるように、神によってイスラエルへ遣わされた方です。それと共に、きょうの福音書を見ると、彼は立派なカテキスタ(伝道者)としても描かれています。聖書の本文は短いが、確かめてみると、キリスト教の骨子となる「三位一体」、「受肉の秘儀」と「贖いの秘儀」が見事にまとまっている箇所です。布教心を高く評価する教会は、ザビエルと小さきテレジアを宣教者の保護聖人にしますが、きょうの福音書を読んだ私たちは、「洗礼者ヨハネもその二人に加えたいな…」と思えてなりません…
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。イエスを紹介するこの言葉は不思議に聞こえます。聞き手の解釈はどうでしょうか。イザヤ書で(53.7)小羊にたとえられる「ヤーウェの僕」を思い起こさせるかもしれません。また、多くの人は「過ぎ越しの小羊」の物語、小羊の血によってユダヤ人が死から救われた物語を思い浮かべたとも考えられます。 いずれの場合も、洗礼者はこの言葉でイエスの受難と十字架の死去、言い換えれば、キリスト教の「贖いの秘儀」をほのめかしています。
 ヨハネが紹介するイエスは、贖い主だけではなく、肉(人間)となった神です。まずイエスは、幻ではなく、本当の人間です。悩まされ、人を救うために小羊のように屠られたイエスは、洗礼者によって(1.30)「人」と言われています。それと共に、洗礼者はイエスについて「私よりも先におられた」こと、また「神の子である」ことを言い表しています。「神の子」は、「父のふところにいる独り子である神」(ヨハネ1.18)を意味するので、人間に過ぎない洗礼者よりも、イエスが先に存在しておられるのは言うまでもないことです。人間でありながら神であるイエスを認める洗礼者は、「受肉の秘儀」を証しします。
 洗礼者は「三位一体の秘儀」にもふれます。イエスの洗礼を記録したマタイ、マルコとルカは、御父と御子と聖霊をその場面に登場させますが、後で編集されたヨハネ福音書にはその場面が記載されていません。ただし、洗礼者ヨハネの思い出として言及されています。洗礼者を遣わした方(神=御父)は、ある人(受肉した独り子)の上に霊(聖霊)がくだるのを見たら、その方こそ聖霊によって洗礼を授けるメシアです。洗礼者は、父と子と聖霊の家族である「三位一体」についても証しします。
 私たちは、例外なく、自分なりに信仰を伝えるように呼ばれていますが、『使徒宣言』の内容が豊かで、伝えるべき信仰の要領が何であるかと、迷いに迷う時もあるでしょう。立派なカテキスタヨハネは、きょうそれを教えてくれます。信仰の骨子は、「三位一体」、「受肉」、「贖い」の秘儀です。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第3主日 マタイ福音4章12〜23
  「自分の弱さや闇にイエスの光が射し込む」

 今日の福音は、イエスの宣教の始まりが記されている短い記述箇所ですが、その行間から「イエス」を味わっていくと、私にはイエスの決心とご自分の使命への自覚が読み取れます。 イエスはヨハネ捕縛の知らせによってガリラヤに行かれます。30年近く住み慣れた故郷ナザレを離れ、ガリラヤのカファルナムに住まわれます。全ての人の救いのために、自分の命を賭けていく使命を自覚し決断された時を迎え、その宣教はガリラヤから始められています。イエスの宣教がご自分の故郷ナザレからではなく、ガリラヤから始まっている事について聖書は何も触れていませんが、「イザヤの預言が実現するため」と記され、ここにイエスの使命の本質があります。
 外国の支配下に置かれ、捕虜として連れ去られ生きた歴史の中に住む民、異教徒のガリラヤとして差別的レッテルを貼られ、救いから全く無視されたような状態にいる民と共に生きるために、イエスが真っ先に向かわれた地ガリラヤ。 そう読み込んでいくと、より小さく・より悲しく・より深く涙のあふれるところに行こうとされるイエスのみ心に触れることができます。 だからこそ、後半に記されている「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」このイザヤの言葉が、呼びかけの言葉として意味を持ちます。一人一人自分の弱さや闇にイエスの光が射し込むということは、「我が心の地にイエスの宣教を願う」自分の中にある「ガリラヤ」にイエスをお迎えするということではないでしょうか。福音は「その時から、天の国は近づいた」と記していますが、自分の「その時」とは?敏感さと謙虚さを持ってイエスと出会っていきたいものです。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)





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