4月の福音のメッセージ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。



復活節第3主日 ルカ福音24章13〜35
  「イエスはどこにいますか?」

イエスはどこにいますか?

 イエスが墓にいません。マグダラのマリアと他の婦人たちとペトロとヨハネは、イエスを墓の中で探しましたが、そこにイエスはいませんでした。大都会であったエルサレムにも見当たりませんでした。  イエスは、旅人です。イエスは、道にいます。イエスを探している人の側に、一緒に歩いていました。
イエスはどこにいますか?
 エマオへ向かう二人の弟子に、イエスは近づいて来ました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)
イエスはどこにいますか?
 イエスは、み言葉にいます。エマオの二人は、み言葉を聞きながら、少しずつイエスを認めました。「苦しみを通して復活へ」。イエスの受難と死が、終りではなく復活への道であることを悟りました。
イエスはどこにいますか?
 パンを裂く時、ミサにおいてイエスがいます。二人は肉眼で人を見ていた間は、イエスは見えませんでしたが、信仰の目でパンを見た時、イエスを見ました。  二人が道を歩み始めた時には、寂しく、失望して、仲間たちから逃げていました。しかし、聖霊に照らされて、イエスがパンを裂いた途端に彼らの目が開かれ、喜びで満たされて、その喜びを友だちと分かち合うために、もと来た道を新たに踏み出しました。
 良い羊飼いのイエスは、囲いから離れるこの二人を探しにでかけ、十二人の仲間のいる囲いに導いたのです。  (ルイス・カンガス神父)



復活節第4主日 ヨハネ福音10章1〜10
  「私たちもイエス様の呼びかけの声を聞き分けることができるように」

 今私たちは、復活節という喜びの時を過ごしています。しかしイエス様が復活された出来事と自分とがどうつながるか、それがよくわからないと感じておられる方も多いのではないでしょうか。イエス様が復活されたということが2千年前のことだけでなく、今も、私たちと共にここにおられるということ、お姿を見ることはできなくても、イエス様が私たちとここに共にいてくださる、そう思うことができるなら、そう信じることができるなら、復活されたイエス様と私たち自身がつながることができます。
 私たちが力を失って歩んでいるとき、私たちが気づかなくても、復活されたイエス様は、共に歩んでくださっています。支えてくださっています。もしそのことに気がつけたらどんなに幸いでしょうか。
 今日の福音で私は「羊はその声を知っている」という言葉に目がとまりました。私たちが何かを知っていると言うとき、たとえば茶道を知っていると言うとき、それは単なる茶道についての知識を持っているということより、実際に茶道を経験したことがある、茶道のすばらしさを味わったことがあるという意味でしょう。 何かについて知っていることと何かを知っているということとはやはりちがいがあると思います。
私たちにとってイエス様に対してはどうでしょうか。私たちはイエス様について知っているのでしょうか、それともイエス様を知っているのでしょうか。復活されたイエス様は、私たちがその目で見ることはできませんが、確かに共にいてくださいます。私たちにとって大切なことは、羊が自分の羊飼いの声を知っており、そして他の羊飼いの声と聞き分けることができるように、私たちもイエス様の声、呼びかけを聞き取っていくことです。イエス様も、私たちが真にイエス様のことを知っていくことを望んでおられると思います。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とおっしゃってくださるイエス様の声をしっかり聞き、ついていきましょう。 (田丸 篤神父)


