8月の福音のメッセージ

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年間第18主日 マタイ福音14章13〜21
「彼らに心の食物を与え、分かち合いなさい」

 ティベリア湖近くの人里離れた場所に、イエスの後を追ってきた五千人の男性、そしてその他の女性と子どもたちを数えたら、一万人以上がいました。その人たちは、みな飢えていました。イエスは、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言いました。 現在も、イエスは飢えに苦しんでいる人たちを見て、私たちに「彼らに食べるものを与えなさい」と呼びかけています。
 弟子たちは、五つのパンと二匹の魚を、イエスに差し出しました。そうすると、イエスはそのパンを祝福し、増やしました。弟子たちが、自分たちにできる精一杯のことをしたので、パンは見事に増えました。
 私たちは、たとえ大きな犠牲を払わなくても、自分たちの力で精一杯のことをすれば、全人類は、充分食べ、生きていくことができるでしょう。
 ある医者が言いました。「人類のたくさんの人々は、食べるものがなく苦しみ悩んでいる。しかし、同時に人類のたくさんの人々は、食べ過ぎで病気で悩んでいます」と。
 今日の福音では、イエスはご聖体のことを暗示しています。 イエスは、ご聖体を聖別したときに、今日と同じ言葉を使い、 同じ動作をなさいました。つまり、”パンを取って、賛美の祈りを唱え、パンを割いて弟子たちに与えられました。”
 今も、心の糧であるご聖体に飢え渇く人はたくさんいます。イエスは、わたしたちに「彼らに心の食物を与え、分かち合いなさい」と言われ、わたしたちに協力を求めています。
 ある青年がマザー・テレサに聞きました。「なぜ神様は貧しい人々と裕福な人をつくったのですか?」 マザー・テレサは答えました。「金持ちが貧しい人々と分かち合うことによって、金持ちと貧しい人々がともに幸せになるためです。」 (ルイス・カンガス神父)



 最近よく思うことがあります。それは復活された主であるイエス様を現代においてどのように感じ取っていったらよいかということです。ある人にとっては、イエス様の存在は2千年前のことであり、イエス様を信じてはいても現代で直接イエス様を感じ取ることはできないと感じる人は多いと思います。教会に来ても、ミサに参加しても、そして祈っても、そのことが直接イエス様とふれあうことにつながっていかない状態。イエス様の存在をどこかとてつもなく遠い存在と思えてしまう。そのように感じている人は結構多いのではないでしょうか。
 私は今日の福音の場面、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた場面を見て、これはイエス様が特別な方、人間と同じレベルではなく、力に満ちた神の子であることを表していると思いました。そしてその力は2千年を超えて今でもそのまま生き続けているということです。イエス様は言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この言葉は現代の私たちにも向けられています。 私たちがもっとイエス様に近づき、イエス様の言葉を自分に呼びかけられた言葉として受け止めていくなら、イエス様の思いと力は現代の私たちをも包み込みます。 私たちは生きる上でたくさんの恐れ、心配を身に帯びています。明日のことさえ私たちにはわかりません。その不安が私たちを押しつぶすこともあります。しかし、私たちが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」というイエス様の言葉をそのまま心に刻み込むなら、その信仰にイエス様は応えてくださるでしょう。恐れを感じてしまったペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」とイエス様は言われます。私たちも現代において、心からイエス様を神の子として、そして遠くにおられるのでなく、身近にいつも側にいて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と呼びかけてくださる方として信じ、そのことを心と体全体で感じ取って歩んでいきたいと願います。(田丸 篤神父)


