6月の福音のメッセージ

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三位一体の主日 ヨハネ福音16章12〜15
「大自然を通して神の愛を読み取る」

 先日、わたしは自分の部屋に入ると机の上に美しいシクラメンが置いてあった。すぐに誰が送ってくださったでしょうかと知りたくて、つけてあった名刺を読んで嬉しかった。送ってくれた友達に最後に会ってから、もう既に10年経っていた。にもかかわらず、彼はまだわたしのことを忘れないで、大切にして下さることを感じて嬉しかった。 その日から、私は部屋に入るたびに、きれいなシクラメンを見て喜び、また、それ以上にわたしに友だちの愛を思い出させて下さった。 机のシクラメンは、わたしに二つの喜びを与えて下さった。
三位一体  この地球、この宇宙はすばらしい。そして、美しい。ナショナル・ジオグラフィックの雑誌に書いてあるように、私たちの銀河は、数千億の私たちを照らすような太陽を持っている。ディスクの形をする銀河の直径の長さは、10万光年である。無限な銀河。しかし、宇宙には、銀河のような星雲が、数百億もある。天文学者によると、私たちの無限の銀河は、宇宙の数百億の星雲と比べると、何もないに等しいと言われる。確かに、数百億円の大金を、ただ1円と比べると、1円は何もないのと同じである。これは、ミクロ・コスモスの世界で、同じ無限の現象を表している。
 典礼は、今日までキリストの誕生・受難・復活・聖霊降臨などを祝ってきました。今日、三位一体の祝日は、今まで祝ってきた全ての祝日のまとまりで神様の祝日である。 信仰を持っていない人は、もらったシクラメンの美しさを見て喜び、宇宙のすばらしさを感動するかもしれません。しかし、信仰者、つまり、全てが神につくられたことを信じる人は、すばらしい大自然、無限な宇宙を見て感動すると同時に、その中に神の愛を見て、もっと喜びます。 信仰者は、大自然を喜ぶ、そして、大自然を通して神の愛を読み取ります。信仰者は、全てにおいて神の愛をみて、普通の人より2倍か3倍、この世を見て喜んでいる。信仰者にとって、全ては、自分自身に贈られたラブレターだと分かって喜んで生きている。(ルイス・カンガス神父)




キリストの聖体 ルカ福音9章11b〜17
「恵みの運び手となる」

 5つのパンと2匹の魚でどうやってこれだけの人々を食べさせることができるだろうか。 二匹の魚と5つのパン これは弟子たちの正直な思いだったと思います。 5つのパンと2匹の魚しか持ち合わせていなかった弟子たちは、「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様から言われたとき、どうすればよいか途方に暮れたにちがいありません。 しかし5つのパンと2匹の魚という貧しい現実をイエス様に委ね、再びイエス様から受け取ったとき、受けた恵みを次々と人々に運ぶ者になります。そしてその配られた神様からの恵みは尽きることがありませんでした。人間である私たちが恵みを作り出すのではなく、自分の貧しい現実をイエス様に精一杯委ね、そしてそれを再び受け取るなら、この弱い小さな自分が神様の恵みの分配者になれるということ。
 今日の場面で私たちが学ぶべきことを整理してみるなら、日常生活の中で途方に暮れたとしてもお委ねしてみようと思うこと。イエス様は神様の恵みをもたらす前に、まず天の父に祈られたということ。私たちの役割は、限られた小さなものを神様に差し出し、それを神様から再び受け直してその与えていただいたもの、すなわち恵みの運び手になること。私たち自らが恵みの作り手になるのではないこと。弟子たちのように日常の世界だけに目を向けないこと。神様がお考えになられる恵みの世界があること。その神様の恵みの分配者としての働き手として私たちは招かれていること。イエス様が実際に弟子たちにパンと魚を人々に運ばせられたように。日常生活の中で限界との直面、委ね、祈り=御父との交わり、神様から再び与えていただくこと、その恵みの運び手に自分がなっていくということ。このような生き方こそ私たちが神様から招かれた生き方ではないかと思います。時々道が見えなくなってしまう私たちにとって今日の福音の場面が語るメッセージは大きな光になると思います。 (田丸 篤神父)



