10月の福音のメッセージ

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年間第27主日 ルカ福音17章5〜10
  「私どもは取るにたりない僕です。しなければならないことをしただけです。」

10月ロザリオの月  友達の娘が結婚する事になった。結婚式の前日の晩餐のときに緊張が高まっていた。夕食を済ましてお父さんは娘を隣の部屋に連れて行き言った。「リカさん、26年間あなたを育てる為に、全力を尽くしてきました。明日結婚してこの家を出る前にぜひ頼みたい事があります」と。リカは「おとうさん、なんでもいたしますからおっしゃってください」といいました。おとうさんは「リカ、幸せであってほしい。そして、幸せな家庭を作るように。これだけを頼みます」と。私はこれを聞いて"親の心はすばらしい"と思った。これは、心と愛の形です。これと違ったエゴ中心のやり方は、「あなたのためにこれだけを尽くしたから、これに値する何かを返してください。」です。すなわち、give and take のやりかたでしょう。このような心こそ、現代に必要です。『give and take のかわりに give and give.』
 今日のミサの福音はこれを勧めてくれます。ある僕は、昼間の間、一生懸命畑で働き、夕暮れに主人の家に帰り、主人の食事を準備し、帯を締めて主人に給仕をしていました。その僕にとって、これはあたりまえのことで、やるべき仕事をしました。そのために主人から感謝してもらうはずはありません。
 イエスご自身も、仕えられるのではなく、私たちに仕えるために来られ、私たちを救うために愛を持って厳しい十字架上で命をお捧げになりました。あの結婚式の前の晩餐の父親の心が現代社会に広がったら、どんなに幸いなことでしょう。 (ルイス・カンガス神父))




年間第28主日 ルカ福音17章11〜19

  「あなたの信仰があなたを救った」

10月ロザリオの月  重い皮膚病を患っている10人の人がイエス様を出迎え、声を張り上げて「どうか、わたしたちを憐れんでください」と言います。重い皮膚病は特に苦しみが大きいものです。以前、ハンセン氏病の病院で1ヶ月の実習をさせていただいたことがあります。そこで療養されている人々との出会いの中で多くのことを学ばさせていただきました。病気の上に背負うことになった苦しみ、十字架。しかし同時に清い心をもって生活している多くの方々がそこにおられました。病気は私たちの人生の中での大きな十字架です。でもそれを通して神様の心に触れることができるなら、人生のすばらしい糧になります。イエス様の憐れみの業によって10人皆がいやされました。そしてその中の一人サマリア人が感謝を表すために戻って来ました。そしてそのサマリア人にイエス様は言われます。「あなたの信仰があなたを救った。」なぜ「神の愛があなたを救った」とは言われずに「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのでしょうか。そしてここで言われた信仰とは何でしょうか。信仰とは生活の中に神の働きを見いだす心の目です。感謝を表すために戻ってきたサマリア人は、自分の身に起こった出来事の中に神の恵みと慈しみを感じ取ることができました。「神がこの自分を憐れみいやしてくださった」、「神がこの自分を生かしてくださった」、「生かす場を与えてくださった」。神に感謝を表すことが自然にできるくらい生活の中に神の働きを見いだす心の目を持っているならどんなによいでしょう。そしてその心の目がその人に真の平安を与えるのではないでしょうか。たとえどんな状態に置かれていても、そこに神様と自分のつながりを見いだすなら、神様の無償の愛を感じ取ることができるなら、それこそ私たちの救いです。他の9人は病気のいやしを喜んでも、そこに神の働きを見出すことはできませんでした。きっとまた病気とは違う何かに縛られてしまうことでしょう。どんな状態にあっても感謝できる、神様を賛美できる、その心がその人を束縛から解放します。真の救いはここにあります。 (田丸 篤神父)