年間第20主日 マタイ福音15章21〜28
「プライドを捨て、謙遜となる」

 きょうの福音書を読んで、強烈な感銘を受けました。イエスが、非常に苦しんでいるお母さんの願いに譲った、印象的な場面です。
 きょうのイエスは、目立たないようにレバノンまで旅に出ました。群集が妨げにならないように配慮し、使徒たちの養成にのみ従事しています。ところが、人に知られず長く旅を続けるのは中々難しいことです。どこかで、使徒たちの団体を見たある婦人は、「ほら、あの先生はメシアのイエスではないか」とすぐ分かったようです。これはもっともなことと言えます。当時、イエスの教えを聞くため、また癒しを受けるために隣のガリラヤに旅していたレバノンの人は多かったと、福音書にも記録されています(マルコ3.8)。この婦人はその一人からイエスについて聞いたのでしょう。  悪魔にひどく苦しめられている娘を持つ婦人です。「一生のチャンスだ」と思い、すぐ使徒たちの後についてきます。そして、自分のことを憐れんでくださるようにと、ひっきりなしにイエスに叫び続けます。いかにも母らしい行動ですが、叫んでいるためイエス先生の話が聞こえない弟子たちはいらいらして、これ以上彼女から迷惑をこうむらないために、婦人の願いを受け入れるようにと、イエスに取り成しています。
   しかし、イエスははっきりと答えます。「自分は御父によってユダヤ人に遣わされた」と。 原則として、自分の活動は神から離れてしまったユダヤ人に限られているとおっしゃったのです。そばに来たその婦人は、先生の、その言葉を聞いたのに、さらに「主よ、どうかお助けください」と繰り返します。イエスは、「子供たち(ユダヤ人)のパン(癒しの恵み)を取って小犬(異邦人)にやってはいけない」と答えました。「小犬」と言えば可愛く聞こえるかもしれませんが、「小犬」と呼ばれるのは、人のプライドを突かれる言葉でしょう。しかし、娘の病気のことで苦しんでいるこの婦人には、プライドは微塵も残っていません。自分を小犬だと認めて、小犬にも食卓から落ちるパン屑が与えられるとイエスに答えました。彼女が物乞いするパン屑は、娘の癒しです。  「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 
 最終的にイエスは、娘への愛のためにプライドをなくしたお母さん、信仰の立派なお母さんの願いに譲りました。  現代も、このようなお母さんたちはなんと多いことでしょう!
 (J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


年間第21主日 マタイ福音16章13〜20
「イエスは誰なのか」

 今日の福音書は、ペトロの信仰宣言の箇所であると同時に、ペトロがイエスから天の鍵を授けられた事が記されています。勿論、ここでの中心テーマはイエスです。ここに、イエスの固有性が語られています。父なる神の権威によって与えられている賜物=イエスであるからこそ、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」という信仰宣言に対して、イエスは「このことをあなたに現したのは、私の天の父だ。それを宣言したあなたは、幸いだ。」と言っているのでしょう。また、イエスご自身に対する判断理解が、人々と弟子たちでは違っていますね。すでに弟子たちは、イエスが「神の子」である事を体験していた事を、先々週の福音箇所で見ました。湖上を歩き強風を静めるイエスに対して「本当にあなたは神の子です」と答えています。にもかかわらず、今日の福音書で「あなた方は、私を何者だというのか」と、今一度問いかけています。「あなた方」とは、私達一人一人を指しているのではないでしょうか。私達は、聖書を通してイエスがおっしゃった言葉や行った奇跡や人々への関わりを知っていますが、ここで示されている「イエスは誰なのか」という問いかけは、もっと深い根源的な意味を示すものです。つまり、イエスと自分とのパーソナルな出会いを通してのみ、答える事が出来る「問い」なのです。神の力強さを体験する事=自分の弱さやもろさが無くなる事ではありません。いくら信仰を持っていても、迷いやすさや崩れやすさや傷つきやすさは、人間である限り無くなりません。来週のペトロが見せる箇所の如くにです。私達の信仰の現実も、崇高さと凡庸さ・強さと弱さ・聖と俗の入り混じったものでしょう。御父を通して、イエスを深く知る恵みを求めたいものです。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


年間第22主日 マタイ福音16章21〜27
「自分を捨て十字架を担う生き方を選ぶ」

 世の中なかなか自分の思うようにならないと言うけれど、見方によっては、自分の思うようにならない方が良いのかも知れません。なぜなら、もしも自分の思うようになっていたら、トンでもないことになっていたかも知れないし、人様にご迷惑掛けていたかも知れないからです。
 今日の福音では、イエス様が「受難と復活の予告」を弟子たちに打ち明けられたとあります。ところが、あれほどイエス様に対して期待し「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロでしたが、自分の思いと違ったことを話したイエス様に対して「主よ、とんでもないことです・・・・」とイエス様の言葉を否定しました。ペトロは、神様の思いを受けとめて「あなたはメシア」と告白したとき、祝福を受けましたが、人間の思い、人間の欲にとらわれて発言したとき、「サタンよ引き下がれ」と叱責されたのです。つまり、イエス様のみ旨は、人が人間的な栄誉を求めるとき、人はサタンの誘惑の虜(自我中心)になっているということです。「自分を捨て、十字架を背負って、従いなさい」といわれるイエス様の弟子たちへの言葉は、弟子としてのバランスの取れた基本的姿勢なのです。
 しかも十字架はイエス様ご自身が開いた道であり、さらに「いのち」はイエスに従って自分を捨てるときに与えられるのです。これは人が人として生きていくとき「神のことを優先する」つまり、他者のために生きるのか、「人間のことを優先する」自分のために生きるのか、どちらかを選択しなければならないときの基準となるのです。
 イエスは言う、「神のことを思う」生き方をする人が、自分を捨て十字架を担うとき「いのち」への道は開かれると。 (松村 信也神父)



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