5月の福音のメッセージ

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白いもっこうバラ


復活節第5主日 ヨハネ福音13章31〜33a、34〜35
「まず愛」



 アシジのフランシスコは周りの人々から生きた聖人として評価されていた。フランシスコは毎日朝早く修道院を出て夜まで托鉢した。修道院は丘の上にあった。門の前に冷たいおいしい水の泉があった。フランシスコは毎晩疲れて修道院に帰ったときに両手で水を汲んで飲んだ。しかしある金曜日イエスの渇きを考えて汲んでいた水を流して飲まなかった。その時、フランシスコが天を仰ぐといつも見えなかった美しくて大きい星が輝いていた。「神様はこの苦行で喜んだ」と考えた。あれから毎日同じ苦行を繰り返して、水を汲んで、流し そうして星が輝いていた。
 さてある日フライ・レオと言う若い隠遁者はフランシスコに「あなたのようになりたいから一緒に托鉢をさせてください。」と言い、翌日フランシスコとレオは朝から托鉢にでた。レオは何でもかんでもフランシスコはやったように真似した。夜真っ黒になって二人は坂を上って修道院に入ろうとした。フランシスコは両手で泉の水を汲んだ。疲れきっていたレオはこれを見て嬉しそうに顔が輝いた。フランシスコは彼に苦行を教えようと思って水を流すところだった。しかし、フランシスコは「私が飲まないと、疲れているレオも飲まないだろう」と考えた。フランシスコは「苦行より愛が大切だ」と考えて水をがぶがぶ飲んだ。レオも飲んだ。フランシスコは「今日星が見えないだろう」と思って怖る怖る空を仰いだ。天に一つの星の変わりに二つの美しい星が輝いていた。神様は苦行より愛の方を大切にしているとフランシスコは悟った。
 神は愛を持っていることより、「神は愛である」と聖書に書いてある(1ヨハネ4.8)。持つ、たとえば「お金を持つ、家を持つ」。それは、その物を無くすことができる。しかしであることなら無くすことができない。であることは私の本質を表す。たとえば私は人間である。私は日本人である。神は愛を持つということより「神は愛そのものである」。 神のすべては愛である。神に愛を無くすと何も残らない。
 神は愛であるから、神の子である人間の本質も愛であるはずだ(ベネディクト16世。2006,5,15祈祷の使途会についての手紙)。 愛とは相手の立場を取ることです。愛は相手の目で見る、相手の頭で考えることです。 愛によって自分自身から出て、在る程度、相手に受肉することです。愛は自分の全て、自分の命さえも相手に捧げる。「友だちのために自分の命を与えること、これ以上に大きい愛がない「(ヨハネ15.13)従来そこまで愛することをだれも教えなかったから、イエスは新しい掟を与えたと言われました。イエスは私たちを愛して、救うために十字架の上でご自分の命を与えたように、私たちも相手のために同じことをするように促されています。
 互いに。愛は一方通行ではなく往復である。マザーテレサは書いた「愛のないところに愛の種を蒔いてください。かならず相手の心に愛の花が咲くでしょう。」 もしある人は愛していなければ、愛してみてください。かならずかれは愛することになる。
 来週は母の日です。母の愛は神様の愛の表れです。母は自分自身を愛することより、子どもを大切にしています。10歳の白血病で亡くなったあり子さんのお母さんの願望は「あり子の身代わりになりたい」、自分の命を与えてあり子を生かしたい。自分自身の命よりあり子さんの命を大切にしていた渡辺お母さん。「今だかつて神を見たものはない。私たちが互いに愛し合うならば」(1ヨハネ4.12)、他人は私たちを通して神様に出会うでしょう。
 フランシスコの心、イエスの心、渡辺さんの心を持って「まず愛」。  (ルイス・カンガス神父)




