3月の福音のメッセージ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。



四旬節の祈り

四旬節第2主日 ルカ福音9章28b〜36

 今日の福音の場面は、イエスの"ご変容"という不思議な箇所です。
 聖書の中でイエスが祈られるとき、必ず一人静かな場所で、祈られている様子が描かれます。なかでも何か重大なこと、弟子たちにどうしても伝えなければならないことが起こった場合、弟子のうちの特に信頼している三人の弟子を連れて、山あるいは静かな場所へ行かれます。
 今回の場面はその重大なときを指しており、弟子の三人をつれて山へ行かれました。そして、目的地に着くとイエスは、弟子から離れ一人祈り始めました。それを見ていた弟子たちは、イエスの着ていた服が真っ白に輝き、驚いたと描写されます。この"真っ白に輝いた"とは、イエスの服そのものが輝いたと言うのではなく、神の子イエスの内面的な輝きをこのような言葉で表現したと言えるでしょう。つまり、傍にいた弟子たちは、イエスの神々しさを感じさせられたと言うことではないでしょうか。同時にその時、弟子たちは睡魔に襲われたと記述されます。これは、その睡魔が弟子たちの心の目を閉じてしまったと言うことです。恐らくペトロは、睡魔に襲われて朦朧としている中イエスが、他に光り輝く二人の人と話しているのを目前にします。すると何を思ったか、彼らが立ち去ろうとするのを感じ取り、「行かないで」と言わんばかりにペトロは「仮小屋を三つ建てましょう」と思わず口走るのです。ペトロにはこの時、未だことの重大さが理解できていなかったのです。そのうろたえているペトロと弟子たちに「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という天からの声が響きます。その声は、"イエスは弟子たちが考えているような人"ではなく、"神のみ旨を使命とする従順な選ばれた者"なのだと言うことを伝えます。
 この天から弟子たちへ降った声、それはこの世に栄光を求め、またこの世に栄光を留めるのではなく、エルサレムに向かうイエスに従順に従いなさいという弟子たちへの忠告であり、また招きでもあるのです。つまり声が聞こえたときすでに、輝くもう二人の姿はなく、イエス一人であったと言うことは、弟子たちが従う人は、言わずもがなこの人"イエスですよ"と言うことです。天からの声は、さらにイエスが、これから担うべき受難と十字架、これも神のみ旨であると言うことを、弟子たちに"ご変容"をとおして伝えることを意図していると言えるでしょう。
 もしわたしたちが弟子の一人だったら、そこまで理解できるでしょうか・・・。深いですね。



区切り線


四旬節第3主日 ルカ福音13章1〜9

 四旬節は自分と神様との関わりをもう一度振り返ってみるときと言えるのではないかなと思います。しかし自分と神様との関わりを振り返ると言っても具体的どうしたらよいかわからないというのが私たちの正直な思いではないでしょうか。それで少し具体的なヒントとなるようなことを一緒に考えたいと思います。今日の福音では、神の姿とその心を、もう一度思い浮かべ味わい直す大切さが示されています。イエスは「実を結ばないいちじくの木」のたとえを語って、すべての人の悔い改めを忍耐強く待ち続ける神の姿を示します。園丁は3年待った主人にもう1年の忍耐を求めます。それほどまでにこの実らないいちじくの木を慈しんでおられるからです。悔い改めない人間を前にして神は葛藤を覚えられます。そしてこの葛藤こそが神の愛ではないでしょうか。滅ぼすことがおできにならず、やはりもう1年待ってみようと思い直し続けておられるということ。そんな神の心と思いに私たちが気づくことができるかどうか。真の回心は、まずこの神の心にしっかりふれることから始まると思います。自分も実をなせないいちじくの木の一つだと思い、それでも神は切り倒さず待ち続けてくださっていることを思い、自分のあり方を見つめ直していくこと。もう1年待ってくださいと主人に懇願してくださる園丁。私たちにとってこの1年をどのように使って過ごしていくか、神の忍耐をいかせるかどうか、それが今問われています。



区切り線


◆四旬節第4主日 ルカ福音15章1〜3、11〜32

 きょうの福音書の『放蕩息子』のたとえについて、聞いたことがありますか。ルカ福音書の時代に著された『法華経』(第3、譬兪品)にも似たたとえが載っています。 たとえの父親は、私たちの父である神を象徴し、実家を出た弟は、神に背いて神から離れてしまった罪人です。はじめにゆっくりと福音書を読み、その後、たとえから学べるいくつかの点にふれましょう。
 まず父親は、自立を求めて家を出たい息子の自由を妨げません。心が痛んだでしょうが、弟が自立できるように、財産を二人の息子に分けます。神のみ心は、罪を犯して神から離れようとする人に対しては、同じ態度です。罪人の自由を拒まず、自立できるように、父なる神はその人の命、健康、能力などを支えて下さいます。私たちも、相手の自由を尊敬するようにと、神の呼びかけです。
 放蕩息子はやっと実家に帰ることにしました。世間をなめていた幾多の辛酸は、回心への刺激となったでしょう。帰って父の赦しを求めるのは、放蕩息子だけの自由な決定です。家出と同様に、帰郷も自由です。悔い改める罪人のことも同じことになります。その人を回心へ招かれる神は、回心を助ける辛苦をなめさせられますが、最終的には、おん赦しを願うのは人間の自由な決定です。
 たとえを読み返してみると、最も印象的な箇所は、子どもを迎える父親の場面です。親子の再会で喜びに満たされるのは、どちらかと言えば、お父さんの方です。父は子どもの首を抱き、接吻し、ただ子どもを赦してあげるだけではなく、放蕩息子の帰りを祝うために大判振る舞いの祝宴を開きます。 私たちの天のお父さんと同じです。イエスが言われたように、「悔い改めた一人の罪人については…大きな喜びが天にあります」。残念ながら、お兄さんは弟を赦さず、厳しい言葉で彼を非難し、赦してあげた父親に対してさえ、恨みを吐きます。現代にも、罪人に対してその態度をとるキリスト者がいるとは言えないでしょうか…
(J.M.バラ記 ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



区切り線


◆四旬節第5主日 ヨハネ福音8章1〜11

罪を犯したことのない者が石を投げなさい
 四旬節最後の日曜日。今日の福音は、人間の心の奥底に横たわっている深い闇と、だからこそ共にいて真の命へと運ぼうとされる神様の『深き愛とゆるし』が聴こえてくる箇所です。
イエスの前に姦通の現場で捕らえられた一人の女性が連れて来られる。イエスを罠にかける機会を狙っている律法学者たちの悪意と、誰をも命から生かそうとするイエスの計らいとが絡み合っている場面。 姦通はモーセの律法によれば石殺しの刑。イエスが赦せばユダヤ教と律法の権威否定につながり、石殺しの刑を承諾すれば今まで説いてきた神の御心矛盾となる。イエスは何も言わず、うつむいて地面に指を走らせる。地面に文字を書く動作には様々な解釈がなされてきているが、イエスの当惑や迷いを意味しない。
姦通をするに至った事情、逆に権力や虚栄に依存する心理状態や背景...
 人は誰でも、生きてきた様々な個人の歴史を背負って、今に生きている。そして、誰もが心の奥底に光と闇が混在している領域を持っている。イエスは、その人の領域と共に生きて下さる方。
『罪を犯したことのない者が石を投げよ』 人の過ちを赦すことができない心は、こんな私を愛して下さっている神様に石を投げること。 いつでも、真の命へ生きる道を開いて下さるイエスの『愛とゆるし』が聴こえてきます。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)


Topへ

ご覧になった後はウィンドウの閉じるボタンで閉じてください。