年間第29主日 ルカ福音18章1〜6
  「神は彼らのために裁いて守ってくださる」

10月ロザリオの月  多くの日本人には面白い特徴があります。[神頼み]はその1つです。もしかしたら、神なんてあまり興味のない人であっても、入学試験が迫ってくると、神頼みをします。「ちょっと矛盾ではないか」と友だちに言われても、少々恥ずかしそうに笑うでしょうが、最終的に「苦しい時の神頼み」のままになります。
 神頼みは種々様々ですが、真心から出る真面目な神頼みがあれば、形式に過ぎない神頼みもあります。また、一度失敗すれば、これ以上神頼みをしない人もいます。きょうの福音書でイエスが勧める神頼みは、「気を落とさず、絶えず続ける」お願いの祈りです。
 イエスのたとえの裁判官は「神を畏れず、人を人とも思わない」ひどい人、不正な裁判官ですが、それにしても、ややこしくひっきりなしに裁判を開くように願いに来るやもめにはかないません。最終的に、彼女のしつこさに負けてしまいます。しつこくも願っている私たちに対する神の応えは、どうなるでしょうか。信仰の見地に立ってそれについて考えてみましょう。
 深い信仰のあるキリスト者にとって、神はただ存在されるだけではなく、私たちを愛しておられる方です。私たちを造ってくださり、ご自分のひとりの子どもを世に遣わし、十字架上で殺されるのをお許しになり、私たちを永遠の命に招いておられます。きょうのたとえの不正な裁判官と違い、私たちの神は愛に満ちておられる「アッバ」、優しいお父さんです。ひっきりなしに願い続けたやもめに譲ってしまった裁判官を見ると、願い続ける私たちのお父さんは、いったい、自分の子どもの願いをいつまでも突き放すことができるでしょうか? 父なる神と救い主イエス・キリストを信じているキリスト者には、そんな考え方はあり得ません。
 しかし、日常生活を確かめてみると、場合により、いや、かなり頻繁に、神は私たちの願いを聞き流されるのではないかと、感じざるを得ないでしょう。真心から願っても、熱心に願い続けても、その願いは天に届かないような気がします。果たして、イエスの最後の言葉は、文字通り解釈ができるでしょうか。できると思います。私たちにためになる事が分かっているのは、私たちよりも天のお父さんです。私たちが神の計らいに合わない事を願っているならば、良いお父さんである神はそれを与えられるはずはありません。その代わりに聖霊の光と力を与えてくださり(ルカ11.13)、この上もない恵みがかなえられます。自分の願いが聞き流されるどころか、その時こそ、天のお父さんに特に可愛がられることとなります。(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



年間第30主日 ルカ福音18章9〜14
  「高ぶるものは下げられ、へりくだる者は上げられる」

10月ロザリオの月  今日の福音は、ファリサイ派の人と徴税人という二人の人を通してたとえられている「祈り」がテーマになっています。ファリサイ派の多くは律法を守っており「自分を正しい者」と自負していたようです。今日の箇所でも、この律法にそって宗教的にも倫理的にも優等生の自分を感謝する祈りをしています。感謝の祈りは素晴らしいものですが、彼の祈りには引っかかる響きがあります。「神様、私は他の人のように不正な者・姦通を犯す者でもなく、この徴税人のようでもないことを感謝します」と。祈りとは、人への非難でも人との対比でもありません。今日一日、この私は神様から頂いている命をどのように使えたのでしょうか?人との関わりの中でその命を生かし合えたのでしょうか?と、神の御前で自分の一日の全てを差し出して、御目を通して自分を見せて頂く対話の時:「祈り」なのです。ですから、神の前に出た自分は、まだまだ・・・だらけの者であることに気づけるからこそ「神様、罪人の私を憐れんでください」という徴税人の祈りのように、自分の弱さ・足りなさにもまして神の大きさにひれ伏すことの出来る恵み。ここから「ありがとう。ごめんなさい。助けてください。」と幼子のように柔らかい心を、神に触れていただけるのです。
 聖書が語る「正しい人」とは、自分の惨めさを神に差し出し、神の憐れみにまっすぐに向かえる魂の清らさにあるのではないでしょか。逆説の中にある恵みそのものでしょう。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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