9月の福音のメッセージ

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年間第22主日 ルカ福音14章1,7〜14
  「他の人に上席を譲り、自分は末席を選ぶ」

聖イシュトヴアーン大聖堂ステンドグラス  イエスは、ある日婚宴に招かれた。客は、他人のことを考えないで先を争って、一番良い席、上席を選んで座っていた。これは普通の人々の価値観でしょう。すなわち、余り他人のことを考えないで自分のために一番楽な仕事、名誉と権力の仕事を選びます。 しかし、イエスは、それとは正反対のやり方をするように勧めています。すなわち、他の人々を重んじて他人に一番良い事を、一番楽しい事、一番報われる事。つまり上席を他人に譲って、自分自ら難しい仕事、誰もやりたくない事、自分が末席を選ぶようにイエスは、教え勧めておられます。
 第2次世界大戦が終わって、ドイツのケルンの司教はイエスの教えに従いました。戦争の空襲によって、東京とケルンの教会はみな破壊されました。ケルンのフリン大司教は、自分の教区の教会を再建しないで、次々と東京の教会を建て直すように、たくさんのお金を日本に送っていました。 東京の白柳司教は、ケルンに行った時、まだ倒れている教会を見て、フリン司教に尋ねました。「どうして自分自身の教会を再建しないで、東京にどんどんお金を送っているのでしょうか」と。フリン司教の答えは、「あなたと私が困っている時に、先にあなたの問題を解決して、あと自分自身のことを解決しましょう」と言いました。 素晴らしい価値観! 普通の人々が考えない驚くべきやり方! まさにこれは ”あなたに上席を譲って自分のために末席を選ぶ” ことです。 この運動が始まって25年経った時に、ケルンの大司教は東京に来て、白柳司教に会いました。その時、大司教が先ず挨拶した言葉は「白柳司教様、25年間お世話になりありがとうございます」でした。 これを聞いた白柳司教は、「どうしてそのようなことをおっしゃるのでしょうか? 25年間莫大なお金を東京に送ってくださったのに。そして、その間、東京はドイツに何もお金を送りませんでした。 私たち日本人こそケルンの司教とドイツ人に心からありがとうございますと言うべきではないでしょうか」と言いました。 ドイツの司教は「確かにドイツは、東京にお金を送りましたが、これによってドイツの信徒はとても心が広くなり、精神的に立派になりました。 白柳司教様本当にありがとうございました。精神的におせわになりました」答えました。 そして、ドイツの司教が帰るとき、白柳司教はお礼に何かプレゼントをしようとしました。しかし、ドイツの司教は「もしプレゼント下さるならば、ドイツと東京、東京とドイツという二つの国の間ばかりでなく、もっと困っている他の国に援助をしてください。」 そして 「その困っている国がゆとりができたら、またその国はどこか他の困っている国に援助をしていけば、その輪がどんどん広がっていきます。」 と言われた。
 先にあなたのことを考えて、あなたに上席を譲り、自分のために難しい事、自分の為に嫌な仕事、末席を自分のために。 他の人に上席を譲って、自分が末席を選ぶ価値観が広がったら全世界のすばらしい一致となるのではないでしょうか。 (ルイス・カンガス神父)




