11月の福音のメッセージ

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年間第31主日 ルカ福音19章1〜10
  「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」

jesus  私が聖書の中で好きな人物の一人は、ザアカイです。それとなく、彼が、50代で背が低くて太ってカファルナム銀行の支店長のような人と想像します。彼は、お金があり高名でしたが寂しかった。何故なら、彼は徴税人だったから、皆から冷たい目で見られたのでしょう。町の人々は、彼のお金を尊敬したけれども、彼自身を愛していませんでした。むしろ、軽蔑していました。 ザアカイは、イエスについていろいろなことを聞いたので、イエスをぜひ見たいと思いました。イエスは人気者になったので方々から来た人々が、イエスを囲んでいましたた。ザアカイは背伸びしても前の人にさえぎられて、イエスを見ることができません。ザアカイは思い切って、イエスが通るはずの道の所の木に登りました。きっと、彼は、子供らにからかわれたでしょう。しかし、ザアカイはイエスを見さえ出来たら、そんなことは気になりませんでした。 イエスは、その場所に着いて、足を止めて、木のはるか上を見上げて、ザアカイの名前を呼び、あげくに「今日、ぜひあなたの家に泊りたい」と言いました。ザアカイは感動して木から落ちるところでしょう。 ザアカイはイエスの暖かさに応えて、「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施し、また、誰かからだまし取っていたらそれは4倍にして返します」と言いました。 その時から、イエスはエリコに行く度に、きっと友だちであるザアカイの家に泊ったでしょう。
 この物語を読むたびに、イエスとザアカイの2人の寛大な心の競争を感じます。ザアカイは、イエスを見るために、走ったり、木に登ったりし、イエスはこれに応えて、ザアカイの名前を呼んで、彼の家に泊った。その上、ザアカイは、新たにそれに応えて、寛大に自分の財産の半分を貧しい人々に、そして、だまし取ったお金を4倍にして返した。
 悪循環とは、次々どんどん悪くなってきて、どん底に陥る状態のことです。悪循環の正反対の善循環があります。善循環は、それがどんどんエスカレートすると、すばらしい結果を生み出します。 善循環は、善に向かって今日の話のように競争することでしょう。good から better から best。 (ルイス・カンガス神父)




<年間第32主日 ルカ福音20章27〜38
  「全ての人は、神によって生きる」

jesus  11月はカトリック教会では「死者の月」です。亡くなられた方々のことを想い、祈る月です。教会でも墓地でミサが行われるところもあります。私も先日、墓地のミサに与り、それぞれのお墓の前でお祈りをさせていただきました。そしていつも感じることは何かとてもさわやかな気持ちになれるということです。亡くなられた方々のことを想って祈るとき、その心は届けられている感じがします。そして「祈ってくれてありがとう」という声が聞こえてくる感じもします。互いを思い合う愛の心は死で離ればなれになるのではありません。愛の心は永遠です。同時に亡くなられた方々が私たちに伝えたい一番の思いは、「今を大事に大切に生きてください」ということではないかなと思います。私たちが神様の方に自分の体を向け、神様が望まれる心を生きるように努めていくこと。キリスト教の特徴であり中心は、死を越えた永遠のいのちにあずかる希望があることです。そしてこの希望がこの世において愛を生きる力になります。愛のために自分を捧げていく生き方、その生き方を続けていくこと。イエス様は「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と言われます。復活にあずかるということ、これはこの世を生きている私たちには言葉で表現することは不可能でしょう。でもその希望が与えられていること。そしてその準備はこの世において始まっています。イエス様御自身、苦しみを身に負いながら、苦しみですべてが終わるのではなく、そこから新しいいのちが開かれていくことを身をもって示されました。私たちも今という時が二度とないということを思いながら、今を精一杯生きることができるよう努めたいと思います。それが一番の「死者の月」の過ごし方です。(田丸篤神父)



