2月の福音のメッセージ

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年間第4主日 マタイ福音5章1〜12a
  「神様は、貧しい人々、苦しんでいる人々を特別に愛しておられる」

 現代の世の中で、昨日、何も食べていない人や、昨晩、寒さの中で天井のある場所で寝ていない人に対して、"貧しい人は幸いだ"というのは、皮肉と聞えませんか? また、新聞やテレビなどのニュースを見ると、正反対なことが行われていることがよくあると思いませんか? お金を一杯持っていることが幸せと思い、多くの人々は、他人を排除してまで、一生懸命お金のために働いているのではないでしょうか。みんな金持ちになりたいです。しかし、それは、真の幸せでしょうか? イエスがおっしゃった"貧しい人は幸いだ"というのは、どのような意味なのでしょうか?
 私は小さいとき喘息という病気を患っていました。わたしの咳がとてもひどく苦しい時、両親は、わたしを自分たちの部屋で一緒に寝かせました。そのような時は、他の三人の兄弟より何より大切にされました。それは、わたしが病気だったからです。このように、親は、一番弱い子どもを、一番大切にします。それと全く同じように、神様は、弱い人(貧しい人)に、特別に目を留めて下さいます。そのような意味で、イエスは"貧しい人は幸いだ"とおっしゃいました。弱い人や貧しい人は神様に特別に愛されている。だから、"幸いなるかな"なのです。
 また、わたしの両親は、病人であった私をとても愛してくれましたが、一方、わたしを苦しめている病気を嫌いました。そして、それを、治そうと思って一生懸命病気と闘いました。神様も同じです。神様は、「貧しさ」を愛しているのですか?いいえ、神様は、「貧しさ」を決して愛しません。むしろ「貧しさ」を無くしたいと思っています。 親は、病人を愛しますが、病気は嫌がる。神様は、貧しい人を愛しますが、貧しさは嫌がります。親は、病気を治そうと薬やお医者の協力を求めます。神様も同じです。世界の貧しい人々・弱い人々を助けるために、世界の人びとに、いつも協力を求めています。
 病気や貧しさは、創世記によると、罪の結果(創世記3・13〜19)と書かれています。2000年前のイエスの時代の社会において、自分の貧困や病気は、罪の結果で、神様の罰だと思っていました。そして、自分自身は罪人なのだと思い込んでいました。しかし、イエスは、それらの人びとに、「あなたの貧困や病気は、罪の結果ではありません。安心しなさい、神様はあなた方を大切に思い、愛しています。」と言い、神様の深い愛の計らいを教えたのです。
 私たちは、毎日の生活の中で様々な苦しみに遭うでしょう。その時こそ、神様の暖かい愛を味わうように努力しましょう。神様は、貧しい人々、苦しんでいる人々を特別に愛しておられることを思い出して、神様の呼びかけに気がつきましょう。(ルイス・カンガス神父)




<四旬節第1主日 マタイ福音4章1〜11
  「人はパンだけで生きるものではない。神の一つ一つの言葉で生きる。」

 灰の水曜日から四旬節が始まりました。この四旬節の間、神様が望まれる四旬節の過ごし方を実践していくことができますように。そして四旬節を過ごすための心を学ぶことができますようにその恵みを願いたいと思います。
 今日の福音は、荒れ野でイエス様が40日間祈りと断食をされ、その中で悪魔が誘惑する場面です。そして悪魔の誘惑の鍵は神の子ならこれをしたらどうだというものでした。神の子なら石をパンに変えることも、神殿の屋根から飛び降りることもできるはずだという見方です。石をパンに変えることができる、神殿の屋根から飛び降りても天使が支えてくれる、それが神の子であるしるしだというとらえ方を悪魔はします。しかしイエス様はこの悪魔のとらえ方をはっきりと退けられます。神の子であるとはそういう意味ではないと。
 自分の空腹を満たすために、また自分を危険から守るために神の力を使うのではない。イエス様は悪魔からの誘惑をすべて神との関係を用いて退けておられます。イエス様の徹底した神中心の態度が見られます。力は全て神から、そして神に向かうために与えられているからです。悪魔の誘惑は私たちを神から引き離してしまうこと。力を自分のために使い、神に向かって生きることのないようにすることです。
この誘惑はイエス様が体験されたと同じように私たちの日常の中にも見ることができます。しかし、その誘惑の体験が、イエス様がなさったと同じように私たちを神様とより固く結び合わせ、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを深く味わうものとなれば幸いです。
 私たちの日常もこの荒れ野の連続のようなものです。その中でしっかりと神様と結びつき、一人ひとりが神様から託された使命を生きることができればと願います。荒れ野の体験が私たちと神様との関係を一層深いものへと導くものとなりますように。 (田丸篤神父)