年間第23主日 ルカ福音14章25〜33
  「自分の十字架を背負い歩む中に本当の神と出会え、答えがある」

聖イシュトヴアーン大聖堂ステンドグラス  キリストの弟子として歩むとはどういうことでしょうか。そこには全てを捨てて神のもとに来ること、自分の十字架を背負ってついて来ること、そのことが求められています。全てを捨てて神のもとに来るとは、神を第一とすることです。そしてその神が私たちに自分の十字架を背負ってついて来ることを望まれます。私たちが背負うべき十字架とは、理想的とは言えない現実や人間関係のことかもしれません。病気や様々な困難、苦しみもあるでしょう。それを自分の十字架として受けとめ、背負うことを神はお望みになります。そしてやるべきこと、しなければならないことはたくさんあります。しかしそれをやる前に腰をすえてよく考えることが大事だとイエスは言われます。なぜ神を第一とするような生活をしなければいけないのか。なぜ理想的とは言えない現実やあるがままの人間関係を十字架として受けとめ背負うような生き方をしなければいけないのか、腰を据えてよく考えること。中にはそのようなことのために自分は教会に来ているのではないと思う人たちもいるでしょう。でも、そうでなければ「わたしの弟子ではありえない。」とイエスは念を押されます。時々私にとっての十字架は何だろうと思うことがあります。司祭として神様の心を十分に人々に伝えることができていないと思うとき、また耳を傾けたら心が幸せになり苦しみが無くなるような話が求められているのではという誘惑を感じるときなど、むずかしさや十字架を感じます。しかしたとえ苦しみが無くならなくても、神様のよさを思い生きていこうとすること。自分の十字架を背負って歩もうと思うこと。なぜならその歩みの中に本当の神の答えがあるから。それを通して神と出会うことができるから。神の心に自分の心がふれる体験をすることができるから。これは本当だと思います。このような思いを大事にして、もう一度じっくり腰を据えて、キリストに従って生きる意味を考えてみたいと思います。 (田丸 篤神父)



年間第24主日 ルカ福音15章1〜10
  「罪びとであるからこそ、可愛がられる資格がある」

聖イシュトヴアーン大聖堂ステンドグラス  「キリスト教は良い道だな。すばらしい道。でも、欠点だらけのこの私には、キリスト教なんて全く無理だ。ふさわしくない者だ」と、洗礼まで進まない人からよくそのような声を聞きますが、それを聞いた私は「残念だな」と思えてなりません。実は、きょうの福音書から明らかになるように、罪人こそ信者になるように招かれています。あえて言えば、信者になる資格があると考えざるを得ないでしょう…
 当時のパレスチナの権力者ファリサイ派の人びとや律法学者たちは、国の税金を取り立てる徴税人を憎み、罪人 ―ユダヤ教のおきてを守らない人と売春婦― を人間の屑として見なしていましたが、イエスは彼らを迎え、一緒に食事し、特に彼らを救いに来たと、何回となくおっしゃいました。きょうの福音書の二つのたとえから明白になるように、イエスのこの上もない喜び、天国の天使と聖人と分かち合っている喜びは、離れた罪人が見つけられ、イエスのもとに帰った時の喜びです。
 羊飼いを中心人物にする最初のたとえは、当時の男性向けのたとえでしょう。場合により、彼らは体験からたとえの意味が分かったでしょう。小さな群れをよく数えている羊飼いは、一匹見当たらなかった時にすぐ捜しに行き、見つけ出すと、羊を懲らしめるどころか、わが子のように可愛がってくれます。羊飼いの喜びは一通りではありません。あふれるばかりで、友人と近所の人々を呼び集め、どうしてもその喜びを彼らと分かち合わなければなりません。そうしないと、なかなか落ち着きません。きょうのミサの小冊子の表紙に見える「良い羊飼い」は、わが主イエスです。担がれて、可愛がられる羊は私です。罪人ですが、罪人であるからこそ、可愛がられる資格があります
 第2のたとえは、女性たちを相手にします。ドラクマ銀貨を十枚(一万円札を十枚にしましょうか?)を持っていたおばあさんの物語です。「持っていた」と言いましたが、やはり、一枚が蒸発してしまいました! 大変だ! 電気をつけたり、部屋を片付けたりしてその一万円を一生懸命に捜します。やっと見つかりました。捜す苦しみが多かっただけに、その一枚が現れた今の喜びは言語に絶するほどの喜びです。近所のおばあさんたちを呼び集め、「一緒にお喜びください」と叫びだすほどの大きな喜びです。このおばあさんはイエスですが、一万円の札は、罪人の私たちはとしましょうか。 実は、神によって造られ、神の子供となり、永遠の天国の幸せに招かれている私ですから、欠点だらけであっても、罪人であっても、まだまだ一万円札よりも価値のある私ではないでしょうか? (J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第25主日 ルカ福音16章1〜13
  「救いへ向けて必死になれる姿勢」