年間第33主日 ルカ福音21章5〜10
  「あなたたちは、惑わされないように気をつけなさい」

 イエスの誕生、受難と復活を基にする教会の典礼暦が終わろうとしています。来週、典礼暦を結ぶ「王であるキリスト」の祭日を祝い、再来週は待降節に入り、その第1主日から新しい典礼年度が始まります。教会はこれを機会に、イエスが預言された終末(エルサレム神殿と世の終末)を思い浮かべながら、人生の終末について考慮するように私たちを招いています。では、今週、エルサレムの神殿の滅亡から出発してその反省を始めましょう。
 イエスの弟子が見とれていた神殿はどれほど立派な建築だったでしょうか。紀元前966年にソロモン王が建てた神殿は、世界の七不思議の一つだったと言われますが、それは、587年にバビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを征服したとき、全焼しました。バビロン捕囚から帰ったユダヤ人が515年に築いた新しい神殿は、人が見とれるどころか、ソロモンの神殿を思い起こした年配の人たちが涙を堪えられないほどにみすぼらしい建築でした。今日の福音書で弟子たちが感銘しているのは、50年前に大ヘロデが改築を始めた神殿で、まだ工事中でした。やっと、63年に竣工式ができましたが、7年後、70年にローマ人の将軍テイトゥスが、神殿を含め、エルサレム全体を焼き払ってしまいました。
 イエスは、同時に神殿の滅亡、また世の終わりに次ぐ自分の再臨について話しましたが、それぞれの時期を明白にしませんでした。弟子たちは(パウロもそうですが)その二つのイベントをユニットとして聞き取り、空間なしに続くと思っていたようです。したがって、それぞれの福音書において、イエスの言葉は神殿の滅亡、または、主の再臨に当てはまります。ルカ福音書が著されたとき、神殿の預言は実現しましたが、それに次いで世の終わりと主の再臨はすぐ起こるだろうと思われたようです。
 イエスが勧める心構えは、人生の終末に直面する私たちにもぴったり合うでしょう。まず、惑わされないようにして、救いはイエスから求め、財産、名誉、権威、娯楽の虜にならないように注意しましょう。イエスの言葉を聞くと、積極的に平和を目指し、「平和の人」になろうと努めながらも、人間が罪の虜である限り、戦争と暴力などが後を絶たないことを念頭におきましょう。それに加えて、イエスの弟子にふさわしく生きるならば、世からの不理解、憎しみ、迫害を受ける覚悟が必要です。特に苦しいのは、血のつながりのある人から迫害されるということでしょう。イエスの最後の言葉をモットーにして、「忍耐によって、イエスが与えてくださる命を勝ち取りましょう。」
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



王であるキリスト ルカ福音23章35〜43
  「あなたはわたしとともに楽園にいる」

 典礼暦は早くも「王であるキリスト」の主日となりました。今日の福音書場面は、イエスが生涯をかけて伝えようとしたメッセージが凝縮されているように感じます。

罪の中に生き続けた二人の間に、罪を一度も犯すことのなかったイエスが同じように十字架付けられています。それを見て議員達はあざ笑い、兵士達は「他人を救ったのだから、神からの救い主なら、ユダヤ人の王なら、自分を救え」と侮辱の言葉を浴びせます。自分のためには力を使わないイエス。十字架から降りようと思えば降りられるにもかかわらず、十字架から降りないイエス。「お前は救い主ではないか。それならば、自分と我々を救え」と十字架上の一人の悪口を受け止めるイエス。
 私達がつき従おうとしているイエスの中に見る「王であるキリスト=救い主」の捉え方(信仰)が問われる箇所でもあるでしょう。私はここに受動的な弱いイエスではなく、父なる神の御心を行う凛としたイエスを見ます。「私が来たのは自分の意志を行うためではなく、私に与えてくださった人を一人も失わず、子を見て信じるものが皆永遠の命を得るために・・・・」(ヨハネ6:38〜) 
 十字架から降りないイエスに、私達一人一人の罪や苦しみの十字架と共にいて下さるイエスを見、沈黙のイエスに、誰もの心の中にある欲望やエゴの闇に光を与え続け、待つイエスを見ます。十字架上からのイエスのまなざしは、私達が日々の死と復活(闇から光)への過ぎ越しを通して真の命に生き、イエスと出会い、救いのあり方を味わい直す時をもたらしてくれるようにも見えます。
「民衆は立って見つめていた」と始まる今日の箇所。私達は何を見つめるのでしょうか・・・・。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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