四旬節第2主日 マタイ福音17章1〜9
  「変容の光景を見つめた私たちも、四旬節の間その心を大事に」

 今日は、愛弟子三人と一緒に登山なさるイエスにお供しましょう。他の弟子を離れ、御父と二人きりになって祈りたい(ルカ9.28)イエスです。それと同時に、すさみにおぼれたペトロ、ヤコブとヨハネを励ますために、高い山の頂上へと登って行きます。なぜなら、近いうちに先生が殺されると、一週間前に知らされ、ひどいショックを受けたその三人の気分は、中々直らないからです。
 彼らの気分転換は思いがけないことでした。ごろ寝していた三人がイエス先生に目を向けたところ、びっくりしました。イエスの服は輝かしく、真っ白で、マルコが記録したように、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなりました」(マルコ9.3)。イエスは、十字架の死に続く復活の栄光を見せておられます。言うまでもなく、ペトロたちの心の暗闇は、あっという間に吹っ飛ばされました。復活の確信は、現代にも、信者の心にその結果をもたらします。
 三人をびっくりさせたのは、イエスの変容だけではありません。イエスがモーセとエリヤと語り合っている光景もそうでした。ユダヤ人皆が知っていたように、モーセはイスラエルの第一の指導者であって、エリヤは最も立派な預言者でした。彼らと語り合っているイエスは、彼らと同じく、いや、彼ら以上に優れた指導者、立派な預言者です。その三人の話し合いは、迫りくるイエスの最期についてですが(ルカ9.31)、イエスの姿は、十字架に続く復活の栄光を見せています。イエスとモーセとエリヤのために仮小屋を建て、いつまでも山頂に残りたいペトロの態度は当然でしょう。幸せなときの私たちも、「このまま、いつまでも」と、感じる気分と同じです。
 ところが、輝かしい雲が山頂を覆っているのを見たペトロたちの幸せは、あっけなく消えてしまいました。彼らはおそらくヤーウェの玉座である、旧約聖書の輝かしい雲を思い出したでしょう(出エジプト19.16 申命記4.11、5.22)。特に、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と、ヤーウェ(イエスの御父)の声が聞こえたとき、恐怖に駆られたペトロたちはひれ伏し、中々上に目を上げません。当時のユダヤ人は、ヤーウェの姿を見たら死んでしまうと、思っていたのです。
 やっと、「起きなさい。恐れることはない」と、イエスの声を聞いた彼らは立ち上がりました。顔を上げてみると、ヤーウェの輝かしい雲、モーセとエリヤ、イエスの栄光も消えてしまったと分かりました。もうお帰りの時間ですが、ペトロたちの今の心は登山の時と違い、ご復活の栄光の喜びに満ちた心です。 今日、ご変容の光景を見つめた私たちも、四旬節の間その心を大事にしましょう。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



四旬節第3主日 ヨハネ福音4章5〜42
  「自分中心からイエス中心へ生きる」

 今日の福音箇所はヨハネ4章5〜42節です。ここには、「サマリアの女との対話」「弟子たちとの会話」を通して、"囚われ"から"解放"への過ぎ越しが問いかけられています。
 サマリアの女は、井戸でイエスと出会い話し始めます。イエスは永遠の命に至る水の話しを問いかけますが、彼女は実際の井戸水のことばかり考えて、目の前のイエスこそが"生ける水"であることに気づきません。イエスは、サマリア人の聖地はゲリジム山神殿・ユダヤ人の聖地はエルサレム神殿という固定の枠を超えて、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時だ。」と語りかけます。自己の囚われから解放へと心の扉を開くことを問いかけます。
 後半の記述では、食べ物を買って町から戻ってきた弟子たちはイエスに食事を勧めます。イエスは同じように永遠の命に至る食べ物の話しをしますが、弟子たちは実際の食物のことばかり考えて、イエスの問いかけに気づけません。自分中心からイエス中心へ生きる時、真の命に生きる水と食べ物に目が開かれるのでしょう。
 この四旬節の時の中で、イエスと共に復活への道すがらを望み歩むということは、一人一人がこの"今"を通して、自分の関心事から神のみ心を行い過ごす"時"へと、過ぎ越していくということではないでしょうか。「父はこのように礼拝する者を求めておられる」のです。
 一人一人の"今"を通してお応えしていきましょう。人の心に横たわっている様々な弱さをご存知な主は、私たちのために貧しくなって下さったのですから。(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)





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