年間第11主日 ルカ福音7章36〜50
「赦された罪の淵から愛の絶頂に上がる」

 きょうの福音書のエピソードは非常に印象的です。町で売春婦として知られている女がファリサイ派の偉い人物シモンの家に来て、許可を求めずにイエスが参加している宴会の広間に突入します。あっけにとられた客たちは、彼女をじっと見つめています。イエスの足元にひれ伏した彼女は、イエスの足を涙で洗い、髪の毛で拭い、そして、懐から高価な香油に満ちた壷を出し、全部イエスの足の上に注ぎます。似た場面はマルコとマタイとヨハネもそれぞれの福音書にもありますが、その土台となる史実は一つなのでしょうか。そう考えている聖書学者がいますが、史実が一つであっても、福音著者がそれぞれの地方教会の伝統を基にして史実を取り上げているものですから、四つの福音書の間に違いが表れるのは当然だと言えます。
 確かにその違いは多いです。ルカの婦人は罪深い売春婦で、他の三人の福音著者の女は、ラザロの信心深い姉妹マリアです。ルカの舞台はガリラヤですが、他の福音書にはエルサレムに近いベタニアです。目立っている他の違いもあるので、多数の聖書学者は、土台の史実は一つではなく、二つだろうと思っています。二つであっても、その間に互いに影響がないとは言えません。ルカとマルコの接待役は同じ名前のシモンです。
Annoite_Jesus  エピソードの史実は一つか二つか別として、きょうの福音書の夫人に目を留めましょう。売春婦として知られ、シモンとその仲間たちに軽蔑されると分かっているこの婦人は、どうしてイエスのいる場所に来たのでしょうか。イエスから赦しを受けるためでしょうか。そうではありません。いつ赦されたか私たちには分かりませんが、今の彼女は、もう赦されている確信を持っています。今イエスの足元にひれ伏している彼女は、イエスによって赦されるためではなく、イエスに感謝するために来ました。多くの罪を犯したこの婦人は、赦しと共に、罪からの解放、自己尊敬、心の平和、清い心を持って生きる喜びを感謝しています。彼女の愛の表現は派手すぎると思われるでしょうが、その過去と性格のある人には、愛を表す表現はそれしか考えられないでしょう。
 私は、この場面を観想するたびに、教会の「O felix culpa」(幸せをもたらす罪)の言葉を思い出します。彼女は、赦された罪がきっかけとなり、罪の淵から愛の絶頂に上がってきました。罪人である私たちも、イエスの赦しを本当に信じている人ならば、同じ体験を身につけることができないでしょうか。
(J.M.バラ神父(現:益田教会) ご意見のある方は、E-メール xavier@c-able.ne.jpへ)



洗礼者聖ヨハネの誕生 ルカ福音1章57〜66、80
「自分の荒れ野に生き、主の道を歩む」

荒れ野での洗礼者ヨハネ  今日の第四主日典礼は、洗礼者ヨハネの誕生を記念しています。教会典礼では、聖人祝日が日曜日と重なった場合、大聖人であっても主日の典礼が優先されることになっているので、今日は数少ない例外典礼でしょう。ここに、洗礼者ヨハネという人物が、キリスト教会にとって要的役割を果たしたことがうかがえます。
 今日の福音では、み使いによってザカリアに告げられた神の救いの計画第一歩となる出来事が、子の誕生と命名とに関連していることが述べられています。人々は、エリザベトが男の子を産んだことを、神の慈しみが示されたと、そして、命の誕生の奥にある神の計らいの深さを賛美したり、ザカリアが「ヨハネ:名の意味=神は慈しみ深い」と告げた時、畏敬を抱き、起きた出来事を心に留めました。
 彼ヨハネの誕生は、単にザカリアの子としての生涯を送るためでなく、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる」という使命をもって生まれてきました。故に救いの計画の第一歩は、名の襲名「ザカリア」でなく、神からの命名「ヨハネ」にあると私は読み取っています。
 そして、今日の福音の結びの箇所「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」この一節に注目しましょう。 荒れ野とは神との出会いの場です。私達の内的成長はこの「荒れ野」の中で営まれていきます。
 人々が、ザカリアとエリザベトを通して感じ取った出来事の奥にある人生の意味や深みを心に留めながら過ごしたように、一人一人が神との出会いの場「自分の荒れ野」に生き、他者と分かち合いながら主への道を歩んで行きたいと、今日の洗礼者ヨハネの誕生記念日を新たな一歩に!と思います。 (イエズス孝女会 Sr.小野恭世)



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