12月の福音のメッセージ

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待降節第1主日 マルコ福音13章33〜37
「”目を覚ましていなさい”は、”与えられたその日を大切に生きる”こと」

 『学生時代、高収入と言うことだけで始めたドライブインでの深夜アルバイト。初日、二日目は、がむしゃらに働き、何事ともなく終了した。しかし、三日目の午前0時を過ぎる頃、急に意識が朦朧とし、気力が徐々に無くなっていく自分に気づかされた。勿論、お客様の話すことを聞くことは出来た。しかし、何をしているのか判らなくなってしまった。まるで夢遊病者のように、ウロウロしていた。その時突然、店長から大声で叱られ、初めて我にかえった。』
 今日の福音でイエス様は、とても難しいことを話します。「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か・・・」。  難しいな!四六時中目を覚ましているなんて・・・と直感的に自分の身体で感じました。それは自分の過去の経験が、その言葉を読んだ瞬間思い出され、それは人間にとって不可能と判断しました。しかし、イエス様が話される言葉に、不可能なことはないことを他の聖書の箇所から教えられています。と言うことは・・・・。
そこで再度、福音を読み直したとき、次のことに気づかされたのです。イエスの言われる「その時」とは、世の終わりではなく、救いの喜びの日であることです。だから「目を覚ましていなさい」とは、"警告"を与えたのではなく"励まし"を与えられたと言うことなのです。「励まし」を与えられたと言うことなら、それは与えられた仕事をがむしゃらにやり通すことでも、何かを期待して想像しながら "イエスの愛"をも忘れて、仕事に没頭することでもないということです。
 イエスの言われる「その時」とは、「救いの喜びの日」であり、「目を覚ましていなさい」とは、与えられた今日一日の仕事を忠実に精一杯、生かされている喜びを味わいながら、大切に生きるということなのです。イエスの愛をも忘れ、仕事に我が身を没頭させる危険性を警鐘しつつ、気づきを与える励ましのみ言葉、それが「目を覚ましていなさい」と話したイエスのみ旨ではないでしょうか。(松村 信也神父)



待降節第2主日 イザヤ40章1〜5、9〜11
「人事を尽くして天命を待つ」

 今日の待降節第2主日の典礼福音は、初めにイザヤ書40章1〜5節、9〜11節が読まれます。今日は、この内容についてお話しましょう。 この時代、イスラエルは戦いに敗れ、国民はバビロンに追放され奴隷となりました。そして、ユダヤの民は絶望していました。そのような時、イザヤは、希望に満ちた言葉をもって民を慰めました。『神が救い主を送られるから元気を出してください』と。
「慰めよ、私の民、慰めよ」。 ヘンデルは、この言葉からインスピレーションを受けて「メサイヤ」を書きました。
この慰めを与えるために、神は人間の協力を求められます。「谷は身起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」と。
 先進国の裕福な高い山と、途上国の貧しい人々の谷がある限り、キリストは私たちの所に来にくくなるでしょう。自分が置かれている場で、それを正すように努力することは、キリストが来られるために道を整えることです。平らな道、平等な社会を作る努力をする人の心に、幼子イエスは喜んでお生まれになるでしょう。「主は羊飼いとして群れを養い、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」神は、全ての人にこの言葉を聞かせたいのです。
"人事を尽くして天命を待つ"。 つまり、私たちが平等な世界を作ろうとするならば、神は私たちの努力を祝福して、幸せな未来を与えてくださいます。  (ルイス・カンガス神父)




待降節第3主日 ヨハネ1章6〜8、19〜28
「貧しい馬小屋は天の父の心が表されているところ」

待降節も3番目の日曜日を迎え、準備された4本のろうそくも今日で3本灯されています。今年ももうすぐクリスマスの日を迎えます。今日の福音に登場する洗礼者ヨハネは、神から遣われた人で、光について証しをするために来たと言われます。彼が証しした光は私たちの闇を照らす光です。私たちが自分の心の中にある闇、そして私たちが生活している社会の中にある闇を意識し、そこから真の光に照らされる必要を深く感じているなら、きっとその光は私たちを照らし包んでくれることでしょう。洗礼者ヨハネが証しした光、その光は貧しくても素朴にそして心から神を呼び求めていた人たちに輝きます。人間に向かってではなく、神に向かって心の叫びをあげていた人たち、自分の無力さ、弱さをよく見つめていた人たち、心から神の子の到来を待ち望んでいた人たち、そのような人々の側に神のひとり子は誕生されます。クリスマスを迎える前にやはり私たちに大事なことは、自分の中の「貧しい部分」、「飢え渇いている部分」は何かをよく見つめることです。
 神のひとり子は、旅の途上の貧しい馬小屋で誕生されました。そこには人間の抱える重荷と苦しみを共に分かち合おうとしてくださる天の父の心が表わされています。私たちはなかなか自分で変わることができません。しかしそこにあたたかさに包まれる体験があるなら、私たちは変わることができます。神のひとり子の誕生で表わされていることは、へりくだり、ゆるしに満ち、私たち人間と同じ姿になって神が私たちの側に来てくださったということです。あるべき自分が愛されるのではなく、なっていない、どうしようもない自分が愛されている。神が自分を受けとめてくださっている。そして私たちの人生の歩みを共に分かち合おうとしてくださっている。そのことをお示しになるために神のひとり子は私たちと同じ現実の中に、それも貧しさを身にまとうかたちでお生まれになりました。今年も迎えるクリスマス。本当の救い主の到来を喜び祝うために、もう一度自分の中の貧しさと神がなさった大いなるできごとを見つめることができますように。 (田丸 篤神父)