復活節第5主日 ヨハネ福音14章1〜12
  「天国に通じる道はイエスご自身」

 きょうのヨハネ福音書は、4章(14章―17章)にわたる、イエスの晩餐の話の始めです。細かいコメントをせずに、キーポイントだけをまとめたいとおもいます。
 晩餐の話は、イエスが地上に住んでいた最後の話、しかもお別れの話です。気を落としていたペトロとトマスに、先生がどこに行くか分かりませんが、イエスは今度の行き先は「私の父の家(天国)だ」と使徒たちに知らせます。それと共に、弟子たちのために天国で住まいを用意しに行くと言い、それができたら、彼らを迎えに来ると言い加えました。そうすると、帰天した弟子たちがまず霊魂をもって、後で、最後の日に復活してから、心と体をもってイエスと一緒に永遠の命にあずかることになります。考えてみれば、地上は宿屋だけであって、私たちの実家は「御父の家」がある天国です。
 イエスの行き先が分からなかったトマスは、当然、そこに通じる道も分かりません。イエスは彼の質問に「私は道であり、心理であり、命である」と教えます。やはり、天国に通じる道はイエスご自身です。人生の道において迷子になりがちな私たちのためには、イエスの模範は道しるベとなり、真理そのものであるイエスの教えは、正道からそれないように支えとなります。それだけではなく、私たちがイエスと一緒に歩んで行くならば、命の源であるイエスは、この世の中から永遠の命の前触れにあずかる恵みを与えてくださいます。
 イエスの言葉を聞くと、「主よ、私たちに御父をお示しください」と主張した使徒フィリポは、人間のイエスを見るだけで満足できず、御父(旧約聖書のヤーウェ)を見たかったのです。現代も、神を見なければその存在を認めない人が多いと思います。しかし、霊である御父は人間の目には見えません。目に見えたのは、御父によって世に遣わされ、人間の体と心を取り上げた御ひとり子イエスです。福音書から今でも私たちに呼びかけており、ご聖体の形で心の糧となるイエス・キリストです。イエスと付き合うことによって、間接にも神に接することができます。ただし、うわべだけの付き合いなら、それだけでは不十分です。イエスの言葉と業、特にイエスの復活を基にして、イエスが人間であると共に、本当の神の子、父と同じ神であることを信じるところまで進まなければなりません。父と子はふたりの方でありながら、子は父の内におり、父はイエスの内におられます。「総合内在しているふたり」は、聖霊と共に唯一の神の本性を分かち合っています。きょうの福音書は「三位一体の信仰」の土台となる一箇所ですが、新約聖書のそのような箇所がたくさんあります。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)


復活節第6主日 ヨハネ福音14章15〜21
  「イエスと共に生きるためには、人間的弱さは妨げにならない」

 復活節を締めくくるかのような、祭日典礼暦を控えての第6主日の今週、福音箇所は、最後の晩餐の席で語られたイエスの遺言的内容箇所です。「あなた方をみなしごにはしておかない。」「永遠にあなた方と一緒にいる真理の霊を、私は父にお願いする」「この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内に・・・」と語るイエスの弟子たちに対する切なる愛が、痛いほど読み取れる箇所です。らせん状に何回も繰り返されるイエスからの中心メッセージは、どんな事があっても「私はあなた方と共にいる」という事でしょう。その恵みに触れ、知ることが出来る方「真理の霊=聖霊」を約束されている箇所、その弁護者の遣わしを御父に願うと同時に、その聖霊を約束された「弟子たち」と拒絶される「この世」が記されています。
 「弟子たち」と「この世」はどこが違うのでしょうか? 聖霊の約束は、弟子たちが完全な人だったからなされたのでしょうか? いいえ、むしろ、弟子たちは十字架上のイエスを前にして、多くの裏切りをした自分の弱さと罪の現実を直視させられた人たちでした。 人間の中にうごめく闇に直面し、赦しを求める心・救いに飢え渇く祈りの心・光に向かって開いていく謙虚な生き方の必要を自覚した人たちでした。
 イエスに触れ、イエスと共に生きるためには、人間的弱さは妨げにならないという事です。仮に、イエスと私たちの間に妨げをつくるものがあるとするならば、それは自己中心的な傲慢や驕りという硬い心の鎧でしょう。肉なる欲に支配されたこの世的生き方でしょう。この「弟子たち」と「この世」の違いは、聖霊を受けるための心構えの違いと言えるでしょう。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


Topへ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。