子手毬


復活節第6主日 ヨハネ福音14章23〜29
「聖霊に教え導かれながら道を歩む」



 イエス様は言われます。「わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」 この「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」というところが大事なポイントだと思います。 イエス様が与えようとされる平和、世が与えるのとは異なる平和とはどのようなものでしょうか。このことについては言葉をいくら並べて説明しても、説明し尽くせるものではないと思います。その説明を言葉で聞くことよりもっと大事なことは、私たち一人ひとりが実際に体験していくことです。人から教えられてではなく、一人ひとりがイエス様との出会いの体験を通して味わっていくことです。その平和はインスタントに与えられるものではないでしょう。またその平和は受け身で待っていて与えられるようなものでもないということです。深く心の奥底からわきあがってくるような平和、イエス様が示される道に従って歩むその中で少しずつ味わっていく、感じとっていく平和だということ。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」 私はよく、自分が、イエス様がなさったように人を愛していくことができるために、まず自分がしっかりとイエス様の愛を受け止めることが大事だと話すことがあります。そしてそのたとえとして、人は人のやさしさにふれてはじめて人にもやさしくなれるということを話します。イエス様の生き様、十字架の姿、すべての中に込められている私たちへの思い、憐れみ、慈しみ、それを自分の肌で感じ取っていくこと。その愛に包まれる中で自分も人を愛していくこと。 しかしこの事が理解できても具体的な実践につながっていかないことがあるとしたら、その時はどうしたらよいのでしょうか。唯一残された方法があります。それはイエス様御自身がおっしゃっている弁護者、すなわち父がイエス様の名によってお遣わしになる聖霊の助けを願うことです。 聖霊は言葉を換えて言えば神の力です。聖霊に教え導かれながら道を歩むこと、それが今一番大切なことかもしれません。(田丸 篤神父)




露草


主の昇天 ルカ福音24章46〜53
「主はご聖体の形で私たちと一緒に残られる」



 きょう私たちが記念しているのは、イエスの生涯の最後の場面、すなわち、御父によって世に遣わされたイエスが父のもとに帰られるという場面です。マタイとヨハネの福音書はそれにふれず、マルコはただ言及するだけですが、ルカは福音書においてだけでなく、特に使徒言行録にも(1.3−11)それについて話しています。
 ルカ福音書の話は非常に短く、初代教会の歴史を書きとめようと計画したルカは、イエスの生涯の最後のイベントをまとめ、ユニットとして復活の日に詰め込んでいるかのように見えます。魚を召し上がるイエスを見た弟子たちは、やっと主の復活を認めましたが、イエスは、聖書の言葉で彼らの信仰を支えた後、父が約束された聖霊の力を受けるまで、エルサレムにとどまるように命じられます。そして、晩餐の広間を出て、弟子たちと一緒にベタニアに向かっている途中、彼らを祝福しながら天に上げられます。
 ルカはあらためて、使徒言行録の冒頭に主の昇天を取り上げますが、より細かくその場面にふれます。まず、昇天が起こるのは復活の日ではなく、40日後の日、イエスが弟子たちに何度も現れたあとの日です。ルカ福音書にもあるように、エルサレムにとどまり、聖霊の降臨を待つよう、イエスは弟子たちに命じられますが、聖霊についての話はいっそう細かくなります。また、ベタニアへ行く途中の話し合いが載せてあり、主を弟子たちの目からさえぎる雲、また最後に、エルサレムに帰るように弟子たちを招く2人の天使の出現も記録されます。
 きょうは大きな喜びの日です。天に上げられるイエスは見えなくなったのですが、ご聖体の形で私たちと一緒に残られます。そして、小さな共同体であっても、信者たちの間におられますし(マタイ18.20)、自分を愛している弟子たちのところに行き、一緒に住まわれます(ヨハネ14.23)。天に上げられるイエスの栄光を楽しみながら、私たちと一緒に残られた喜び、信仰のもたらすその喜びを精一杯味わいましょう。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)




スノーボール


聖霊降臨の主日 ヨハネ福音14章15〜16、23b〜26
「恐れず心を開き復活の主と共に生きよ」



 今日は聖霊降臨の主日、大祝日です。御父から放たれる神の霊(神の息):聖霊は、父と子と共に礼拝される三位一体の神です。その聖霊が使徒たちにも降り教会が誕生します。勿論、教会とは建物ではなくエクレシア=「集められた神の民」を意味するもので、まさにその霊が、今日に至るまで私達にも吹き注がれ、常に神に立ち帰るよう、魂に命の力を与えてくださっているのです。
 今日の福音は、イエスの復活後の弟子達の様子とイエスからの派遣の託しが語られています。弟子達はユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけてこもっていると、そこへイエスが真ん中に立ち「あなた方に平和があるように」といわれます。
 私達にも、何かを恐れて自分の心に鍵をかけて、外との交流を遮断してしまう時がないでしょうか? 人との交流だけでなく、神との出会いをも閉ざしてしまう時が・・・。 また、自分の力だけではどうすることも出来ない時もあります。 しかし、だからこそ、イエス自ら私達の真ん中に立って、魂に命を与え真の平安に導こうとしてくださっているのです。 私達は、個人としても共同体としても弱さをもっています。その弱さを知り、助け、何をどう祈ったらいいのかを、常にとりなしておられる聖霊がいてくださるのです。 恐れず心を開き復活の主と共に生きよ!そして、互いに生かし合う愛と赦しに生きよ!と、復活のイエスは、命へ生きる息を吹きかけてくださっています。 私達は、御父から頂いている「主の平和」への命に生きる者・運ぶ者として集められた民なのです。
(イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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