聖イシュトヴアーン大聖堂ステンドグラス  「不正な管理人」のたとえ:と名付けられている今日の福音は、数あるたとえ話しの中でも分かりにくい内容です。それは、私達の常識や倫理観では理解しがたいからです。そこで、この箇所に記されている内容の奥にある呼びかけをご一緒に考えてみましょう。
私が感じた3点からの呼びかけを紹介します。
 1.主人の財産管理をする男が、そこから無駄使いをした事。
 2.その発覚によって主人から下される免職を逃れるために、必死の思いで生き抜くすべを模索した事。
 3.このたとえが、弟子たちに向けられたものである事。
この3点から味わっていきましょう。
 主人を「神様」、財産管理を任された男を「私達」として考えると少し見やすいかもしれません。私達が神様から任されているものは「尊い命」。その命をどう使っていくのか? そう分かっていても、人間の中にあるエゴや欲望や様々な弱さゆえに、無駄使い的な生きかたに甘んじてしまっていることもあります。主人が男と向き合ったように、神様が私達と向き合ってくださった時、私達もこの男のように慌てふためき、自分の全心情をあげて、なりふりかまわず救いを求めようと必死になれるのでしょうか?
 たとえ話しでは、不忠実でいい加減なこの男が、追い詰められて、より不正な方法で切り抜けた行為を褒めていますが、その行為の奥にある「救いへ向けて必死になれる姿勢」、それをイエスは弟子たちに語ったのです。「私に従いたい者は、日々自分の十字架を背負ってきなさい。」と呼びかけたように、ここでも呼びかけているのです。  (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



年間第26主日 ルカ福音16章19〜31
  「"神のみ言葉"を「聞く」ことから始める」

聖イシュトヴアーン大聖堂ステンドグラス  30年も前になるだろうか、初めてロンドンのテムズ川近くにあるテートギャラリーに行ったときのことである。今も鮮明にその絵画を覚えている。テーマは「天国と地獄」。絵の大きさは結構大きかったように思う。印象的だったのは、いろんな人々に混じって地獄に向かう聖職者たちの姿であった。おそらくこの絵は、中世の教会堕落の時代を強烈に批判したものだろうということは、誰の目にも明らかであった。
 今日の福音を読むとき、いつも脳裏に浮かぶこの絵は、我が身を振り返らされる良い機会でもある。「今の自分はどうなのだろうか?」「現在置かれている立場に自分として相応しく振る舞っているのだろうか?」などなど自問する。ラザロ(神が助けると言う意)は、生前徳を積んでいたとは言われてない。ということは、これが神様のみ旨である"神の秩序"だとするなら、この世で楽をしたものは、来世では苦しみを味わうと言うことでもない。むしろ、"この世で富を貧しい人々と分かち合ったかどうか。貧しい人々と連帯し、共に苦しみ悲しみを互いに担い合ったかどうか"ではないだろうか。この世で"貧しい人々に目もくれなかった人々、苦しんでいる人々を気にもとめなかった人々、弱い立場にある人々を無視続けていた人々、いつも自己中心でしか物事を考えなかった人々"その様な人々にいくら奇跡を見せたところで、自分の利益にならなければ、その意味を知ることはないだろう。つまり、この世では、天の国を見ることは出来ないからです。しかし、神のみ言葉を聞くことは可能です。信仰は「聞くことから始まる」とパウロが言うように、「聞く」ことこそ今の私たちの生き方を変えていくことの出来る大きな救いの力ではないでしょうか。
 「聞く」、簡単なようで簡単ではないのが「聞くこと」なんです。でもそう片意地を張らずに、普段着のままで良いから、先ず"神のみ言葉"を「聞く」ことから始めましょう。み言葉ですから、人の意志に関係なくその人の心の中まで染み通っていくでしょう。その時、その瞬間、あなたも今の生き方から変えられていくでしょう。この世にあって人はどんな人でも神様から見るとき同じ人間なのですから。 (松村信也神父)



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