待降節第4主日 ルカ1章26〜38
ルカが記したこの日

 待降節の準備を支えてきた教会は、きょう「お告げの場面」をその締めくくりにしています。御降誕までの、聖母マリアの9か月の待降節は、お告げから始まります。文学的にも傑作と思われるお告げですが、そのコメントは種々の観点からできます。今日は、70年代に福音書を組み合わせたルカのそばに身を置いて、お告げをしたためる彼のやり方に目を留めましょう。
 ルカは自分の記述した福音書が、念入りに研究を続けた資料に基づいて書いていると、確信しています。その資料とは何でしょうか? ユダヤ人でないルカは、紀元前3世紀にできた、ギリシア語訳の旧約聖書に造詣が深かったようです。また、60年代に著されたマルコ福音書も参考書にしています。マタイと同様に、教会全体に知られたイエスのロギオン(短い話)の省略した記録も使用します。イエスと知り合った弟子と親類からの話、地方教会の口頭の伝承と保管された貴重な記録もルカ福音書の資料となりました。
 ルカは、次の三点を基本事実としています。第1は、聖家族(ヨセフ、聖母マリアとイエスの家族)は通常ナザレに住んでいたこと。第2は、イエスはベツレヘムに生まれたこと。第3は、イエスが生まれた時、聖母マリアは乙女であったこと。この三点を基にしてお告げのエピソードを、ルカはしたためたのです。
 御子の受肉を企画された神が、マリアの承諾を求めずに妊娠させることは考えられないことです。旧約のお告げの場面を見ると、神ご自身が人に現れるか、または使者(天使)を送り、御計画への賛成を求められます。そして、そのお告げに共通するパターンが見えます。(1)まず天使が神の計画に関わる人に現れ、挨拶します。(2)その挨拶を聞く人に恐れか戸惑いの反応が表れます。(3)引き続き、天使は神の計画をまとめ、報告します。(4)相手は神の計画に妨げとなる困難(マリアの場合、処女性のことですが)を打ち明け、それに不信を示す場合もあります。(5)最後に天使は、あらゆる困難を乗り越えさせる神の力を約束し、場合により不信への処罰も言い表します。このように、旧約聖書に時々見えるこのパターンは、洗礼者ヨハネの誕生の予告の箇所にも使用されています(ルカ1.11−20)。
 聖霊はオーディオ・ビデオリコーダーのような役目を果たし、起こったままの言葉と出来事を福音著者に伝えられると思う人がいるでしょうが、教会が考えている霊感はそれではありません。旧約聖書から学び、見事に初代教会の信仰を映しているルカのお告げの場面は、紛れもなく聖霊が霊感された聖書の一部です。
 (J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


聖家族 ルカ2章22〜40
「”命”は神から与えられるよりも貸し与えられるもの、授かりよりも預かりもの」

 今日の主日は「聖家族」の祝日です。福音箇所を通して、イエス・マリア・ヨセフの聖なる家族の「命」に対する姿勢から、「家族」のあり方を味わってみたいと思います。 特に、マリアとヨセフがユダヤ人の習慣に従って、イエスを神殿に連れて行く行動の奥にある「命」への姿勢に触れてみましょう。
 福音書は、「両親はその子を主に捧げるためにエルサレムに連れて行った。」それは、主の律法に従って三つの儀式(割礼・長子のあがない・産後の清め)を受けるためでした。イエスを神殿に捧げたのは、「命」は神から与えられるよりも貸し与えられるもの、授かりよりも預かりもの。ここに、「命」=「神の賜物」であるという命の源に対する姿勢がうかがえます。また、イエスが神のものである事への宣言や、神から預かったイエスの命を育てていく決意の表明を読み取ります。 自分の子どもは「自分の延長」と考えている親が多いかもしれません。「あなたの子どもは、あなたの子どもではない。待ちこがれた生そのものの息子であり、娘である。あなたを経て来たが、あなたから来たのではない。あなたと共にいるが、あなたに属してはいない。あなたは弓であり、あなたの子どもは、あなたから飛び立つ矢である。」(レバノンの詩人) これは、我が子であっても親の所有物ではなく、また全ての人の「命」への共通意識でもあります。人は「者」であって「物」ではありませんから。
 マリアとヨセフは、主の律法で定められた事を終えるとナザレに帰ります。そして、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と福音書は記しています。その人(子)の内に宿っている力を信じる事は、その源への信仰でもありましょう。  (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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